第57話 ネギラーメンと移転価格税制
時刻は午後1時30分。窓口業務のピークが過ぎた、遅めの昼休み。
新宿のコンクリートジャングルを照りつける午後の日差しは容赦なく、アスファルトから立ち上る陽炎が視界を微かに歪ませていた。
高木は新宿区役所から大通りを一本裏に入った、細い路地を歩いていた。目指すのは、赤い暖簾が風に揺れる年季の入ったラーメン屋だ。洒落た装飾やBGMなど一切ない、ただひたすらにカロリーと塩分を求める者だけが吸い込まれていく、飾り気のない空間である。
油で黒ずんだガラス戸を引き開けると、店内の冷気と共に、豚骨特有の強烈な獣臭と醤油ダレの焦げる匂いが、むせ返るような熱気となって押し寄せてきた。
床は長年の油跳ねで微かに滑り、L字型のカウンター席のみの狭い店内には、作業着姿の男たちや、夜勤明けと思われる冒険者たちが等間隔に座り、黙々と自身の丼に向かっている。店内に会話はなく、ただ麺をすする音と、厨房の換気扇が回る重低音だけが響いていた。
高木は入り口横の小さな券売機に硬貨を投入し、「ネギラーメン」と「中盛り」のプラスチック製の食券を購入した。
「いらっしゃい! お好みは?」
「麺固め、脂多めで」
食券をカウンターの高台に置き、高木は無言で備え付けのコップに冷水を注いだ。
厨房では、頭にタオルを巻いた大将が平ザルを使ってリズミカルに湯切りをしている。数分と経たないうちに、「お待ち!」と威勢の良い声と共に、高木の目の前にずっしりと重い丼がドンと置かれた。
豚骨と鶏ガラを強火で長時間炊き出し、髄の旨味を極限まで抽出した微乳化スープ。その表面を、ギラギラと蛍光灯の光を反射する分厚い液体油の層が覆っている。
中央には、ごま油と特製スパイス、そして細かく刻まれたチャーシューと共に和えられた大量の白髪ネギが、丼の縁を遥かに超えるほどの高さにこんもりと盛られていた。
高木は割り箸を割る前に、迷わず卓上に置かれたプラスチックの容器を引き寄せた。
蓋を開けると、空気に触れてわずかに黄色く変色した、強烈な刺激臭を放つ「すりおろしニンニク」がたっぷりと入っている。高木は備え付けの小さなスプーンを手に取り、山盛りのニンニクを1杯、2杯、3杯と、一切の躊躇なくスープの中心へ投下した。
レンゲを使って、底からスープをゆっくりとかき混ぜる。熱いスープに生ニンニクが溶け込むことで、豚骨の獣臭とニンニクの暴力的なまでの香りが化学反応を起こし、周囲の空気を一気に支配した。
高木は箸を深く差し込み、極太のちぢれ麺を底から引きずり出して天地返しをする。茶色い醤油の色に染まった麺に、シャキシャキのネギとニンニクをたっぷりと絡め、一気にすする。
――強烈なパンチ。
塩気の強い醤油ダレと、豚骨のどっしりとした旨味。ごま油の風味を纏ったネギの辛味。そして何より、生のニンニクが放つビリビリとした刺激が、舌から脳髄へと直接突き抜けていく。
上品さや繊細さなど欠片もない。だが、疲労した身体と脳に強制的にエネルギーを叩き込み、戦闘態勢を整えるには、これ以上の劇薬はなかった。
額にじわりと汗を滲ませながら、高木は無心で麺を胃袋へと流し込んでいく。額から落ちた汗がネクタイに染み込むのも構わず、ただひたすらにカロリーを摂取するという作業に没頭する。ドンブリを持ち上げ、スープの最後の一滴まで飲み干し、コップの氷水を一気に呷って体内の熱を冷ました。机の上のティッシュで口元を乱暴に拭い、立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
高木は短く声をかけて席を立ち、午後の戦場へと向かうべく店を出た。
★★★★★★★★★★★
区役所に戻った高木は、来庁者で混み合うエレベーターを避け、階段を使ってダンジョン管理課のあるフロアへ向かった。
窓のない無機質な階段室には、高木の革靴がコンクリートを叩く硬質な足音だけが反響している。何層分もの階段を休むことなく上りながら、ポケットから取り出した強めのミントタブレットを3粒まとめて口に放り込み、噛み砕く。強烈な清涼感が口内に広がるが、胃の奥からこみ上げてくるニンニクの匂いを完全に消し去ることはできないだろう。しかし、そんな体裁を気にしている余裕はなかった。
パーテーションで仕切られたダンジョン管理課のバックヤードに入ると、そこにはパイプ椅子に深く腰掛け、2本目のミネラルウォーターを飲み干している安藤まひるの姿があった。
いつものオフィスカジュアルではなく、防刃繊維のインナーと軽量の革鎧を身につけた、冒険者としてのフル装備だ。その頬には岩で擦りむいたような微かな傷があり、衣服のあちこちがダンジョン特有の湿った土と埃で汚れ、わずかに火薬の焦げたような匂いが漂っている。膝当てにはモンスターのものと思われる紫色の体液がこびりついており、先程までの潜入がいかに過酷だったかを物語っていた。
彼女の呼吸はまだ少し荒かったが、その瞳には危険な任務を完遂した直後のような、強い光が宿っていた。
「お疲れ様。ヒカル子君から連絡は受けていたが……無事で何よりだ」
高木が声をかけると、まひるは弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。
「すみません、主任。戦闘になっちゃって……でも、証拠はしっかり撮ってきました」
まひるは首から下げていた小型のウェアラブルカメラを外し、高木に手渡した。
「ヒカル子ちゃんが機転を利かせて、隠し通路に引き込んでくれなかったら、マジで危なかったです。あの白人男性、魔法の出力と精度が常軌を逸してました。あれは普通の冒険者じゃない、完全にプロの傭兵か暗殺者です」
「やはり、武力による排除も厭わない組織というわけか。……よく生還してくれた。満点以上の働きだ」
高木はカメラを受け取り、自身のパソコンのUSBポートに接続した。厳重なセキュリティソフトのチェックを経て、暗号化された動画データが画面に展開される。
高木が再生ボタンをクリックすると、モニターにまひるの視点から撮影された映像が映し出された。手ブレ補正がかかっているとはいえ、彼女の緊迫した呼吸に合わせて細かく揺れる画面には、ダンジョン第12階層の薄暗い岩肌が映っている。
そして、岩壁に巧妙にカモフラージュされた強固な魔力障壁の向こう側に広がる、巨大なプレハブ倉庫群。
映像の中のまひるは、見張りの男たちの死角を縫うように移動し、倉庫の小窓から内部を撮影している。高木はマウスを操作し、映像を拡大したりコマ送りしたりしながら、倉庫内の状況を詳細に確認していく。積み上げられたパレットの数、コンテナに印字されたロットナンバー、さらには巡回している見張りの人数と武装の程度。まひるのカメラワークは素人ながらも、必要な情報を的確にフレームに収めていた。
「……これは、想像以上だな」
高木はモニターを見つめたまま、低く呟いた。
薄暗い倉庫の内部には、区が規定する保管上限を遥かに超える莫大な量の『魔石』が、幾つもの木製パレットの上に山積みになっていた。それも、下層の強力なモンスターからしか採取できないような、純度を示す赤や紫の強い輝きを放つ高品質なものばかりが、無造作にコンテナに詰め込まれている。
「ええ。市場に出回れば数十億、いや百億円以上の価値になるはずの魔石です。あいつら、自分たちの豊富な資金力で市場の相場をいじって安く買い叩いた魔石を、全部あそこに隠し持ってるんです」
そこへ、バックヤードの自動ドアが重々しい音を立てて開いた。
「……ちょっと、乾三くん。あなた、お昼に何食べたのよ。ここ、一応は区役所の執務室よね? すごいニンニクの匂いが充満してるんだけど」
呆れたような声と共に現れたのは、新宿税務署の特別国税徴収官、宮本マリだった。今日は仕立ての良いネイビーのパンツスーツを隙なく着こなしているが、顔をしかめて鼻の前でパタパタと手を扇いでいる。ヒールの硬い音が、バックヤードの静寂を破った。
「ネギラーメンにニンニクを少々。これからの持久戦に向けて、スタミナをつけておこうと思ってね」
「少々のレベルじゃないわよ……まあいいわ。それより、例の映像は撮れたの?」
マリは高木のデスクの隣に立ち、モニターを覗き込んだ。
その瞬間、彼女の顔から「匂いに文句を言う知人」の表情が完全に消え去り、国税徴収官としての冷徹で鋭利な眼差しへと切り替わった。
「……なるほど。これが、彼らが帳簿外でプールしている魔石の現物ね」
高木はキーボードを叩き、映像を一時停止した。そのまま別のモニターへ視線を移し、国税局のデータベースとリンクしている専用端末から、『グローバル・コア』日本法人が税関に提出した直近の輸出申告書のデータを呼び出し、並べて表示させた。画面上に羅列された無味乾燥な数字の羅列と、動画の中で生々しい輝きを放つ魔石の山。
「表の書類上は、彼らは先週の『相場が暴落した日』に、買い集めた魔石のほぼ全量を、海外のグループ企業に輸出販売したことになっている。だが実際には、これほどの量がまだ国内のダンジョン第12階層にストックされている。書類上の数字と、物理的な現物が完全に矛盾している」
マリは腕を組み、細い指先で自身の顎をトントンと規則的なリズムで叩いた。
「典型的な移転価格操作のスキームね。独立企業間価格とのズレを客観的に立証して、重加算税を含めて追徴課税するわ」
まひるがパイプ椅子から身を乗り出した。
「でも、魔石の相場自体を彼らが強大な資金力でいじってるんですよね? だったら、何が『適正な価格』なのか、私たちが証明するのは難しくないですか?」
「ええ。相手には国際税務を熟知した超一流の弁護士や税理士がついている。計算根拠に少しでも隙があれば、裁判で確実にひっくり返されるわ」
マリはモニターに映る映像の右下に刻まれたタイムスタンプを指差した。
「彼らが輸出申告を行った日付と、この映像が撮影された今日の日付。彼らは『すでに安値で輸出した』と公的な書類で申告しているのに、現物はまだ日本のダンジョン内にある。物理的な矛盾よ。この証拠があれば、確実に帳簿をひっくり返せる」
マリはモニターの数字を睨みつけ、凄絶な笑みを深くした。
「不当に圧縮された税金は、全額国庫に還収させてもらうわ」
高木は深く頷き、複数のウィンドウを同時に立ち上げた。
「区内の物流倉庫と車両の運行記録を洗い出そう。ダンジョンからこれだけの莫大な量の魔石を地上へ運び出すには、自社だけでは不可能だ。必ず国内の運送業者や関連する下請け企業が動いているはずだ」
「そういうこと。国税局の国際課にはすでに協力を要請してあるわ。海外の税務当局とも租税条約に基づく情報交換ネットワークを使って、彼らのタックスヘイブンにあるペーパーカンパニーの金の流れを挟み撃ちにする。国内の物理的な足跡は、区のデータベースが一番早いわ」
マリは高木を見た。
「乾三くんは、区の権限で国内の物流を洗って。怪しい施設が特定でき次第、即座に立入検査の準備を進めてちょうだい」
「了解した」
高木はキーボードに両手を置き、静かに叩き始めた。行政の保有する膨大な交通データ、車両登録情報、そしてダンジョン周辺の監視カメラのログ。アクセス権限のパスワードを次々と入力していく。
「私も手伝います!」
まひるが力強く声を上げ、自身のデスクに向かった。
「窓口で怪しい輸出申請をしてきた業者のリスト、全部頭に入ってます。片っ端からシステムの履歴と突き合わせて裏付けを取りましょう」
彼女は自身のPCを立ち上げ、すでに窓口業務のデータベースへとアクセスを始めていた。泥だらけの革鎧を着たまま、その表情は完全にダンジョン管理課の職員の顔に戻っている。
「ああ、頼む。彼らの足元を物理的にも切り崩すぞ」
高木はモニターに表示された膨大な行政データの海へ視線を向け、無言でタイピングの速度を上げていった。




