第47話 Xデーの朝と一斉接収
運命の月曜日。午前6時。
高木のマンションには、決戦の朝とは思えないほど静かで落ち着いた空気が流れていた。
リビングのフローリングの上では、2匹の小さな毛玉が平和な攻防を繰り広げている。
先住猫のマンチカン、ベルが退屈そうに床に寝転がり、短い前脚を宙に向けてパタパタと動かしていた。少し離れたケージの最上段からは、新入りのブリティッシュショートヘア、アッシュがその様子をじっと見下ろしている。
高木がしゃがみ込み、引き出しから羽のついた猫じゃらしを取り出して床を這わせると、ベルは弾かれたように起き上がった。丸い瞳を黒目がちにして輝かせ、短い脚をフル回転させてトテトテと追いかけ、両手でしっかりと羽を抱え込もうとする。
その様子を観察していたアッシュが、音もなく床に降り立った。ベルが羽を逃した一瞬の隙を突き、横から滑り込むようにして前脚で羽を押さえつける。ブルーグレイの被毛がしなやかに躍動した。
「にゃっ」
獲物を横取りされたベルが抗議の声を上げ、アッシュの短い尻尾にじゃれつく。アッシュも反撃するように軽く前脚を伸ばし、2匹の小さな毛玉がもつれ合うようにしてじゃれ合い始めた。
高木は足元でじゃれ合う2匹をしばらく満足げに眺めたのち、朝食の準備に取り掛かった。
今日の朝食のメインは、出汁巻き卵だ。
ボウルに新鮮な卵を3つ割り入れ、箸で白身を切るように溶きほぐす。そこに、前夜から利尻昆布と本枯節で丁寧に引いておいたたっぷりの一番出汁と、ごく少量の薄口醤油、塩を加えた。
熱した卵焼き用の四角いフライパンに油を薄く引き、卵液の3分の1を流し込む。ジュワッという小気味良い音が鳴り、卵の縁がふつふつと膨らむ。高木は菜箸で素早く気泡を潰し、半熟の状態のまま手前へと手早く巻き上げていく。奥に滑らせて再び油を引き、残りの卵液を少しずつ足しながら、薄衣を重ねるように巻いていく。
一切の焦げ目がない、美しい黄金色に焼き上がった出汁巻き卵を巻き簾で包み、軽く形を整える。包丁で切り分けると、熱い湯気とともに、断面からたっぷりの出汁がじゅわりと滲み出した。
水気を適度に絞った大根おろしをたっぷりと添え、土鍋で炊いた艶やかな白米、そして豆腐とワカメの味噌汁を並べる。
一口食べるごとに、卵の優しい甘みと出汁の深い旨味が細胞の隅々にまで染み渡っていく。味噌汁の温かさが胃を優しく刺激し、米の甘みが力強いエネルギーへと変わっていくのを感じる。これから始まる国家権力との全面対決を前に、脳と身体のコンディションを最高潮に整えるための、完璧な食事だった。
空になった食器を片付け、アイロンの当てられたスーツのジャケットを羽織る。足元でじゃれつくベルとアッシュにもう一度触れ、高木は静かに「行ってくる」と家を出た。
★★★★★★★★★★★
午前9時55分。霞が関の経済産業省、大会議室。
天井に吊るされた豪奢なシャンデリアが、集まった報道陣のカメラが放つフラッシュの光を乱反射していた。
長テーブルの奥には、新法案を推進するエリート官僚たちと、テレビでもお馴染みの有識者会議のメンバー、そしてオブザーバーとして招かれた株式会社オメガ・ファミリアの幹部たちが、仕立ての良いスーツに身を包み、余裕の笑みを浮かべて着席している。彼らの胸元に光るバッジや高級時計が、この場を支配する権力の象徴のように輝いていた。
彼らの手元に置かれた資料には、『ダンジョン特別措置法改正案』の最終答申が記載されている。間もなく開始される定例会見でこれが発表されれば、ダンジョンの管理権限は地方自治体から完全に剥奪され、国と一部の特権クランによる寡占体制が合法的に完成する。
彼らの顔に浮かぶのは、圧倒的な権力を行使する側の、疑いようのない勝利への確信だった。会場の空気は、彼らの思い通りに歴史が動くことを祝福するように、完璧な静寂と秩序に包まれている。
同時刻。新宿区役所、ダンジョン管理課。
市民の喧騒から隔絶された静まり返ったバックヤードで、高木は分厚いバインダーを両手で持ち、鈴木課長のデスクの前に立っていた。傍らには、固唾を呑んで見守るまひるの姿がある。
バインダーに挟まれているのは、新宿区長名で発行される『特区内施設の行政代執行』と『営業停止命令』の決裁書だ。
「課長、決裁を」
高木の声は、普段と変わらぬ平坦なトーンだった。
鈴木課長は、手にしたハンコを小刻みに震わせていた。決裁書を持つ手は血の気が引き、白く強張っている。これに公印を押せば、一地方自治体が国の中枢と巨大企業に対し、真っ向から牙を剥くことになる。これまでの公務員生活のすべてが、そして自身の出世や退職金すら吹き飛びかねない事態だ。
「……すべての責任は、私個人が取ります」
高木の静かな声に、鈴木課長はハンコを持った手をピタリと止めた。
この数ヶ月、目の前の大柄な部下がどれほどの逆風の中で、どれだけ正確に区民の安全と法の秩序を守り抜いてきたか。それを一番近くで見せられてきたのは他でもない自分だ。だが、相手は国の中枢と巨大企業。事なかれ主義で生きてきた自身のキャリアが、この小さな朱肉の印1つで完全に終わるかもしれない。
数秒の重苦しい沈黙の後、課長は大きく、深く息を吐き出した。
「……君1人の責任で済むなら、誰も苦労はしないよ」
力ない、しかしどこか吹っ切れたような声だった。震えの止まらない右手を左手で押さえつけながら、鈴木課長は決裁書の所定の位置に、ゆっくりと、だが確実にハンコを押し当てた。
「……後始末の始末書、何枚書かされるかわからんな。頼むぞ、高木くん」
午前10時00分。
時計の長針が頂点に達したその瞬間、目に見えない巨大な爆弾が世界中で同時に起爆した。
今井素子の動画チャンネルで、『国家の闇! ダンジョン特区の不法と隠蔽』と題された動画がプレミア公開される。待機していた数十万人の視聴者たちのコメントが、怒涛の勢いでチャット欄を滝のように流れ始めた。
それと全く同じタイミングで、クロエが構築したネットワークを通じて、英語、中国語、スペイン語に翻訳された告発データが、世界中の主要ニュースサイトやインフルエンサーに向けて一斉に送信された。
ハッシュタグ『#JapansDungeonCorruption』が、瞬く間に各国のSNSトレンドのトップに躍り出る。
国税局の極秘フォーマットで再構築された、ペーパーカンパニーを経由したマネーロンダリングの証拠。保健所から流出した、違法魔物肉によるバイオハザードと未知の寄生虫の培養データ。ギルドのデータベースから抽出された、外国人労働者に対する非人道的な労働搾取の実態。
隠蔽の仕様がないほどの膨大な一次資料が、秒速で世界中の端末へと拡散していく。SNSのタイムラインは、驚愕、怒り、そして混乱の声で隙間なく埋め尽くされていった。
経産省の大会議室。
会見の冒頭挨拶が始まろうとしたその時、官僚の1人のスマートフォンが、マナーモードを無視してけたたましく鳴り響いた。それを皮切りに、会場にいるすべての関係者の端末が、一斉に狂ったような通知音を上げ始める。
会場の端に待機していた新聞やテレビの記者たちも、自分たちの端末の異常な通知に気づき、ざわめき始めていた。
「何事だ!」
「ネットを見ろ! 海外の主要メディアがトップニュースで一斉に報じています!」
「外国人投資家が日本の特区関連株を投げ売りしています! 株価が暴落中だ!」
完璧な秩序が保たれていたはずの会議室は、一瞬にして怒号と悲鳴が飛び交うパニック状態に陥った。
その混乱の中心で、オメガ・ファミリアの代表のスマートフォンにも、現場からの絶望的な報告が立て続けに飛び込んでいた。
『代表! 銀行の……! 裏口座が、凍結……! 国税が踏み込んできました! 1円も動かせません!』
財務担当からの悲鳴に答える間もなくキャッチホンが入り、法務担当の震える声が響く。
『ギルドから通達が……っ! ライセンスが、停止……っ! ダンジョン特区に入れません、どうなってるんですか!?』
さらに、通信アプリには系列飲食店の統括マネージャーからのメッセージが連続でポップアップする。
『保健所です! いきなり系列店全部に……食材を押収されて……! 営業停止の紙が……!』
代表の男は血の気を失い、震える指で画面をスワイプするが、どこを開いても表示されるのは無機質なエラー画面と絶望的な報告ばかりだった。彼がこれまでに築き上げてきた鉄壁の防陣が、音を立てて崩れ去っていく。
午前10時15分。新宿御苑のダンジョン特区ゲート前。
突然のライセンス停止とシステムのダウンにより、オメガ・ファミリアの警備員や関係者たちが何が起きているのか理解できず、右往左往していた。
そこへ、キャタピラの重い金属音とディーゼルエンジンの排気音を響かせながら、黄色いヘルメットを被った新宿区の土木作業員たちが、数台の重機を伴って現れた。
彼らの先頭に立つのは、公印の押された分厚い決裁書を手にした高木だ。その傍らのまひるは普段のオフィスカジュアルではなく、いつでも動けるように作業用のジャンパーを羽織り、真っ直ぐにゲートの奥を見据えている。
「な、なんだお前ら! ここは国の直轄特区だぞ!」
青ざめた顔で立ち塞がろうとするオメガの幹部に対し、高木は歩みを止めることなく、極めて平坦で、しかし周囲の空気を震わせるほどよく通る声で告げた。
「これより、地方自治法および建築基準法に基づき、当エリアの違法建築物に対する行政代執行を開始する」




