第49話 杜撰な安全管理体制の暴露と国際的包囲網
午後1時。新宿区保健所の講堂に、無数のカメラのシャッター音とフラッシュの猛烈な光の瞬きが充満していた。
演壇に立つ工藤ゆき子は、無遠慮に浴びせられる光の雨を前にしても、瞬き一つしなかった。糊の効いた真っ白な白衣を身に纏い、手元のバインダーに視線を落とす彼女の佇まいは、騒然とする会場の空気とは完全に断絶された、氷のような静謐さを保っている。
ゆき子がマイクに軽く触れると、張り詰めた空気を察した記者たちが一斉に口を閉ざした。
「本日午前、新宿区保健所は、区内の一部で発生している集団食中毒の原因が、違法に流通したダンジョン由来の魔物肉であることを科学的に断定しました」
ゆき子の背後に設置された巨大なスクリーンに、電子顕微鏡で撮影されたモノクロの画像が映し出された。球状の強固な外殻を持った、おぞましい微生物の姿だ。
「経産省が推進するダンジョン特区内において、行政の検査機能が制限され、衛生管理の基準が著しく緩和された結果、この違法な魔物肉が市中に流通しました。我々はこの肉から、既存の抗生物質が一切効かない、未知の寄生虫を発見しました。スクリーンに表示されているのが、宿主の細胞組織を溶解しながら増殖するその活動データです」
講堂内が、戦慄を伴うどよめきに包まれた。未知の寄生虫。それがすでに新宿の市中に出回っているという事実は、記者たちの冷静さを奪うに十分だった。最前列の記者が血相を変えて手元のノートにペンを走らせ、後方のカメラマンたちはスクリーンに映し出されたグロテスクな画像を必死にズームレンズで捉えようとしている。
「国は特区の経済効果と特定の法人の利益を優先し、このバイオハザードのリスクを黙認しようとしていました。これは単なる行政の手続き上のミスではありません」
ゆき子はマイクからわずかに顔を上げ、冷ややかな、しかし絶対的な確信に満ちた視線を会場へ向けた。
「食品衛生法および感染症法を蔑ろにし、国民の命を危険に晒す、公衆衛生に対する重大な犯罪です」
そこには、感情的な批判やイデオロギーは一切なかった。あるのは、反証不可能な科学的データと、法律という冷徹な事実のみ。圧倒的な検証結果を淡々と突きつけるゆき子の言葉に、会見場にいた誰一人として反論の声を上げることはできなかった。
ゆき子の会見がテレビのニュース速報で流れ始めたのと同時刻。
動画プラットフォーム『Dチューブ』では、午前中から凄まじい勢いで拡散され続けている今井素子とクロエ・ウィリアムズのコラボ生配信が、さらに爆発的な視聴者数を記録していた。
午前10時に投下された、海外の税務当局とSNSネットワークを通じた一斉告発。その猛烈な炎上状態の中、今まさにテレビで流れている保健所の公式会見の映像を同時視聴し、追撃の炎を燃え上がらせているのだ。
画面の右側では、カラフルなウィンドブレーカーを着たクロエが、身振り手振りを交えながら英語で熱弁を振るっている。
「Everybody, listen! 日本のDungeonはモンスターがいっぱいで素晴らしいけど、今の政府の管理体制は完全にCrazyだよ! 安全基準を無視して、お友達の企業にだけお金を回してるんだから! 私みたいな留学生も、知らないうちに密輸の犯罪者にされそうになったんだヨ!」
画面の左側では、素子がエキゾチックな美貌に怒りの色を滲ませ、手元のタブレットで図解を示しながら国内リスナーに向けて煽り立てていた。
「特区構想なんて名ばかりよ。経産省のトップエリートたちは、オメガ・ファミリアっていう特権クランとズブズブに癒着して、自分たちの懐を潤すために国民の命を危険に晒していたの。さっきの保健所の会見見たでしょ? 既存の薬が効かない未知の寄生虫よ? もしあなたの家族が、あの肉を食べていたらどうなってたと思う?」
『ヤバすぎだろ』
『国がバイオハザード隠蔽とか映画かよ』
『午前中に出たギルドの搾取データもエグかったけど、保健所の発表で完全に真っ黒確定じゃん』
『俺たちの税金で私腹を肥やして、俺たちに寄生虫食わせようとしてたのか!』
『#経産省は説明しろ #ダンジョン特区白紙撤回』
チャット欄は滝のような勢いで流れ、怒りと恐怖のコメントで完全に埋め尽くされている。午前中から海外発でくすぶっていた国内世論の不信感は、ゆき子の会見による「行政からの確定的な裏付け」によって完全に沸点を超え、もはや誰にも止めることのできない巨大なうねりとなっていた。
午後4時。新宿区役所ダンジョン管理課。
フロアの天井に設置された大型モニターから流れる緊急ニュースに、全ての職員が足を止め、無言で画面を見上げていた。電話のコール音だけが、誰も取らないまま虚しく響き続けている。
『……総理官邸からの緊急声明をお伝えします。政府は、今国会での提出を目指していた「ダンジョン特別措置法改正案」について、国内外からの重大な懸念を重く受け止め、提出を完全に見送ることを決定しました。事実上の白紙撤回となります……』
ニュースキャスターの緊張した声が、静まり返ったフロアに響き渡る。
続いて、法案を主導した経産省開発室の神崎室長ら幹部数名が事実上の更迭となったこと、そしてオメガ・ファミリアとの癒着の全容解明に向けて、東京地検特捜部が本格的な捜査に乗り出したことが報じられた。
「ほ、法案が……撤回されたぞぉ……っ!」
パーテーションの奥から、絞り出すような声が聞こえた。
鈴木課長が、自身のデスクにすがりつくようにして腰から崩れ落ち、ハンカチで顔を覆って号泣していた。
「私の退職金が……左遷が……無くなったぁ……っ! 首が繋がったんだぁ……!」
その声に呼応するように、周囲の職員たちも口々に安堵の息を漏らし、ある者はへなへなとパイプ椅子に座り込んだ。
「よかったですね、主任!」
まひるが両手を握り締め、満面の笑みで高木のデスクへ振り返った。
「ええ」
高木はキーボードから手を離し、モニターから視線を外すことなく短く応じた。
「これでようやく、新宿のダンジョンに本来の法と秩序が戻る。我々は明日からまた、通常の窓口業務に専念できるというわけだ」
午後5時15分。
フロアに、業務終了を告げるチャイムが規則正しく鳴り響いた。
高木は自身のパソコンの電源を落とし、デスクの上に乱れなく積み上げられていた書類の束を、バインダーの背表紙を揃えて引き出しへと収納していく。分厚い胸板を包むワイシャツには、一日の業務を終えてもなお、一切のシワが寄っていない。
「定時だ。帰ろう」
高木はパイプ椅子から立ち上がり、ジャケットを羽織った。
「今日は少し、手の込んだ夕食を作らないといけないからね」
午後6時半。高木の1LDKのマンションのリビング。
フローリングの床の上では、クリーム色のマンチカンのベルと、ブルーグレイのブリティッシュショートヘアのアッシュが、丸い毛玉となって楽しげな追いかけっこを繰り広げている。短い脚でトテトテと逃げるベルを、アッシュが器用なステップで回り込んで行く手を阻み、じゃれ合うように前脚を交差させた。
無地の黒いエプロンを身につけた高木は、その平和な光景に目を細めながら、キッチンで祝杯の準備を進めていた。
今日のメインディッシュは、奮発して購入した特選和牛の極厚ステーキだ。
常温に戻して筋切りを済ませた肉の両面に、岩塩と粗挽き黒胡椒をしっかりと叩き込む。十分に熱した厚手の鉄フライパンに牛脂を溶かし、うっすらと煙が立ち上り始めた絶好のタイミングで、肉を静かに滑り込ませた。
バチバチと弾けるような激しい音と共に、肉の表面が急速に焼き固められていく。タンパク質が焦げて生み出されるメイラード反応の暴力的なまでに香ばしい匂いが、換気扇の吸引力を無視して部屋中に広がった。
表面がカリッと焼けたら裏返し、中火で肉の内部にじんわりと熱を伝える。絶妙なミディアムレアに焼き上がった肉をアルミホイルで包んで休ませている間に、肉汁の残ったフライパンに赤ワインとバター、そして隠し味の少量の醤油を加える。木べらでフライパンの底の旨味をこそげ落とすように混ぜ合わせ、トロリとするまで煮詰めて特製ソースを完成させた。
付け合わせには、滑らかに裏ごししたマッシュポテトと、バターの香りを纏わせたアスパラガスのソテー。
グラスに重厚なボルドーの赤ワインを注ぎ、高木は一人、静かにグラスを掲げた。
極上のステーキをナイフで一口サイズに切り分けると、美しいロゼ色の断面から透き通った肉汁が滲み出す。それを口に運んで噛み締めるたびに、和牛の上質な脂の甘みと赤身の旨味が溢れ出し、赤ワインの芳醇な渋みが見事にそれを受け止める。
肉汁とソースのマリアージュをゆっくりと堪能しながら、高木はグラスのワインを静かに減らしていった。
そして、肉を平らげた高木は、今夜の祝宴の締めくくりとなる「もう一つのメイン」の仕上げに取り掛かった。
あらかじめ準備しておいた、宮古風のソーキそばだ。
前日から豚骨を丁寧に下茹でしてアクを抜き、じっくりと煮出した後、大量の鰹節を投入して引いたダブルスープ。寸胴鍋の中では、豚の深いコクと鰹の華やかな香りが溶け合った、透き通るような黄金色のスープが静かに波打っている。
隣の小鍋では、豚の骨付きあばら肉が、泡盛、黒糖、醤油の甘辛い煮汁の中で、箸で簡単に切れるほどトロトロに煮込まれていた。
高木は沸騰した湯の中で平打ちのストレート麺をサッと茹で上げ、湯切りをする。
ここからが宮古そばの真骨頂だ。丼の底に、熱々のソーキと波型に切った蒲鉾を置き、その上から茹で上げた麺をふわりと被せて具材を完全に隠してしまう。貧しかった時代に、具がないように見せるためとも、具材が乾かないようにするためとも言われる伝統的な盛り付けだ。
上から黄金色の熱いスープをなみなみと注ぎ、仕上げに小口切りにした青ネギを散らす。
高木はダイニングテーブルに丼を運び、自家製のコーレーグースを数滴だけ垂らした。
箸を入れ、麺をそっとかき分けると、中から琥珀色のスープをたっぷりと吸い込んだ分厚いソーキが、湯気と共にその姿を現す。
スープを一口すする。鰹の豊かな香りの後に、豚の丸みのある旨味とコーレーグースの島唐辛子によるピリッとした辛味が追いかけてくる。そして、麺と共にソーキを頬張れば、甘辛い脂が口の中で一瞬にしてとろけて消えた。
これ以上ないほどの完璧な味だった。
足元では、遊び疲れたベルとアッシュが、ラグの上で身を寄せ合って丸くなっている。
高木は窓の外に広がる、平和を取り戻した新宿の夜景を静かに見つめながら、熱いスープをゆっくりと飲み干した。




