第55話 子猫のクッキーと不可視の境界線
土曜日の午後。高木の1LDKのマンションには、バターが熱で溶けていく甘く芳醇な香りが満ちていた。
高木はキッチンに立ち、無地の黒いエプロン姿でステンレス製のボウルに向かっている。室温に戻して指の跡がつくほど柔らかくなった無塩バター100グラムを木べらで滑らかになるまで練り上げ、そこに計量済みのグラニュー糖を3回に分けて加えていく。空気をたっぷりと抱き込ませるようにして、黄みを帯びたバターが白っぽくふんわりと軽くなるまで、一定のリズムで的確にすり混ぜ続ける。
休日の午後。日々の煩雑な窓口業務と、多国籍企業が仕掛けてくる法的な網の目との頭脳戦。その疲労を回復させるための上質な糖分として、今日はシンプルな型抜きクッキーを焼くことにしたのだ。
白くふんわりとしたバターの海に、常温に戻しておいた卵黄を1つ落とし、分離しないよう手早く混ぜ合わせる。全体が均一に馴染んだところで、あらかじめ2度ふるっておいた薄力粉を一気に投入した。ここからは木べらをゴムベラに持ち替え、絶対に練らないように、ボウルの底から生地をさっくりと切るように混ぜ合わせていく。小麦粉から余分なグルテンを出さないための、正確で無駄のない手つきだ。
その作業を、特等席であるキッチンカウンターの端からじっと見つめている小さな毛玉があった。マンチカンの子猫、ベルだ。
ベルはクリーム色の柔らかな前足を綺麗に揃えて香箱座りを作り、丸い琥珀色の瞳を高木の手元に釘付けにしている。ボウルの中でパラパラとした粉が次第に一つの生地にまとまっていく過程が不思議でたまらないのか、時折、耳をピクピクと動かしながら首を右へ左へと忙しく傾けていた。
高木がプラスチック製のカードを使って生地をひとまとめにし、乾燥を防ぐためにラップで包もうとした瞬間、ベルがたまらず立ち上がった。しなやかな身体を思い切り伸ばし、ボウルの縁に白い肉球をチョイッと乗せて中を覗き込んでくる。
「こら。生の小麦粉を吸い込むとむせるぞ」
高木が低い声で優しく窘めると、ベルは「にゃっ」と短く不満げな声を上げた。しかし諦めきれなかったのか、今度はデジタルスケールの上にわずかに残っていた薄力粉の粉だまりに、小さな顔を突っ込んだ。
ブルッと首を振って顔を上げたベルの鼻先は、見事に真っ白な粉まみれになっていた。「ふしゅっ」と小さなくしゃみをする姿に、高木はたまらず苦笑を漏らす。
「やれやれ。好奇心旺盛な助手殿のおかげで、掃除の手間が増えそうだ」
高木は濡らしたキッチンペーパーでベルの鼻先とヒゲについた粉を丁寧に拭き取り、まとめた生地を冷蔵庫に入れて1時間ほど休ませる。
生地が十分に冷えて扱いやすくなったところで、麺棒を使って均一な厚さに伸ばしていく。丸や四角のシンプルな金属型で手早く抜き、オーブンシートを敷いた天板に等間隔に並べた。それを、170度に予熱しておいたオーブンへと入れる。
15分後。オーブンの扉を開けると、小麦粉とバターが焼けた極上の香りが一気にキッチンへと広がった。表面が美しいきつね色に焼き上がったクッキーをケーキクーラーの上に乗せ、粗熱を取る。
その間に、高木は手動のミルで深煎りのコーヒー豆を挽き、丁寧にハンドドリップでコーヒーを淹れた。マグカップから立ち昇る湯気と香りを楽しみつつ、完全に熱の取れた焼き立てのクッキーを1つ口に運ぶ。
サクッとした軽い歯触りの直後、バターの芳醇な香りが鼻腔へと抜け、グラニュー糖の素朴な甘みが舌の上で穏やかにほどけていく。雑味のない、完璧な焼き上がりだ。
足元では、自分にはもらえないと完全に悟ったベルが、抗議するように高木のスリッパに八つ当たり気味に噛み付いていた。
平和な休日のひととき。
マリによる海外口座の特定と資金網の解明は、すでに大詰めを迎えているはずだ。高木自身も、週明けには入国管理局や税関と連携し、グローバル・コアに対する正式な行政指導と告発の準備に入る。
だが、高木はコーヒーカップを置き、微かな懸念を抱いてスマートフォンを見つめた。
今朝から、まひるからの連絡が一切ない。彼女の性格を考えれば、休日とはいえ何らかの業務報告や、相場操縦の調査に関する熱意のこもったメッセージが1件くらいは来てもおかしくないのだが。通知画面には、何も表示されていなかった。
★★★★★★★★★★★
同じ頃。新宿ダンジョンの第12階層。
正規の探索ルートから大きく外れ、苔むした巨大な鍾乳洞が続く未開拓エリアの奥深く。安藤まひるは冷たく湿った岩の陰に身を潜め、息を殺して眼下の光景を睨みつけていた。
使い慣れた防刃繊維のインナーに、動きやすさを重視した軽量の革鎧。腰のベルトには手入れの行き届いたショートソードを佩き、胸元のプロテクターの隙間には小型のウェアラブルカメラをしっかりと固定している。公務員としての身分を隠すため、顔の下半分を黒い布で覆ったフル装備の姿だった。
(……ヒカル子ちゃんの裏情報は正確だったみたいですね)
まひるの視線の先には、本来は何もないはずの巨大な空洞を利用して作られた、仮設のプレハブ倉庫群があった。その周囲を、揃いのタクティカルベストを着た体格の良い男たちが巡回している。彼らの歩き方は、その辺のゴロツキ冒険者とは違う。足音を殺し、死角をカバーし合う動きは、軍隊か民間の軍事会社のそれに近かった。
書類上の数字の辻褄が合うのを待つだけでは、あの圧倒的な資本力を持つ連中に逃げ道を与えてしまうかもしれない。現場の決定的な証拠を押さえ、高木たちの調査を物理的に補完する。それが、元冒険者である彼女が単独でここに潜入した目的だった。
まひるは足音一つ立てずに岩場を滑り降り、プレハブ倉庫の死角へと接近する。
見張りの交差するタイミングを秒単位で測り、換気用の小さな小窓からウェアラブルカメラのレンズを覗かせた。
「……っ」
まひるは思わず息を呑んだ。
薄暗い倉庫の中には、区が規定する保管上限を遥かに超える、おびただしい数の『魔石』が山積みになっていた。それも、下層でしか採れないような高純度のものが無造作に、まるでただの石ころのようにコンテナに詰め込まれている。
(撮った……。これで、言い逃れはできない!)
決定的な証拠をカメラに収め、まひるは安堵とともに後退しようとした。
その時だった。
「――部外者か。記録媒体を置いていけ」
背後から、ひどく流暢な、しかし感情の全くこもっていない日本語が降ってきた。
まひるの心臓が警鐘を鳴らす。元Cランク冒険者としての優れた知覚スキルは、背後に人間が近づく気配など一切捉えていなかった。
弾かれたように振り返ると、そこには砂色の迷彩服を着た、長身の白人男性が立っていた。手には武器を持っていない。ただ、薄いブルーの瞳でまひるを静かに見下ろしている。護衛の巡回ルートからは完全に外れているはずの場所だ。
「業務エリアだ。その胸のカメラを渡せば、命までは取らない」
男がゆっくりと一歩を踏み出す。
まひるは即座に腰のショートソードを引き抜き、低い姿勢を取った。話し合いが通じる相手ではないし、データを渡すわけにはいかない。相手の隙を突き、一撃を入れてから撤退する。それが最善の選択だった。
まひるは岩場を強く蹴り、目にも留まらぬ速さで男の懐へ飛び込んだ。狙うのは右の肩口。殺さず、戦闘能力だけを削ぐ。
しかし。
「……手間をかけさせる」
男が右手の指先を軽く横に払った瞬間、まひるの眼前に『見えない壁』が突然現れた。
ガキンッ!
空気を全力で殴りつけたような激しい衝撃が、ショートソードを通じてまひるの腕を襲った。手首の骨が軋み、剣筋が完全に弾き返される。
「なっ……!?」
魔法陣の展開も、事前の詠唱もなかった。日本のギルドで一般的に知られている魔法体系とは全く異なるスキル。
驚愕で動きが止まったまひるの腹部を、今度は見えない『巨大な丸太』のような衝撃が直撃した。
「がはっ……!」
まひるの小柄な身体が宙を舞い、数メートル後方の岩壁に激突して崩れ落ちる。肺から空気が強制的に絞り出され、目の前が真っ白になった。
(無詠唱の……空間魔法……?)
咳き込みながら顔を上げると、男はまだ同じ位置に立ち、退屈そうに右手を見つめていた。
「無駄だ。諦めろ」
男が手のひらをまひるに向ける。途端に、まひるの周囲の空気がギシギシと軋むような音を立て始めた。全方向から、凄まじい重圧がのしかかってくる。見えない万力で身体ごとすり潰されるような感覚。
(……っ、このままじゃ、潰される!)
勝てない。この男は、今までまひるが戦ってきたどんなモンスターよりも次元が違う。これが、世界の最前線で暴れ回る多国籍クランの暴力だ。
まひるは奥歯を強く噛み締め、インナーのポーチから引き抜いた特殊な煙幕玉を、自身の足元の岩肌に全力で叩きつけた。
パンッ!という破裂音と共に、魔力を含んだ濃厚な白い煙が一気に膨張し、視界を完全に遮断する。
男が手をかざして突風を巻き起こし、煙を吹き飛ばしたのはわずか数秒後のことだった。しかし、その時にはすでに、まひるの姿は岩陰の奥へと消え去っていた。
男はそれ以上追跡しようとはせず、腰の通信機に手を伸ばした。
『侵入者を1名取り逃がした。Bルートへ向かったはずだ。対処しろ』
一方のまひるは、振り返ることなく、ただひたすらにダンジョンの上層を目指して走り続けていた。
口の中に血の味が広がり、全身の筋肉が悲鳴を上げている。ショートソードを握った右手は、先ほどの衝撃で微かに震えていた。
それでも、胸のカメラだけは絶対に守り抜かなければならない。
(高木主任……っ!)
背後に迫る見えない脅威の気配に怯えながら、まひるは薄暗い岩の迷宮を必死に駆け抜けていった。




