第50話 地方自治法と定時退社
国会議事堂、第1委員室。
ダンジョン特別措置法改正案の白紙撤回という異例の事態から数日後。特区内で同時多発的に発覚した一連の不祥事の真相究明を目的とした閉会中審査が、重苦しい熱気の中で開かれていた。
傍聴席には無数の報道陣が詰めかけ、テレビ中継のカメラが委員室の中央に向けられている。
「――以上のように、本件は決して国の制度設計の欠陥ではありません。特区の現場を管轄する新宿区が、適切な指導および監視義務を怠った結果、悪質な事業者による脱税や衛生基準の違反が横行したのです」
参考人席に座る元・特区開発室長の神崎は、手元のマイクを引き寄せながら必死の答弁を行っていた。
世論の猛反発と海外からの告発データによって推進派は完全に梯子を外され、彼自身もすでに室長の座を更迭されている。しかし、この公の場で「地方自治体の怠慢」という筋書きに責任を押し付けることさえできれば、官僚としての完全な失脚だけは免れることができる。それは彼に残された、最後の保身の防衛線だった。
「1地方自治体の事務処理の遅滞が、今回の混乱の最大の引き金となっています。我々国側としても、遺憾の意を禁じ得ません」
神崎が言葉を切ると、委員長が進行のマイクを握った。
「……ただいまの神崎参考人の陳述に関連し、新宿区から招致された参考人に発言を求めます。新宿区役所ダンジョン管理課、高木参考人」
名前を呼ばれ、もう1つの参考人席から1人の男が静かに立ち上がった。
分厚いバインダーを抱え、サイズの合った地味なダークスーツを身に纏った高木乾三である。その厚い胸板と広い背中がカメラのフレームに収まると、委員室内の空気が物理的な圧を伴って引き締まるのを感じた。
「1地方自治体の事務処理の遅滞ではありません。国による、不当な権限の簒奪と法律の意図的な無効化です」
高木は極めて平坦な、しかし議場の隅々にまで明確に届く声で宣告し、手元のバインダーを開いた。
「当区の保健所、および税務署やギルド新宿支部は、特区内での違法建築、不法就労、および未知の寄生虫を含む違法魔物肉の流通について、再三にわたり国へ調査と行政指導の要請を行ってきました。しかし、これらはすべて、経済産業省によって『特区事業の阻害要因』として却下されています。お手元の資料番号4、および5をご覧ください。特区開発室から当区へ送達された、指導の中止を命じる公文書です」
傍聴席の記者たちが、一斉に手元の配布資料をめくる音を立てた。神崎の顔からスッと余裕が消え、彼の下唇が乾いたようにわずかに開閉する。
「な……当室はあくまで、事業の迅速化を要請しただけであって、違法行為を容認した事実はありません! そもそも特区内における行政処分は、国の認可が……」
「国家戦略特別区域法において、規制緩和の対象となるのはあくまで経済活動における1部の手続きのみです」
高木は神崎の反論を遮り、バインダーの次のページに目を落とした。
「日本国憲法第94条、ならびに地方自治法第2条に基づく、地方公共団体の自治事務――すなわち、住民の生命、健康、および安全を守るための権限を制限する規定は、いかなる特区法にも存在しません。法に存在しない以上、国の指示に法的拘束力はなく、我々は粛々と、法令に基づく職務を遂行したまでです」
「屁理屈だ! 国策のプロジェクトを、1介の地方公務員が独断で妨害したと言っているんだ!」
神崎が声を荒らげ、マイクを握る指先を白く変色させる。委員室にどよめきが走ったが、高木は瞬き1つせず、神崎を真っ直ぐに見据えた。
「国益という言葉で、明白な犯罪行為と人命の危機を覆い隠すことはできません。本日午前8時、当区は地方自治法第14条に基づき、ダンジョン内の衛生管理および労働環境を適正化するための厳格な条例案を区議会へ提出しました。国が管理の責任を放棄し、不作為を正当化するのであれば、我々が法律に従って管理するだけです。……私の発言は以上です」
高木がバインダーを閉じ、深く1礼して着席する。
神崎は次の反論の糸口を探すように視線を泳がせたが、高木が並べ立てたのは解釈の余地のない確定した事実と、明確な法律の条文だけだった。マイクの前で口ごもる神崎の姿に向け、無数のカメラのシャッター音が容赦なく鳴り響く。
★★★★★★★★★★★
それから1ヶ月後。
新宿区役所1階、ダンジョン管理課のフロア。
「だから! なんでこの魔石の査定額が先月より下がってんだよ! 区が中抜きしてんじゃねえのか!」
窓口のアクリル板を叩き、若い冒険者が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしていた。
奥のデスクでパソコンに向かっていた安藤まひるが、小さくため息をついて立ち上がろうとしたその時、隣から静かにスーツ姿の影が立ち上がった。
「市場価格の変動に基づく適正な査定です。所得税法基本通達に基づく評価額の算定基準については……」
高木は抑揚のない声で言いながら、手元の分厚い六法全書をドサリとカウンターに置いた。
「な……っ」
見上げるような身長と、スーツの内側からでもわかる規格外の筋肉の厚み。そして、開かれた法律書の重圧と冷徹な眼鏡の奥の視線に射抜かれ、冒険者はヒッ、と喉の奥で短い音を立てた。
「査定額にご納得いただけない場合は、不服申し立ての手続きをご案内しますが、いかがなさいますか」
「い、いや……これでいいです……」
冒険者は逃げるように同意書にサインをし、そそくさと窓口を後にした。
「相変わらずですね、主任」
まひるが苦笑しながら歩み寄る。
「法律と事実を伝えただけだよ」
高木は六法全書を閉じ、自身のデスクに戻った。
「それにしても、平和になりましたね。オメガ・ファミリアは完全に解体されて、経産省の神崎さんも関連団体に出向という名の左遷になったとか。ギルドの大野さんも、国税の宮本さんも、連日事後処理で大忙しみたいですけど」
「彼女たちなら、問題なく片付けてくれるはずだよ。我々も、目の前の職務に集中しよう」
高木は手元の決裁ファイルの最後のページにハンコを押し、ふうと短く息を吐いた。
壁掛け時計の長針が、ちょうど真上を指す。午後5時。
「お疲れ様でした。定時なので上がります。安藤さんも、残業はほどほどに」
「あ、はい! お疲れ様でした!」
高木はジャケットを羽織り、乱れのない足取りで区役所の自動ドアを抜けた。外には、初夏の心地よい風が吹いていた。
★★★★★★★★★★★
夜10時。高木の1LDKのマンション。
シャワーを浴びてスウェットに着替えた高木は、リビングのソファに深く腰を下ろし、冷やしておいたミネラルウォーターをゆっくりと喉に流し込んだ。
足元のフローリングでは、日中の平和な窓口よりも遥かに激しい運動会が終わりを迎えようとしていた。
クリーム色のマンチカン、ベルが、自分と同じくらいある巨大なエビの形をした蹴りぐるみを両手でしっかりと抱え込み、仰向けの状態で後ろ脚を使ってポカポカと激しい連続キックを繰り出している。「にゃっ、にゃっ」と短い声を上げながら獲物を仕留めようとするその姿は、本能に忠実でありながらどこまでも愛らしい。
一方、ブルーグレイのブリティッシュショートヘア、アッシュは、キャットタワーの中段のハンモックにすっぽりと収まり、半分目を閉じながらベルの奮闘を見下ろしていた。時折、尻尾の先だけをパタパタと動かして、自分も狩りに参加しているつもりになっているようだ。
やがて満足したのか、ベルはエビの蹴りぐるみをくわえ、短い脚でトテトテと高木の足元まで運んできた。ポトリと獲物を落とし、高木を見上げて「にゃーん」と長く甘えた声を出す。
「見事な狩りだったね」
高木が身を屈めてベルの柔らかな頭を撫でると、ベルは目を細めてゴロゴロと喉を鳴らし、そのまま高木の足首にスリスリと体を擦り付けてきた。タワーの上のアッシュも、眠気に勝てなくなったのか、小さなあくびをして完全に丸くなった。
高木は足元で丸くなったベルをそっと抱き上げ、膝の上に乗せた。温かく小さな命の鼓動が、分厚い手のひらを通して伝わってくる。
明日の朝は、少し甘めに味付けした出汁巻き卵と、塩を強めに振った焼き鮭にしよう。
そんなささやかな献立を頭の片隅で組み立てながら、高木は静かに目を閉じた。




