第51話 黒船の襲来と神楽坂の夜
新宿の空に、夏の気配を孕んだ力強い陽光が差し込む朝。
高木の1LDKのマンションには、いつもと変わらぬ穏やかな静けさと、食欲を優しく刺激する出汁の香りが満ちていた。
キッチンに立つ高木は、前日の夜から水に浸しておいた利尻昆布の鍋を火にかけ、沸騰する直前で静かに引き上げる。そこに血合い抜きの本枯節をたっぷりと投入し、澄んだ黄金色の一番出汁を引いた。
コンロの上では、砂抜きを済ませた大ぶりな浅蜊がその出汁の中で次々と殻を開き、ふわりと磯の香りを漂わせている。火を止めてから、甘みのある白味噌とコクのある赤味噌を合わせたものを静かに溶き入れた。
隣の魚焼きグリルの網の上では、肉厚な真鯵の開きがチリチリと小気味良い音を立てて脂を滲ませている。皮目が香ばしいきつね色に焼き上がったのを確認し、火を止める。
小鉢には、塩もみをして産毛を取り除き、色鮮やかに茹で上げたオクラを小口切りにし、削りたての鰹節と少量の薄口醤油で和えたものを添える。最後に黒い土鍋の蓋を開け、ふっくらと艶やかに炊き上がった白米を茶碗に盛った。
足元からは、規則的なカリカリという音が聞こえてくる。
クリーム色のマンチカンであるベルと、最近迎え入れたばかりのブルーグレイのブリティッシュショートヘア、アッシュの2匹だ。彼らはそれぞれの専用の器に顔を突っ込み、熱心に朝食を摂っている。
我が家にやってきてから少し時間が経ち、アッシュもすっかりこのマンションの環境に慣れたようだ。食事を終えると、ベルが先輩風を吹かせるようにアッシュの耳の後ろを丁寧に毛繕いしてやり、アッシュも目を細めてそれを嫌がらずに受け入れている。2匹の小さな毛玉が寄り添う光景は、高木にとって何よりの癒やしだった。
高木は無地の黒いエプロンを外し、ダイニングテーブルに並べた完璧な和朝食をゆっくりと噛み締めた。
真鯵の豊かな脂の旨味を、キリッと冷えた麦茶で流し込む。食後の食器を手早くシンクで洗い、洗面所で髭を剃り、鏡の前でネクタイの結び目を正確な位置に直した。
ネイビーのスーツのジャケットを羽織り、玄関で2匹の頭を軽く撫でてから、高木は静かに家を出た。
★★★★★★★★★★★
午前10時。新宿区役所1階、ダンジョン管理課。
フロアには、魔石の換金や各種手続きに訪れる冒険者たちの姿がまばらに見られ、平穏な日常の風景が広がっていた。
「ですから、この領収書は経費としては認められません。宛名が空欄な上に、但し書きが『お品代』では、事業との関連性が証明できないんですよ」
窓口では、まひるが中堅らしき冒険者を相手に、淀みない手つきで対応をこなしている。
「いや、でもよ! これ本当にダンジョン内で使うポーション代なんだって! ちょっとくらい融通利かせてくれたっていいだろ!」
食い下がる冒険者に対し、まひるは表情を崩すことなくピシャリと言い放つ。
「所得税法上、要件を満たさない領収書を受理することはできません。もし不服がある場合は、新宿税務署の窓口にて直接ご相談いただきますが、いかがなさいますか」
「……ちっ、わかったよ。修正申告すればいいんだろ」
税務署という単語を出された冒険者は渋々と引き下がり、記載台へと戻っていった。
元冒険者特有の血の気の多さはすっかり影を潜め、今やまひるの対応は、公務員としての落ち着きすら感じさせる堂々とした態度だ。
高木は自席で、区が買い上げた魔石の売却益に関する決裁書類の山に目を通しながら、静かにタイピングの音を響かせていた。鈴木課長もすっかり血色を取り戻して、奥の席で呑気にほうじ茶を啜っている。
その平和な空気を切り裂くように、硬質な革靴の足音がフロアに響き渡った。
入り口から歩みを進めてきたのは、仕立ての良いスリーピーススーツを着こなした2人の男だった。
1人は、高木に匹敵するほどの巨体を持つ白人男性。スーツの上からでもわかる屈強な体格で、周囲を威圧するようなオーラを放っている。もう1人は、銀縁の眼鏡をかけ、胸元に金色の弁護士バッジを光らせた怜悧な顔立ちの日本人男性だ。彼らの履いている磨き上げられたオックスフォードシューズが、床を叩くたびに鋭い音を立てる。
案内板を見ることもなく、2人は真っ直ぐに高木が座る3番窓口へとやってきた。
「あなたが、高木乾三主任ですね」
日本人弁護士が、アクリル板の隙間から感情の読めない事務的な声で話しかけてきた。
「ええ。ダンジョン管理課ですが、どのようなご用件でしょうか」
高木はタイピングの手を止め、淡々と応じた。
「私、外資系ダンジョン・クラン『グローバル・コア』の代理人を務めております、弁護士の霧島と申します。こちらは当クランの極東エリア責任者、アーサー・スミスです」
霧島は高級な和紙の質感を持つ名刺を差し出し、本題を切り出した。
「単刀直入に申し上げます。当クランは今後、新宿ダンジョンにおいて大規模な魔石採掘および流通網の構築を計画しております。年間数百億円規模の投資を予定しているのに伴い、新宿区に対して『特例措置』の適用を要請しに参りました」
「特例措置、とは」
「当クランは、国際ギルド機構の定めるA級ライセンスを保持しています。これは世界中で自由にダンジョン開発を行う特権階級の証です。国際的な慣例に基づき、事業所税および法人住民税の大幅な減免、ならびに魔石取引にかかる地方消費税の免税を要求します」
霧島は手元の分厚いファイルをカウンターに置き、薄く笑った。
「旧態依然とした日本の地方税法に我々が縛られる謂れはありません。この要求が通らない場合、我々は投資先を他国へ移す準備があります。莫大な税収と経済効果を、行政自ら手放すような判断はされないと思いますが」
隣でやり取りを聞いていたまひるが、息を呑んだ。
年間数百億円の投資。ダンジョン市場が解放された今、海外から圧倒的な資本力を持つ外資がこの新宿へ本格的に参入しようとしているのだ。
しかし、高木は差し出された名刺を手元に置き、静かに答えた。
「お断りします」
霧島の顔から、わずかに笑みが消えた。
「国際ギルド機構の規約は、あくまで民間団体における任意の取り決めに過ぎません。租税条約や日本の法律に優先する法的根拠は一切存在しない」
高木は手元の六法全書を開き、極めて平坦な声で事実だけを告げる。
「新宿区内に事業所を設置し、ダンジョンから収益を得る以上、外資であろうと内資であろうと、地方税法に基づく納税の義務は等しく発生します。一企業に対する特例的な減免は、租税公平主義に反する違法な便宜供与にあたります。当課において、そのような要求を受け入れることはありません」
霧島は目を細め、声のトーンを一段下げた。
「……我々の資本力と、国際的な影響力を理解していないようですね。時代遅れの法律に固執し、巨大な国益を損なうことになってもいいと?」
「ここは国益を論じる政治の場ではなく、地方自治体の一窓口です。定められた法律に基づき、粛々と事務処理を行うのが私の職務です」
高木は静かに、しかし絶対的な重みを持って相手を見据えた。
霧島はしばらく高木を値踏みするように見つめていたが、やがて無言でファイルを鞄にしまった。
「……新宿区のスタンスは理解しました。我々も、ルールに則って『最適』なアプローチを取らせていただきます。失礼」
霧島とスミスは踵を返し、硬い足音を響かせて区役所から去っていった。
「主任……」
まひるが不安そうに口を開く。
「なんだか、また厄介なことになりそうですね。外資の巨大クランが相手だなんて」
「資本の規模がどうであれ、我々のやるべき手続きは変わらないよ」
高木はパソコンのモニターに視線を戻し、キーボードに指を置いた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
神楽坂の石畳が続く裏通り。初夏の夕暮れが街を包み、料亭の軒先に吊るされた提灯がポツリポツリと温かな明かりを灯し始めていた。
看板さえ出ていない、打ち水のされた入り口を抜けた先にある、知る人ぞ知る完全予約制の小料理屋。白木の美しいカウンターの端で、高木は冷酒の注がれた錫の酒器を静かに傾けていた。
「特区騒動の立役者が、こんな隠れ家みたいな店を予約してくれるなんてね。少しは見直したわよ、センセイ」
隣の空席にスッと腰を下ろしたのは、フリージャーナリストの今井素子だ。
今日の彼女は、ボディラインを美しく見せる黒のタイトなワンピースを隙なく着こなしており、薄暗い間接照明の中で、そのエキゾチックな美貌がいっそう艶やかに際立っていた。カツン、とヒールの音を響かせ、自分の前に置かれたお猪口を興味深そうに覗き込む。
「区内の飲食店情報は、衛生検査や納税記録を通じてある程度把握している。ここは独自の確かな仕入れルートを持っていて、仕事が丁寧だからね」
「相変わらず、そういう色気のない説明するところは変わらないのね」
素子は呆れたように肩をすくめながらも、楽しげに店主が注いだ冷酒を口にした。
カウンター越しに、大将が静かな所作で料理を差し出す。
旬の鱧の落としだ。
細かく正確に骨切りされた身が、湯引きされることで雪のように白く美しく開いている。そこに、丁寧に裏ごしされた特製の梅肉ソースが添えられていた。
高木は箸を伸ばし、鱧を一口味わった。
ふっくらとした淡白な身の甘みと、梅肉の爽やかな酸味が舌の上で絶妙に調和する。錫の酒器から辛口の純米吟醸を含むと、米の旨味が鱧の余韻をさらに深く引き立てていった。
「で? 今日そっちの窓口に、『グローバル・コア』の連中が挨拶に行ったんでしょ?」
素子が鱧を味わいながら、さらりと本題を切り出してきた。
「……耳が早いな」
「私の情報網を甘く見ないで。特区の利権構造が崩壊して、一番喜んでるのはあいつらよ。日本のダンジョン市場の空白を埋めるために、満を持して海外から乗り込んできたってわけ」
大将が次の皿、皮目をパリッと焼き上げた太刀魚の塩焼きと、濃厚な味噌を乗せた賀茂茄子の田楽を静かに置く。
素子は太刀魚にすだちを絞りながら、声を少し落とした。
「あいつら、すでに東南アジアやタックスヘイブンに設立した複数のペーパーカンパニーや下請け業者を使って、末端の冒険者から魔石を相場より異常な高値で買い集め始めてるわ。市場価格を意図的に釣り上げて、国内の中小クランを干し上げる気よ。現場の冒険者たちの間じゃ、すでに大騒ぎになってるわ」
「市場の独占か。そして、ペーパーカンパニーを間に挟んで利益を不当に圧縮し、日本国内での納税額を最小限に抑えるスキームを組んでいる可能性が高いな」
高木は賀茂茄子に箸を入れながら、静かに推察を口にした。
「さすが。もうそこまで読んでるのね」
素子はくすりと笑い、高木の方へ少し身を乗り出した。
「ねえ。今度の敵は、前みたいに簡単には尻尾を掴ませないわよ。相手は各国の法律の網の目を潜り抜けてきた、国際的な弁護士団と複雑な資金網を持ってる。……また私を使って、世界を炎上させてみる?」
誘うような、ジャーナリストとしての野心が滲む瞳。
高木は手元の酒器から冷酒を一口飲み、静かにグラスを置いた。
「必要が生じれば、君の情報網に頼ることもあるかもしれない。だが、相手がどのような規模の多国籍企業であろうと、行政のやるべきことは変わらない」
高木は真っ直ぐに素子を見返した。
「この新宿区で事業を行い、利益を上げる以上、日本の法律と地方自治のルールには従ってもらう。逸脱すれば、法に基づいて徴収し、指導する。それだけだ」
静かだが、鋼のような揺るぎない意志が込められた言葉だった。
素子は少しの間その目を見つめ返し、やがてふっと口角を上げて艶やかに微笑んだ。
「本当に、ブレない男ね。……そういうところ、嫌いじゃないわよ」
高木は小さく息を吐き、次の料理に箸を伸ばした。香ばしい味噌の香りが、静かな店内に漂っていた。




