第56話 ペーパーカンパニーと中村屋のカリーうどん
冷たい岩肌に背中を打ち付けたまひるは、肺から空気が押し出されるのを感じながらも、反射的に受け身を取って立ち上がった。
(硬い……! 魔法の障壁!?)
白人男性は表情一つ変えず、ゆっくりと歩み寄ってくる。彼は武器を抜いていない。それは圧倒的な実力差からくる余裕の表れか、あるいは魔法だけで確実に制圧できるという揺るぎない確信か。ただ、その周囲の空間が陽炎のように微かに歪んで見えた。
「諦めろ。君の物理攻撃は、私の『不可視の盾』を突破できない」
男の言葉が終わる前に、まひるは腰のポーチから閃光玉を引き抜き、地面に力強く叩きつけた。パァン! という鋭い破裂音と共に、強烈な光と白い煙が洞窟の通路を覆い尽くす。火薬の焦げる匂いが鼻を突いた。
「チッ」
男の短い舌打ちが聞こえた。煙の中で視界が完全に奪われているはずなのに、男の足音には一切の迷いがない。
「無駄だ。熱源と魔力の両方で、君の動きは捕捉している」
男の冷徹な声とともに、煙を切り裂くように見えない衝撃波がまひるの足元を抉った。岩の破片が散弾のように降り注ぎ、頬を鋭く掠める。
(規格外の出力……! まともにやり合ったら殺される!)
まひるは元Cランク冒険者としての勘に従い、這うような低い姿勢で複雑に入り組んだ通路へと駆け込んだ。しかし、背後からは一定のリズムで重い足音が追ってくる。袋小路の岩壁が眼前に迫り、舌打ちをしたその時だった。
「こっち! 早く!」
側面の岩の裂け目のような暗がりから、小さな手が伸びてきてまひるの腕を強く引いた。
「ヒカル子ちゃん!?」
「声出さない! 走って!」
オーバーサイズのパーカーを着たヒカル子が、慣れた足取りで真っ暗な裏道へとまひるを誘導する。正規の探索ルートには載っていない、人一人がやっと身体を捻って通れるほどの亀裂の奥だ。カビと湿気に満ちた冷たい地下水が染み出す狭い隙間を抜け、二人は息を殺して身を潜めた。
直後、数メートル先の通路を、あの白人男性が通り過ぎていく気配がした。静寂の洞窟に、規則正しい軍隊のような足音が響き、やがて遠ざかっていく。ダンジョン特有の重い静寂が完全に戻るまで、二人は声を発することすらできなかった。
「……助かった。ありがとう」
荒い息を吐くまひるに、ヒカル子は暗がりの中で得意げに鼻を鳴らした。
「ボスから『安藤がドジ踏むかもしれないから退路を確保しとけ』って言われてたの。このルート、見つけといて正解だったっしょ」
「ドジって……でも、本当に助かった。あのままじゃ証拠ごと捕まってた」
まひるは胸元のウェアラブルカメラを、安堵とともに撫でた。
「それだけじゃないよ。私も、結構ヤバいもん引いてきたから」
ヒカル子は背中のリュックから、見慣れない黒いタブレット端末を引き出してみせた。
「オメガ・ファミリアの警備システムにちょっと細工して、ダミーの通関業者のデータを引っこ抜いてきた。これで裏付けはバッチリなはずだよ」
★★★★★★★★★★★
土曜日の夜。高木のマンションのリビング。
窓の外には新宿の煌びやかな夜景が広がっているが、室内にはそれとは対照的な、張り詰めた重苦しい空気が漂っていた。
ダイニングテーブルの上にはノートパソコンが数台並べられ、まひるが持ち帰ったカメラの映像が再生されている。ダンジョン中層の隠しエリアで、大量の魔石が「機械部品」と印字された木箱に詰め込まれ、フォークリフトでコンテナに積み込まれる決定的な瞬間だ。ウェアラブルカメラ特有の揺れる映像が、現場の緊迫感をありありと伝えている。
「コンテナの積み込みは夜間に限定されていて、監視カメラの死角を完璧に突いていました。それに、あの警備の数……ただのクランの護衛の域を超えています」
まひるの報告を受け、高木は映像を一時停止し、隣に座る宮本マリを見た。
「魔石を工業用の機械部品として偽装し、コンテナで運び出している。完全な密輸の現場だね」
マリは、ヒカル子が持ち帰ったタブレット端末のデータを自身のパソコンに同期させ、複雑なスプレッドシートを展開していた。画面には無数の英語の羅列と数字が滝のように並んでいる。
「ヒカル子ちゃんが抜いてきたのは、グローバル・コアが使っているダミーの通関業者の荷役データよ。映像のコンテナ番号と、この輸出申告書のデータが見事に一致してるわ」
マリの指がキーボードを素早く叩き、該当箇所をハイライトする。
「申告先は、東南アジアにある『パシフィック・トレーディング』という企業。でもこれ、見事なまでのダミーね。設立はわずか半年前。登記上の所在地はただのレンタルオフィスだし、役員の名前も他の法人で使い回されている架空の人物よ。そして申告価格は、実際の魔石の市場価格のわずか10分の1に設定されているわ」
マリの瞳が、標的を完全に捕捉した狩人のように細められた。
高木は静かに頷き、マリの示したデータに目を落とす。
「移転価格操作のスキームを、あの物理的な密輸で補強していたわけだ」
「ええ。現物の動きを偽装している分、タチが悪いわ」
ソファに深く腰掛けていたヒカル子が、テーブルの上の皿から猫型のクッキーをかじりながら口を挟んだ。
「でもさ、あの外人ヤバかったよ。見えない壁みたいなの使ってたし。ただの密輸業者じゃないでしょ」
まひるが真剣な表情で同意する。
「おそらく、海外の軍隊や民間軍事会社上がりの高ランク冒険者です。あのレベルの護衛を雇っているとなると、相手は本気でこの密輸ルートを死守するつもりです。下手に手を出せば、血を見ますよ」
「彼らの物理的な制圧は、ゆくゆくは警察と税関の密輸対策班に任せることになるだろう」
高木は淡々と事実を整理するように言葉を継いだ。
「輸出申告書のデータと密輸の現場は押さえた。だが、不当な安値で流された利益がどこへ消えたのか、海外の巨大な資金網を立証するには、まだピースが足りない」
高木はそこで言葉を区切り、マリの方へ視線を向けた。
「これなら、税務署の出番を作れそうですね」
マリは小さく息を吐き、モニターの光を反射する眼鏡を指先で押し上げた。
「ええ。海外法人の登記簿や、そこから先の資金ルートを洗わなければ、国税の強制調査には踏み切れないわ。彼らの言い逃れを完全に塞ぐための、決定的な証拠が要る」
その言葉には、国家権力の一翼を担う徴収官としての静かな闘志が宿っていた。
★★★★★★★★★★★
翌日の日曜日。昼下がり。
高木は自宅近くの行きつけのスーパーで、カゴを片手にチルド食品のコーナーに立っていた。
連日の極秘調査と情報整理で蓄積した疲労。頭脳戦の重圧を乗り切るためには、熱くスパイシーなものを胃に流し込み、内側から活力を呼び覚ます必要があった。
惣菜コーナーの誘惑を振り切り、麺類の棚へ向かう。陳列棚の中で高木の目に留まったのは、「新宿中村屋監修 カリーうどん」のパッケージだった。
昭和の時代から愛される名店のカレー。そのスパイシーでコクのある味わいを、うどんに絡めて手軽に味わえるチルド麺だ。
高木は迷わずそれをカゴに入れ、さらに精肉コーナーへと足を運ぶ。カレーうどんに合わせるなら、脂の甘みが強い豚肉が良い。赤身と脂身のバランスが絶妙な豚バラ肉の薄切りを選び、野菜コーナーで泥付きの長ネギを、そして大豆製品の棚で厚みのある油揚げを追加で購入した。カレーうどんは手軽だが、具材にこだわることで格段にクオリティが上がる。
自宅のキッチンに戻り、ワイシャツを脱いでエプロンを締め、手早く調理の準備に取り掛かる。
まずは長ネギを大きめの斜め切りにする。断面を広くとることで、後でスープの味がしっかりと染み込むようにするためだ。油揚げはザルに乗せて熱湯を回しかけ、表面の余分な油と酸化した匂いを丁寧に落としてから短冊切りにする。油揚げはスープの旨味を蓄えるスポンジの役割を果たすため、ケチらずにたっぷりと使う。こうした一手間が、最終的な味の輪郭を決定づける。
フライパンを熱し、食べやすい大きさに切った豚バラ肉を炒める。油は引かず、豚肉自身の脂で表面に香ばしい焼き目をつけるのがポイントだ。肉の焼ける音がキッチンに響き、脂の焦げる匂いが立ち昇る。最初は中火で脂を出し、そこに長ネギと油揚げを投入してからは弱火に落とし、ネギの甘みをじっくりと引き出す。油揚げが豚の脂をたっぷりと吸い込み、ネギがしんなりとして甘い香りを放ち始めたところで、火を止める。
隣のコンロでは、指定の分量の湯を沸かし、付属のカレールーを静かに溶かし込んでいた。スパイスの奥深い香りがキッチンを満たし、強烈に食欲を刺激した。
高木はそこに、自家製の白だしをほんの少しだけ隠し味として加えた。スパイスの強烈なパンチに、和風の出汁の旨味を底上げして奥行きを持たせるためだ。
別の鍋でたっぷりの湯を沸かし、うどんを茹で上げる。しっかりと湯切りをしてからどんぶりに盛り付け、その上に炒めておいた豚肉とネギ、油揚げを乗せ、熱々のカレースープを一気に注ぎ込んだ。
とろみのあるスープが麺と具材に絡みつき、芳醇な香りが完成を告げた。
ダイニングテーブルにつき、箸を割る。
足元では、ベルとアッシュがスパイシーな香りに不思議そうな顔をして首を傾げている。ベルはカレーの匂いに興味を示しつつも、自分の食べ物ではないと悟るとソファに戻って丸くなった。アッシュはまだ好奇心が勝るのか、テーブルの脚の影から高木のどんぶりをじっと見つめている。
高木は箸でうどんを持ち上げた。カレースープの粘度が麺に絡みつき、持ち上げる箸に確かな重量感を与える。飛び散らないように注意しながら、フーフーと息を吹きかけ、勢いよく啜り込んだ。
「……美味い」
口に入れた瞬間、本格的なスパイスの鮮烈な香りと辛味が弾け、直後に豚肉の脂の甘み、和風だしの旨味が追いかけてくる。もっちりとしたうどんの食感と、スープを吸った油揚げのジュワッとした味わいが見事な調和を生み出している。和風だしのまろやかさが、スパイスの暴力的な刺激を優しく包み込み、決して単調な味にはならない。
額にじんわりと汗が滲むのを感じながら、高木は箸を止めることなく麺を啜り続けた。
シャキシャキとした長ネギの食感が、濃厚なカレーの中で心地よいアクセントになっている。すすり上げるたびに、スパイスの香りが鼻腔を抜け、胃袋が熱く燃えるような感覚に包まれる。スパイスの刺激が血流を良くし、徹夜明けの重い頭をクリアに覚醒させていく。
残ったスープも一滴残らず飲み干し、高木は冷たい麦茶で口の中をリセットした。
高木は空になったどんぶりをシンクに下げ、再びパソコンのモニターへと向かった。




