第52話 国際規約とラガヴリンの夜
新宿区役所1階、ダンジョン管理課。 夏の気配が完全に去り、秋の涼風が街を吹き抜け始めた頃。フロアは連日とは異なる、ピリピリとした熱気と不満の声に包まれていた。
「だから、なんで今日の魔石の買取価格が昨日より2割も下がってんだよ! 区が操作してんじゃねえのか!」
窓口のアクリル板を叩き、使い込まれた革鎧を着た冒険者が声を荒らげている。 対応しているまひるは、眉間にシワを寄せながらも、努めて冷静なトーンで説明を繰り返していた。
「区が価格を操作しているわけではありません。公的な買取価格は、前日の国際市場の取引相場に連動して機械的に算出されています。現在、市場全体で魔石の流通量に異常な偏りが生じており、相場が急激に乱高下しているんです」
「そんな理屈知るか! こっちは生活かかってんだよ! 装備の修繕費も出やしねえ!」
まひるがさらに言葉を重ねようとするが、冒険者の苛立ちは収まらない。周囲の待合席に座る他の冒険者たちも、同じように不満げな表情で自身のスマートフォンの相場アプリを睨みつけている。フロア全体に、得体の知れない焦燥感が蔓延していた。
高木は隣のデスクで、そのやり取りを耳にしながら、手元のモニターに映し出された相場チャートと取引データを静かに分析していた。 魔石の価格変動。それは自然発生的なものではなく、特定の巨大資本が市場に介入したことによる意図的な買い占めの結果だった。 先日、フリージャーナリストの今井素子が神楽坂の小料理屋で語っていた情報が、早くも現実の数字となって表れている。外資系巨大クラン『グローバル・コア』が、豊富な資金力に物を言わせて、複数のペーパーカンパニーや下請け業者を通じて国内の魔石を異常な高値で買い集めているのだ。 市場から魔石が枯渇し、一部の裏ルートでのみ価格が不自然に釣り上げられる。その反動として、正規の公的市場では需給バランスが崩壊し、一時的な値崩れを引き起こしていた。資本力のない中小のクランや個人冒険者たちは、この煽りをもろに受けて大混乱に陥っている。
「次でお待ちの方、3番窓口へどうぞ」
高木は自動音声のアナウンスを流し、次の市民の対応を淡々とこなしていく。 その最中、区役所のメール室から台車を押した若手職員がやってきて、高木のデスクの未決裁トレイに数通の郵便物を置いていった。 その中に、一際目立つ分厚いレターパックがあった。宛名は高木乾三宛。差出人欄には『霧島法律事務所』と印字されている。数日前に窓口へ現れた、グローバル・コアの顧問弁護士だ。
高木はペーパーナイフで封を綺麗に切り、中身を取り出した。 数十ページに及ぶ、英語と日本語が併記された重厚な文書だった。表題には『国際ギルド規約に基づく地方税特例免除の要求書』および『法的見解書』と仰々しく記されている。 そこには、グローバル・コアがいかに新宿区のダンジョン開発に莫大な外貨と雇用をもたらすか、そして「国際的な合意」がいかに日本の地方税法に優先して考慮されるべきかという、尤もらしい強弁がびっしりと書き連ねられていた。
高木は、その分厚い書類の束をパラパラと数秒間だけめくり、ざっと目を通した。 新たな法的根拠となる条文の引用は一つもない。窓口で語っていた詭弁を、ただ難解な法律用語で装飾し、文字数を水増ししただけのものだ。資本力を盾にした圧力のテキスト化に過ぎない。
「……法的根拠なし」
高木は短く呟くと、一切の躊躇なくその書類の束をデスクの脇にある大型シュレッダーの投入口へ差し込んだ。 ギィィィン、という鋭いモーター音が鳴り、重厚な要求書が次々と細い紙くずとなって吸い込まれていく。
「主任? 今の、なんの書類ですか?」
対応を終えて一息ついていたまひるが、シュレッダーの音に不思議そうに振り返った。
「ただのダイレクトメールだよ。読む必要のないものだ」
高木はシュレッダーのスイッチを切り、再びモニターへと視線を戻した。
「それにしても、今日の窓口は荒れてますね。魔石の値段が下がってるせいで、みんなカリカリしてて……」
まひるが疲れたように首の後ろを揉む。
「グローバル・コアによる意図的な市場介入の影響が、末端にまで及んできている。彼らは潤沢な外貨を使って国内の魔石を買い占め、自分たちの息のかかったルートだけで流通させようとしているんだろう」
高木はキーボードを叩き、相場の推移データを記録していく。
「そんなことされたら、普通の冒険者は干上がっちゃいますよ。やり方がえげつないです」
「それこそが彼らの狙いの一部だろうね。国内の中小クランを体力勝負で潰し、市場を完全に独占する。だが……」
高木はモニターの光を反射する眼鏡の奥で、静かに目を細めた。
「市場の独占だけで、彼らが満足するはずはない。この不自然な資金の動きの裏には、もっと大掛かりな目的が隠されているはずだ」
午後5時15分。 フロアに、業務終了を告げるチャイムが規則正しく鳴り響いた。 高木は開いていたアプリケーションをすべて終了し、パソコンの電源を落とした。デスクの上を几帳面に片付け、椅子から立ち上がる。
「定時だ。帰ろう。明日はまた、少し忙しくなりそうだからね」
高木はジャケットを羽織り、乱れのない足取りで区役所の自動ドアを抜けた。
★★★★★★★★★★★
午後7時。 高木の自宅マンションのリビングでは、静かで穏やかな時間が流れていた。
「にゃーん」
スーツを脱いでラフな部屋着に着替えた高木がソファに腰を下ろすと、待ち構えていたようにマンチカンのベルが膝の上に飛び乗ってきた。少し離れたキャットタワーの中段からは、ブリティッシュショートヘアのアッシュが、その様子を琥珀色の瞳で静かに見つめている。
高木はベルの柔らかな背中を大きな手で撫でながら、ローテーブルの上に今夜の晩酌の準備を整えた。 夕食はすでに済ませており、これからは胃を落ち着かせ、思考を整理するための時間だ。 小ぶりのガラスのボウルに盛られているのは、仕事帰りに少し良いスーパーで買ってきた、国産の有機栽培の『剥き栗』だ。渋皮が綺麗に取り除かれ、自然な黄金色をした大粒の栗がゴロゴロと入っている。
それに合わせるのは、ワインセラーから取り出したフランス・ブルゴーニュ産の赤ワイン。 ピノ・ノワール単一品種で造られたそのワインを、大ぶりのグラスに静かに注ぐ。グラスの中で鮮やかな赤紫色が揺らめき、照明を反射して微かな光沢を放った。
高木はグラスを手に取り、ゆっくりと香りを嗅いだ。 ラズベリーや野いちごのような瑞々しい赤い果実の香りに、ほんのわずかな土の匂い、そして紅茶のような複雑なアロマが絡み合っている。口に含むと、軽やかな酸味と穏やかな渋みが広がり、余韻にはほのかな樽の香りが残る。
すかさず、剥き栗を1つ指でつまんで口に放り込む。 ほっくりとした食感とともに、栗本来の素朴で優しい甘みが広がる。そこへブルゴーニュの赤ワインを流し込むと、ピノ・ノワールの持つ大地を思わせる土のニュアンスと、栗の風味が口の中で見事な一体感を生み出した。派手さはないが、素材の良さが静かに響き合う、大人の秋の入り口のような味わいだった。
「にゃっ」
ベルが膝の上で短い前脚を伸ばし、テーブルの上の栗を不思議そうにチョイチョイと触ろうとする。
「君の分はさっきあげたでしょ」
高木が指先でベルの鼻先を軽く押すと、ベルは抗議するように短く鳴き、再び丸くなった。
ワインと栗の静かなマリアージュを堪能し、グラスが空になる頃。 高木は立ち上がり、キッチンの戸棚の奥から別のボトルを取り出してきた。
スコットランドのアイラ島で造られるシングルモルトウイスキー、『ラガヴリン 16年』だ。 ずっしりとした重みのあるロックグラスに、透き通った大ぶりの丸氷を1つ落とす。琥珀色の液体を注ぐと、カラン、と高い音が部屋に響いた。
グラスに顔を近づけた瞬間、強烈な香りが鼻腔を打つ。 燃えるピートの煙の匂い。海藻を思わせる強烈なヨード香。そして、奥底に潜むドライフルーツのような濃厚な甘い香り。好き嫌いがはっきりと分かれる、アイラモルト特有の暴力的とも言える個性だ。
グラスを傾け、冷えた液体を口に含む。 スモーキーな煙の香りが口内を支配した直後、舌の上に麦芽の強烈な甘みと、海の塩気が押し寄せてくる。重厚で、複雑で、どこまでも余韻が長い。
「……」
高木はラガヴリンの力強い味わいをゆっくりと胃に落とし込みながら、深く息を吐き出した。 アイラ島の厳しい自然と海風に耐え抜いて熟成されたこのウイスキーの強さは、これから直面するであろう事態の困難さを予感させた。
市場を混乱させている、外資系巨大クラン『グローバル・コア』。 彼らの不透明な資金網を解明し、適正な税を徴収するためには、やはり国税局の強力な権限が不可欠になるだろう。明日、宮本さんに協力を仰ぐとしようか。
カラン、とグラスの中で氷が溶けて傾く音がした。 高木はそれ以上思考を深追いすることはせず、もう一口、スモーキーなウイスキーを喉の奥へ流し込んだ。
足元では、いつの間にかアッシュもキャットタワーから降りてきて、ソファの下でベルと一緒に丸くなって眠っている。 高木はロックグラスをテーブルに置き、二匹の柔らかな寝息を聞きながら、ラガヴリンの深くスモーキーな余韻だけを、夜の静寂の中でただ一人味わい続けた。




