第46話 国際世論の導火線と真夜中のアヒージョ
「明日の午前8時。日本のダンジョン行政の歴史を、正しく終わらせましょう」
高木の静かな、しかし確かな重みを持った宣言がリビングに響き渡った。
国税のマリ、ギルドの恵里、保健所のゆき子、区役所のまひる。そして今井素子、クロエ・ウィリアムズ、谷口ヒカル子。各分野から集結した規格外の協力者たちは、誰一人として異論を挟むことなく、それぞれのノートパソコンやタブレットの画面へと視線を戻した。
時計の針は午後10時を回ろうとしている。暖色系の間接照明が照らす室内には、キーボードを叩く乾いた音と、マウスのクリック音だけが規則的に響いていた。
国内のメディアや警察組織に持ち込めば、経産省の圧力によって握りつぶされる公算が高い。その壁を突破するための解答は、すでに素子とクロエによってもたらされていた。海外のニュースネットワークと巨大プラットフォームを用いた、多言語による一斉告発である。
証拠の信憑性を高めるための実務作業は、すでに分担されていた。
マリは複雑なダミー法人の資金の流れを、海外の税務当局が注視する国際基準のフォーマットへと再構築している。恵里はギルドのデータベースから抽出した労働搾取の記録を整理し、ゆき子は違法魔物肉と寄生虫の培養データを英文の医学論文の形式へと落とし込んでいく。まひるは各行政機関の公開データを印刷し、裏付け資料としてスキャンする作業に没頭していた。
ソファの上に胡座をかいたヒカル子は、独自の裏ルートから拾い上げた暗号化ファイルのプロテクト解除を無言で進めている。
「……送信先のリスト、第一陣の選定が終わったわ」
素子が手元のタブレットを操作しながら、口元に微かな笑みを刻んで言った。
「私のコネクションがある海外のフリージャーナリストと、各国の環境保護団体、それに人権機関のアドレス。これらをベースにして、一気に火をつける」
「こっちも準備できてるヨ!」
クロエが防塵ゴーグルを額に押し上げながら、明るい声を上げた。彼女のノートパソコンの画面には、英語圏で数百万のフォロワーを持つインフルエンサーたちへのダイレクトメッセージの画面がいくつも開かれている。
「Kenzoたちがまとめた事実、私のアカウントからも全部Spread(拡散)するから。日本のダンジョンで何が起きてるか、みんな絶対にショックを受けると思うヨ」
クロエの真剣な横顔を見つめながら、高木は数日前の昼下がりの光景を思い返していた。
彼女が免税品の不正輸出のダミーにされていた事実を突き止め、修正申告の対応を終えた後のことだ。昼食を取っていなかったクロエを伴い、高木は区役所から少し歩いた先にある近所の老舗蕎麦屋へと立ち寄った。
年季の入った木製のテーブルに、湯気を立てる鴨せいろが二つ並べられていた。
甘辛いかえしと鴨の脂が溶け出した熱いつけ汁。そこに、冷水でキリッと締められた二八蕎麦を浸して手繰る。クロエは少し不器用な手つきで箸を使いながらも、その奥深い味に目を丸くしていた。
『……美味しい。でも、なんだか悲しい味だね』
鴨肉の脂をまとった葱を噛み締めながら、クロエはポツリとこぼした。
『日本のダンジョンは、誰にでもチャンスがあってCoolだと思ってた。でも、ルールが難しすぎて、それを悪用する悪い大人たちがいっぱいいる。留学生のFriendたちも、みんな疲れた顔をしてダンジョンに入っていくヨ。……こんなのおかしい』
彼女の純粋な怒りと失望。それが、今日のこの場における原動力の一つとなっていた。この国の法律の穴を突いて利益を貪る特権階級を、外部からの圧力という形で白日の下に晒す。彼女は彼女自身の正義のために、リスクを承知でこの作戦に加わっているのだ。
「ヒカル子ちゃん、こっちのデータ変換終わったよ。そっちの照合お願いできる?」
「ん、オッケー。こっちの裏帳簿のデータと紐付けしておく」
まひるからUSBメモリを受け取ったヒカル子が、慣れた手つきでハッキングツールを走らせる。
部屋の隅に置かれたケージのそばでは、マンチカンの子猫のベルと、ブリティッシュショートヘアのアッシュが、見慣れない緊迫した空気を察してか、珍しく大人しく香箱座りをして「にゃあ」と小さく鳴いた。
深夜1時。
極度の集中を続ける彼女たちのタイピングの速度が、わずかに落ち始めていた。コーヒーの消費量が増え、画面を見つめる目には疲労の色が滲んでいる。
高木は静かに席を立ち、キッチンのシンクの前に立った。
エプロンを身につけ、冷蔵庫を開ける。徹夜での作業が確定している彼女たちには、脳への手早い糖分供給だけでなく、疲労を吹き飛ばす香りと良質な脂質が必要だった。
鋳鉄製の小さなスキレットをコンロに置き、底が隠れるほどのオリーブオイルを満たす。薄切りにしたニンニクと、半分に折って種を取り除いた鷹の爪を沈め、ごく弱火にかけた。
油の温度が徐々に上がり、ニンニクの縁から細かい気泡が立ち始めると、キッチンにスパイシーな香りが満ちていく。換気扇を回していても、その香りはリビングへと流れ込み、作業を続ける女性陣の顔をわずかに上げさせた。
高木はニンニクがうっすらと黄金色に変わった絶好のタイミングで、背ワタを取って水分を完全に拭き取った海老と、四つ割りにしたマッシュルームを油の中へ滑らせる。
チリチリという軽快な音とともに、海老の表面が鮮やかな赤色に変わり、マッシュルームが油を吸って縮んでいく。仕上げにみじん切りにしたパセリを振り、塩気の調整として少量のアンチョビペーストを溶かし込んで火を止めた。
隣のコンロに置いた焼き網で、薄くスライスしたバゲットの表面をカリッと炙る。
「夜食にしましょう。手が空いた者からどうぞ」
高木がダイニングテーブルの空いたスペースに木製の鍋敷きを置き、その上に熱々のスキレットを乗せた。海老とニンニク、アンチョビの混ざり合った香ばしい匂いが立ち昇る。
まひるが真っ先にノートパソコンから手を離し、小走りでテーブルへとやってきた。彼女はバゲットを一枚手に取ると、まだ小さな泡を立てているオイルにたっぷりと浸した。
「いただきます」
短く呟き、一口で頬張る。サクッという音の直後、まひるの顔から一瞬にして疲労感が抜け落ちた。熱さで小さく息を吐きながら、無言でもう一枚のバゲットに手を伸ばす。
その様子につられるように、他のメンバーも次々と立ち上がり、テーブルを囲んだ。
ヒカル子は「あつっ」と舌を出しながらも海老を放り込み、クロエはフォークでマッシュルームを器用に突き刺している。マリはバゲットを囓りながら、少しだけ物足りなそうな顔でミネラルウォーターのグラスに手を伸ばした。
温かいオイルのコクと塩気が、張り詰めていた彼女たちの心身を芯から癒やしていく。不要な会話はない。ただ無心に食事を進め、脳のエネルギーを回復させるための静かな時間だった。
スキレットの底に残ったオイルの一滴までバゲットで拭き取られ、テーブルの上が空になる頃には、彼女たちの目には再び鋭い光が戻っていた。
「ごちそうさまでした。……さて、最後の詰めを終わらせてしまいましょうか」
マリが手元の資料を整えながら、凛とした声で言う。
各々が自分の持ち場へと戻り、再びキーボードを叩き始めた。
明日の午前8時。新法案を可決させるための委員会が開かれる直前の時間。
海外の巨大なネットワークを通じ、日本のダンジョン行政の暗部を暴くデータが一斉に世界へと放たれる。国内の権力構造では決して防ぐことのできない、情報の飽和攻撃だ。
高木は空になったスキレットをシンクに下げながら、窓の外に広がる新宿の夜景に目を向けた。
夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。




