第5話 物理と法律の正しい使い方
土曜日の午前9時。休日の新宿御苑ダンジョンの入り口は、平日とは比較にならないほどの多くの冒険者たちでごった返していた。
探索者免許のICチップを自動改札機にタッチし、分厚い防護ゲートを抜ける。
ピーッ、という無機質な電子音と共に、肌にまとわりつくような湿った空気と、微かな鉄の匂い、そしてカビの入り混じった独特の臭気が鼻を突いた。外界とは明確に異なる、魔素を多分に含んだダンジョン特有の空気だ。
まひるは、冷たい空気を肺の奥深くまで大きく吸い込んだ。
使い慣れた防刃繊維のインナーに、動きやすさを重視した軽量の革鎧。腰のベルトには手入れの行き届いたショートソードと、止血用の包帯、そして緊急用のポーションを数本下げている。平日の公務員としてのオフィスカジュアルを脱ぎ捨ててこのフル装備に身を包むと、半年前に引退したはずの「Cランク冒険者」としての勘が、細胞の隅々まで鮮明に蘇ってくるのを感じた。
ただ一つ、以前の現役時代の装備と決定的に違う点がある。胸元のプロテクターの隙間に、黒くて四角い親指大の小型ウェアラブルカメラがしっかりと仕込まれていることだ。
『行政の指導、国税の差し押さえ、そして現場での違法行為の証拠。全てを揃えて、彼の逃げ道を完全に塞ぐんだよ』
数日前の夜、喧騒に包まれた居酒屋の奥の席で、高木から静かに告げられた言葉を思い出す。
区役所の行政指導や税務署の調査権限で追えるのは、あくまでダンジョンの外側にある書類や金銭の記録だけだ。標的がダンジョンという無法地帯の内部で「どのように利益を不当に得て、どのように現金を隠匿しているのか」という実態を証明するためには、現場での決定的な裏付けがどうしても必要になる。ならば、法の目が届かない地下に潜り、現場の証拠を押さえるのは、元冒険者である自分の役目だ。
まひるは目立たないようにマントのフードを深く被り、賑わう人混みに紛れながら第2階層へと続く薄暗い階段を下りていった。
事前の調査によれば、標的のパーティーは休日の午前中、比較的浅くて安全な階層で活動することが多い。普段は配信用の派手な立ち回りを撮影して視聴者を煽るためだが、今日のまひるの目的は、彼らがカメラを回していない「裏」の顔を白日の下に晒すことだ。
階層を降りてしばらく進み、入り組んだ洞窟の通路を抜けると、開けた岩場の向こうから聞き覚えのある大声が反響して聞こえてきた。
「おいおい、なんだそのシケたドロップ品は。お前ら、ここが誰の狩場かわかっててスライム狩ってんのか?」
岩陰に身を潜めてそっと覗き込むと、無駄に装飾の多い派手な装備に身を包んだ男――大河内と、その取り巻きの男女2人が、高校生か大学生くらいの若い初心者パーティーを壁際に追い詰めていた。
初心者たちは恐怖で顔をこわばらせ、手に入れたばかりの小さな魔石や、スライムの粘液が入った小瓶を抱え込むようにして震えている。
「ここは俺たち『オレ様ファミリー』が特別に管理してるエリアなんだよ。勝手に狩りをしたショバ代として、そのドロップ品、俺たちが相場の1割で買い取ってやるよ。手間が省けてよかったな、感謝しろよ」
「そ、そんな……! これ、やっとの思いで倒して……武器の修繕費に充てないと……」
「あ? 俺の親切な好意が受け取れねえってのか? 痛い目見ないとわかんねえか?」
大河内が恫喝するように腰の剣の柄に手をかけると、初心者たちはビクッと肩を跳ね上がらせ、泣く泣くドロップ品を大河内たちの足元の土の上に置いた。
大河内はそれを鼻で笑いながら拾い上げ、小銭を数枚、小馬鹿にしたように地面に投げ捨てた。
(……最低のクズ野郎)
まひるは奥歯をギリッと噛み締めた。ダンジョン内で他の冒険者を脅迫して獲物を巻き上げる行為、通称・カツアゲは、ギルドの規約で厳しく罰せられる重罪だ。
今すぐ岩陰から飛び出して、あいつらの顔面に全力のドロップキックを見舞ってやりたい。冒険者としての本能が激しくそう叫んでいた。しかし、まひるは胸元のカメラの録画ランプが赤く点灯していることを指先で確認し、岩の表面に爪を立ててじっと耐えた。
今はまだ、手を出してはいけない。これは怒りを行使して目の前の悪を殴り飛ばす場ではなく、相手の社会的地位を奪い、法的に首を絞めるための強靭なロープを編む作業なのだ。どんな理不尽を前にしても決して声を荒らげない高木の冷静な横顔を思い浮かべ、まひるは静かに深呼吸をした。
初心者たちから獲物を巻き上げた後、大河内のパーティーは上機嫌でさらに奥へと進んでいった。
まひるは自身の気配を絶ち、一定の距離を保って岩肌に沿うように後を追う。Cランクの危険地帯まで生き残った彼女の隠密スキルは、大河内のような他者を威圧することしか知らない中途半端な冒険者に見破れるものではない。
第3階層に降りたあたりで、大河内たちは立ち止まった。
ここはゴブリンやオークなどの亜人系モンスターが多く生息する、少し開けたエリアだ。
「おい、例のやつ撒け」
大河内の指示で、取り巻きの一人がリュックからどろりとした紫色の肉片を取り出し、広場の中央にばら撒いた。鼻が曲がるような強烈な腐臭が漂ってくる。
(あれは……『痺れ肉』!?)
まひるは信じられない思いで目を疑った。
違法な麻痺毒を仕込んだ魔物の肉だ。あれを食べたモンスターは全身の神経が麻痺し、一切の抵抗ができないまま数分で死に至る。安全に狩りができる反面、強力すぎる毒成分が周囲の土壌や地下水脈に染み出し、ダンジョン内の生態系に深刻なダメージを与えるため、ダンジョン特別措置法およびギルド規約で絶対に使用が禁じられている違法アイテムだ。環境保全課に長く在籍していた高木があの惨状を見れば、どれほど顔色を変えて激怒するだろうか。
数分後、強烈な匂いにつられて広場に現れたゴブリンの群れが肉に群がり、次々と口から泡を吹いて痙攣し、地面に倒れていった。
大河内たちは安全な岩の上からそれを見下ろしたのち、動けなくなったゴブリンたちの胸を剣で無造作に突き刺し、手際よく魔石だけを抉り取っていく。
「ギャハハ! 楽勝だな! 配信じゃ『命懸けの死闘』とか適当に実況つけとけば、バカなリスナーが感動して勝手に金投げちまうんだからチョロいぜ!」
大河内は血まみれの魔石を袋に詰めながら、下品に笑い声を上げた。
『俺は命懸けでモンスターと戦ってんだよ!』という区役所の窓口で響き渡ったあの怒鳴り声が、どれだけ薄っぺらく虚飾に満ちたものか。まひるは胸の奥から吐き気を催しそうになりながらも、その違法な狩猟の一部始終と、大河内の顔をしっかりとカメラのフレームに収め続けた。
★★★★★★★★★★★
その後、大河内たちは第3階層の外れ、正規のセーフエリアから少し離れた薄暗い洞窟の入り口付近で足を止めた。
そこには、土や血の匂いが充満するダンジョン内には不釣り合いな、ダークスーツを着た男が一人、立っていた。背後には護衛らしき屈強な男が2人、油断なく周囲に目を配りながら控えている。
「遅かったじゃねえか。今日の分だ」
大河内がずた袋をスーツの男に放り投げた。
男は袋の口を開けて中身を確認し、満足そうに頷く。
「全部で魔石35個。初心者から巻き上げた分も含めて、なかなか上質ですね。では、手数料として市場価格から3割引かせていただきまして……こちらが現金になります」
男がアタッシュケースから帯のついた分厚い札束を取り出し、大河内に渡した。大河内は札束を親指で弾いて枚数を確認し、ニヤリと笑って自分のリュックの奥底に押し込んだ。
(ビンゴだ……!)
まひるの心臓が早鐘のように鳴った。
ギルドを通さない私設買取業者との、足のつかない現金取引。これがマリの言っていた「マネーロンダリング」の手口の一部であり、大河内が巨額の所得を隠匿している決定的な証拠だ。
相手の顔も、現金の受け渡しの瞬間も、高解像度のカメラでばっちりと記録した。これ以上追う必要はない。まひるは足音を立てないようにゆっくりと後退し、その場を離れようとした。
――その時だった。
「おい」
背後から、低くしゃがれた声が降ってきた。
ハッとして振り返った拍子に、まひるが深く被っていたマントのフードが、ふわりと後ろへ滑り落ちた。
目の前には、スーツの男の後ろに控えていたはずの護衛の一人が、いつの間にかまひるの背後数メートルの位置に立っていた。隠密行動に特化したシーフ系統の冒険者だ。
しまった、とまひるは舌打ちをした。対象の取引に意識を集中するあまり、周囲への警戒がほんの一瞬、疎かになっていたのだ。
「こんな岩陰で、お嬢ちゃん一人で何してんだ? その胸の黒いレンズ……趣味の撮影ってわけじゃなさそうだな」
護衛の男が、チャキリと短いダガーを抜いた。
その声に気づき、大河内とスーツの男たちもいっせいにこちらを振り向く。
「ああっ!? てめぇ、この間の区役所の女じゃねえか!!」
フードが外れて露わになったまひるの顔を見るなり、大河内が裏返った声を上げた。
「なんで公務員がこんなとこにいんだよ! おい、そいつ盗撮してやがったぞ! 絶対にカメラを奪え!!」
大河内の絶叫を受け、ダガーを持った護衛の男がまひるに向かって一気に距離を詰めてきた。
背後は岩壁で逃げ場はない。距離はわずか3メートル。
(『私たちが先に手を出してしまえば、区の立場が悪くなるだけだからね』)
まひるの脳裏に、高木の静かな声がフラッシュバックした。
そうだ。私は公務員だ。喧嘩を売られて先に殴ってしまえば、法的な正当性を失ってしまう。
まひるはダガーを構えて突進してくる男に対し、両手を顔の横に上げて「防御」の姿勢をとった。そして、自分からは一歩も動かない。
「死ねやぁッ!!」
男が鋭く踏み込み、まひるの右肩を狙ってダガーを勢いよく振り下ろした。
刃がまひるの革鎧に届く、ほんの数センチ手前。相手の明確な「殺意」と「先制攻撃」の事実が確定した、その瞬間。
(――正当防衛、成立)
まひるの体が、弾かれたように動いた。
振り下ろされるダガーの軌道を左手で外側へ弾きながら、右足を踏み込んで男の懐へ深く潜り込む。そのまま相手の右腕を両手でガッチリと捕縛し、自分の肩を支点にして男の体重を利用し、前方へ一気に投げ飛ばした。
「がッ!?」
男の巨体が宙を舞い、背中から岩場に激突する。
まひるはそのまま男の右腕を離さず、肘の関節を自分の膝で強烈に極め上げた。
ゴキリ、という鈍い音が響き、男が鼓膜を破るような悲鳴を上げる。
「痛ぇぇぇぇッ!! 腕が、腕がぁ!!」
「ごめんなさい、私から手は出せないルールなんです! だからこれ、完全な正当防衛ですからね!」
まひるは男を地面に縫い留めたまま、残りの連中を鋭い視線で睨みつけた。
「次、誰が来ますか。公務執行妨害と殺人未遂で、このまま全員関節外しますけど」
その気迫と、一瞬で護衛を無力化したまひるの凄まじい戦闘力に、大河内とスーツの男たちはすっかり戦意を喪失した。
「ひぃっ……! 逃げろ!!」
「お、おい待てよ!」
大河内たちは仲間を見捨て、蜘蛛の子を散らすようにダンジョンの奥へと逃げていった。
まひるは彼らの背中を追うことはしなかった。目的は彼らを倒すことではない。この胸のカメラに収められた、確固たる「証拠」を持ち帰ることだ。
まひるは極めていた腕を解放し、呻く男を放置して、足早に地上への帰路についた。
★★★★★★★★★★★
週明けの月曜日。
新宿区役所ダンジョン管理課のフロアの隅で、高木はまひるの持ち帰ったウェアラブルカメラの映像を、無言でモニターで確認していた。
初心者への恐喝、違法な毒餌の使用、そして非合法な私設業者との現金取引。映像は手ブレも少なく、大河内たちの顔も音声も鮮明に記録されていた。
「……素晴らしい。見事な仕事だったよ、安藤さん」
映像の再生を終え、高木は深く息を吐いてからまひるに向き直った。
その声には、部下の確かな働きに対する純粋な労いが込められていた。
「ありがとうございます。でも、最後に業者の護衛に見つかって、少しだけ……手を出してしまいました。すみません」
まひるが申し訳なさそうに頭を下げると、高木は映像の最後――相手が刃物を振り下ろしてくる瞬間までまひるが防御姿勢を崩さなかった場面を、マウスで巻き戻して静止させた。
「いや、謝る必要はないよ。相手の明確な攻撃の意思を確認し、刃物が届く直前まで反撃を待っている。これは刑法第36条が定める『急迫不正の侵害』に対する『防衛の意思』に基づく行為として、見事なまでに正当防衛の要件を満たしている。法的にも問題はないはずだ」
高木は静止画のまひるの構えを指差し、感心したように頷いた。
「君はもう、ただの冒険者じゃない。立派な行政の最前線を担う職員だよ。……怪我がなくて本当によかった」
「主任……」
高木の柔らかく、しかし重みのある言葉に、まひるの胸に熱いものが込み上げてきた。
力でねじ伏せるだけの冒険者から、少しだけ成長できた気がした。
「さて。これで大河内リョウの言い逃れのできない『現場の証拠』は出揃ったね」
高木は映像データを暗号化してUSBメモリに移すと、立ち上がってジャケットを羽織った。
「このデータと、宮本さんが洗っている裏口座の記録。この二つが合わされば、これで彼を徹底的に追い詰めることができる。国税が動くのも、もうすぐだよ」
「はい。よろしくお願いします、主任」
まひるは力強く頷いた。
法の網の目をすり抜けようとする悪意に対し、それを縛り上げるための準備は整った。ダンジョン管理課の静かな執務室で、反撃の狼煙が上がろうとしていた。




