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新宿区役所ダンジョン管理課 ~魔法ゼロの筋肉公務員は、六法全書と税法で悪質冒険者を合法ざまぁします~  作者: 伊達ジン


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第58話 ペーパーカンパニーの証明と棒茶の香り

 午後8時。高木の1LDKのマンションは、日中の区役所での激務と喧騒から完全に切り離された、静寂と穏やかな生活の気配に包まれていた。

 部屋の隅に置かれたキャットタワーの中段では、マンチカンのベルとブリティッシュショートヘアのアッシュが、体を寄せ合うようにして丸くなり、静かな寝息を立てている。微かに上下する二つの小さな毛玉を一瞥し、高木はワイシャツを脱いで無地の黒いエプロンを身につけた。


 キッチンの前に立ち、丁寧に手を洗ってから調理の準備に取り掛かる。

 手元にあるのは、仕事帰りにスーパーで購入した特売の絹ごし豆腐だ。パックから取り出して大きめのボウルに移し、泡立て器を使って形がなくなるまで滑らかに崩していく。大豆の素朴な香りがふわりと立つ中、そこに溶き卵を1個分、白だし、そして少量の水を加えて手早く、かつ均等に混ぜ合わせた。豆腐の白と卵の黄色が混ざり合い、淡いクリーム色の液体へと変わっていく。それを二つの深めの耐熱容器に均等に注ぎ分け、表面が波立たないようにふんわりとラップをかける。電子レンジの出力を低いワット数に設定し、卵のタンパク質が急激に固まりすぎないよう、時間をかけてじっくりと熱を入れていく。


 豆腐を加熱している間に、隣のコンロで特製のソースを作る。

 小さなフライパンに、手で細かくちぎった数枚の焼き海苔を入れる。そこに水、醤油、みりん、そしてほんの少しの酒を加え、ごく弱火にかけた。アルコールが飛ぶツンとした匂いの後に、醤油とみりんの甘辛い香りが立ち昇る。木べらでフライパンの底をこするように静かに混ぜながら煮詰めていくと、海苔が水分と調味料を吸ってドロリと溶け、あっという間に自家製の海苔の佃煮風ソースが完成した。キッチン全体に、食欲を強く刺激する濃厚な磯の香りが立ち込める。


 レンジが電子音を鳴らし、加熱が終わったことを知らせた。

 庫内から取り出した耐熱容器の中では、豆腐と卵が見事に融合し、ふるふるとした茶碗蒸しのような仕上がりになっている。表面はなめらかで、軽く器を揺らすと中心部が微かに震えた。高木はその上に、火から下ろしたばかりの熱々の漆黒の海苔ソースを、スプーンを使ってたっぷりと回しかけた。


 続いて冷蔵庫から取り出したのは、昨夜多めに作っておいた『牛丼の具』の入った保存容器だ。

 蓋を開けると、冷えて白く固まった牛脂が表面を覆っている。それを小鍋に移して火にかけると、チリチリという音とともに脂が溶け出し、醤油と砂糖の甘辛い匂いが濃厚な蒸気となって立ち昇った。一晩冷蔵庫で寝かせたことで、牛肉の脂と玉ねぎの甘みが煮汁の奥深くまで完全に溶け出し、くし切りにされていた玉ねぎは原型を留めないほどに飴色に染まりきっている。あえて温め直すだけの余り物が、初日よりもはるかに深いコクと一体感を生み出していた。

 付け合わせには、冷水に放ってシャキッとさせた後、サラダスピナーで水気を完全に切った水菜のサラダ。そして、えのき茸としめじをたっぷりと入れた熱いキノコの味噌汁を用意した。


 ダイニングテーブルに並べられた、栄養と味のバランスが計算し尽くされた夕食。

 高木はまず、豆腐の茶碗蒸し風にスプーンを入れた。口に運ぶと、豆腐と卵の優しい甘みが広がり、それを追うように自家製ソースの強烈な海苔の旨味と塩気が全体を引き締める。噛む必要すらないなめらかな舌触りが、連日のストレスで疲弊した胃の粘膜を優しく保護していく。

 次に、味が極限まで染み込んだ牛丼の具を白米とともに頬張る。牛肉の力強い旨味と玉ねぎのトロトロとした甘みが口の中で爆発し、間髪入れずに水菜のサラダを口に運べば、シャキシャキとした清涼感が口内をさっぱりと洗い流してくれた。


 完璧な循環だ。高木は表情を変えることなく、無心で箸を進めていく。

 食器を片付け、シンクを綺麗に磨き上げた後、高木はお気に入りの急須に棒茶――茎茶の茶葉を入れ、少し冷ました熱湯を注いだ。湯呑みに注がれた黄金色の液体からは、焙煎された茎特有の香ばしく、どこか甘さを含んだ香りが真っ直ぐに立ち昇る。

 熱い棒茶を一口飲み、ふう、と短く息を吐く。

 胃の腑からじんわりと温まり、高木は静かに思考がクリアになっていくのを感じた。


★★★★★★★★★★★


 翌日の昼下がり。新宿区役所1階、ダンジョン管理課のフロア。

 窓口のピーク時間が過ぎ、少しだけ落ち着きを取り戻したフロアに、場違いなほど明るい声が響いた。


「Kenzo! Mahiru! 遊びに来たヨ!」


 ステッカーが隙間なく貼られたノートパソコンを小脇に抱え、陽気な笑顔で手を振ってきたのは、留学生のクロエだ。


「クロエちゃん。いらっしゃい」


 まひるが立ち上がって笑顔で応える。高木も手元の決裁ファイルをパタンと閉じ、彼女に向かって静かに顎を引いた。


「ウィリアムズさん。遊びに来たと言っているところ申し訳ないのですが、あなたに頼みたい仕事があります」

「Wow。Kenzoから仕事のお願いなんて珍しいネ。免税のトラブルで助けてもらった恩があるから、私にできることなら何でもするヨ。で、モンスターの討伐? それともDチューブでのPR?」


 クロエはウインクをして見せたが、高木は表情を崩さなかった。


「いえ。あなたの『ネットワーク』と『情報収集能力』を貸してもらえますか」


 高木が手元のメモ帳を一枚破り、クロエに手渡す。そこにペンで書かれていたのは、数単語の英字の羅列――『グローバル・コア』が魔石の輸出先として申告していた、カリブ海の租税回避地に籍を置く法人の名前だった。


「この法人の、現地の商業登記簿データを入手したいのです。それと、可能であればオフィスの所在地の『実態』も」


 クロエはメモを一瞥し、真剣な顔つきに変わった。


「タックスヘイブンの企業情報ネ……。国によってはオンラインで公開されてるけど、アクセス制限がかかっていたり、現地の代行業者を通さないと見られないケースが多いヨ」

「日本の行政機関のIPアドレスからアクセスして履歴を残すわけにはいきません。それに、正規の外交ルートで照会をかければ数ヶ月はかかる。相手に証拠隠滅の時間を与えることになります」

「OK。事情は分かった」


 クロエは記載台の隅に自分のノートパソコンを広げ、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。普段の陽気な姿からは想像もつかない、すさまじい速度のタイピングだ。タンッ、ターンと乾いた打鍵音が連続して響く。


「まずは現地の企業登録局のデータベースを叩く。……あー、やっぱりプロキシで弾かれるネ。でも大丈夫、私のアカウントのフォロワーには、現地の事情に詳しいエンジニアがいっぱいいるから」


 クロエは複数のタブを次々と開き、海外の巨大なハッカーフォーラムや、Dチューブの裏コミュニティを通じて、多言語でメッセージを飛ばし始めた。画面上に無数のコマンドラインとチャットウィンドウが並ぶ。数分も経たないうちに、画面の右下に次々と返信のポップアップが表示され始めた。


「Bingo。現地の弁護士事務所のサーバーを経由して、登記データにアクセスできたヨ。今、PDFで落とすネ」


 画面に表示されたのは、公的な印章と英語の細かな文字がびっしりと書かれた登記簿謄本のデータだった。

 まひるがパソコンの画面を覗き込み、目を丸くする。


「……すごい。本当に数分で海外の公的書類を引いてきちゃった」

「それだけじゃないヨ」


 クロエはさらにキーボードを叩いた。


「オフィスの住所、現地のフォロワーに頼んで写真を撮ってきてもらった。Googleのストリートビューは更新が古いから、リアルタイムの画像が一番確実」


 チャットツールを通じて、画面に送られてきた数枚の写真。そこに写っていたのは、立派な高層ビルでも、グローバル企業のオフィスでもなかった。海沿いの古びた雑居ビル。壁のペンキは剥がれ落ち、そのエントランスにある、何十もの会社名が印字されたテプラが乱雑に詰め込まれた郵便受けの一つだった。


「……ポストだけ。従業員が働いているようなオフィスはないんですね」


 まひるが呟く。


「完璧です。ありがとう、ウィリアムズさん」


 高木は短い言葉で最大限の労いを伝え、即座に自身のスマートフォンを取り出した。


★★★★★★★★★★★


 数十分後。区役所のバックヤードにあるパーテーションの奥。

 高木のノートパソコンの画面には、セキュア回線を通じてマリがオンラインで繋がっていた。彼女の手元には、高木が転送したクロエの登記簿データとオフィスの画像がすでに届いているはずだ。


『……なるほどね。笑っちゃうくらい典型的なペーパーカンパニーじゃない』


 画面の向こうで、マリが呆れたように、しかし獲物を確実に仕留める冷徹な目を細めた。画面越しでも、その瞳の奥に宿る国税庁特有の圧が伝わってくる。


『代表取締役の名前は、グローバル・コア日本法人の役員と完全に一致。オフィスの実態は私書箱のみ。こんな会社に、市場価格を大きく下回る金額で魔石を輸出販売している。……これはもう取引ですらないわ。ただの資金の移動よ』


「移転価格税制の適用、および重加算税の対象として立証可能ですか」


 高木の問いに、マリはフッと、冷たい笑みを浮かべた。


『余裕よ。実体のないトンネル会社への不自然な輸出は、完全な利益移転と見なされるわ。これで、奴らの主張する適正価格の根拠は根底から崩壊したわね』


 マリは手元の万年筆を指先でクルリと回した。


『国税局の査察部と連携して、滞納処分免脱罪を視野に入れた事前保全に動くわ。海外に資金を逃がされる前に、国内の関連口座と資産をすべて差し押さえる』


「頼もしいですね」


 高木は静かに頷いた。


「……すごい」


 まひるが、信じられないものを見るような目で高木と画面のマリを交互に見つめる。


「まだだ、安藤さん」


 高木はモニターから視線を外し、極めて事務的な、しかし確かな冷たさを帯びた声で告げた。


「証拠が揃っただけでは、彼らは背後にいる政治家や官僚の力を使って揉み消しを図るだろう。我々が用意したこの『事実』を、彼らが絶対に無視できない形で突きつける必要がある。次の一手の準備にかかるぞ」


 時計の針は、午後2時を回ろうとしていた。

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