第45話 自宅での作戦会議と豚の角煮
午後7時。高木の1LDKのマンションのリビングは、静かだが密度の高い熱気に包まれていた。
普段は殺風景な男やもめの部屋が、宮本マリ、大野恵里、工藤ゆき子、そして安藤まひるという女性陣によって埋め尽くされている。
暖色系の間接照明が、ローテーブルやダイニングテーブルを柔らかく照らし出している。壁際に置かれた本棚には、法律関係の専門書や分厚いバインダーが隙間なく並び、主の几帳面な性格を物語っていた。
部屋の主であるマンチカンのベルと、ブリティッシュショートヘアのアッシュは、これほど多くの来客を迎えるのは初めての経験だった。
最初は見知らぬ人々の気配に驚き、ベルはソファの裏に、アッシュはケージの最上段の奥に身を隠していた。しかし、危害を加える存在ではないと理解したのか、あるいは女性陣が放つ穏やかな空気に警戒を解いたのか、今ではすっかりリビングの中心に陣取っている。
淡いクリーム色の被毛を持つベルは、マリの膝の上に丸くなり、彼女の滑らかなタイトスカートの生地に顔を押し付けて心地よさそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。時折、マリが書類をめくる音に反応して耳をピクッと動かすものの、そこから離れようとはしない。一方、ブルーグレイのアッシュは、ゆき子の足元で彼女のストッキングの匂いを熱心に嗅いだ後、まひるのリュックの紐に前脚を引っ掛けて一人でじゃれついていた。その無邪気な様子が、部屋に漂う見えない緊張感を少しだけ和らげていた。
張り詰めた空気と、連日の激務による疲労を解きほぐすため、高木は黒い無地のエプロン姿でキッチンに立ち、手際よく取り皿と小鉢を用意していた。換気扇の下では、小鍋で温め直された特製の『豚の角煮』が、コトコトと静かな音を立てている。
高木は火を止めると、両手で大きな陶器の深皿を運び出し、ダイニングテーブルの中央に静かに置いた。
前日の夜からじっくりと仕込んでおいた、特製の豚の角煮だ。
厚切りの豚バラ肉は、まずフライパンで表面を香ばしく焼き付けて肉の旨味を完全に閉じ込める。その後にたっぷりの湯とネギの青い部分、生姜の薄切りとともに下茹でを繰り返し、余分な脂と臭みを徹底的に抜き落とす。そこから醤油、酒、みりん、少量の砂糖を加えた煮汁とともに厚手の鍋に移し、とろ火で数時間かけて煮込んでいく。
深い琥珀色に染まった肉の塊からは、八角と生姜の奥深い香りがふわりと立ち昇り、疲労した身体の食欲中枢を直接刺激する。
付け合わせには、豚の旨味と甘辛い出汁をスポンジのようにたっぷりと吸い込んだ面取りされた大根と、口直しに最適な色鮮やかな小松菜のお浸しが添えられている。大根は煮崩れを防ぐために一つ一つ丁寧に面取りされ、下茹でをしてから豚肉の煮汁でじっくりと味を含ませてある。小松菜は塩を加えた熱湯でサッと色止めをし、冷水で締めることで鮮やかな緑色とシャキシャキとした食感を保っていた。
高木が取り分け用の菜箸を添えると、濃厚な匂いに釣られたベルがマリの膝から立ち上がり、テーブルの上に前脚を掛けようとした。
「こら、ベル。人間の食べ物は塩分が強すぎるから駄目だ」
高木が大きな手でそっとベルを押し戻すと、ベルは不満そうに「にゃっ」と短く鳴き、再びマリの膝の上で丸くなった。
「……信じられない。口の中で溶けたわよ……」
マリが目を丸くし、箸の先を見つめた。赤身の部分はしっとりと柔らかく、脂身はゼラチン質へと完全に変化しており、舌の上で抵抗なく崩れていく。
隣に座る恵里も、行儀良く両手を合わせてから、小さく息を吐きながら角煮を口に運んでいた。
「美味しい……。甘辛いタレが、疲労した心身に染み渡ります。大根も、中まで完璧に味が染みているのに全く煮崩れていない」
「味は、火にかけている時ではなく、冷めていく過程で最も食材の奥深くまで浸透するからね」
高木は自身の取り皿に小松菜を取り分けながら、淡々と答えた。小松菜は茹ですぎず、シャキシャキとした心地よい歯ごたえを残している。
まひるは「おかわりありますか!」と茶碗を両手で差し出した。高木がキッチンにある土鍋から炊きたての白米をよそうと、まひるは嬉しそうに角煮のタレをご飯に絡めて夢中で掻き込んだ。
ゆき子は静かな手つきで大根を味わいながら、食後の温かいほうじ茶に口をつけた。
極上の食事が、国家権力という巨大な壁を前にして強張っていた彼女たちの神経を、確実に落ち着かせていく。
食事が一段落し、空になった皿や茶碗が手際よく片付けられると、テーブルの上は即座に無機質な仕事場へと姿を変えた。
各機関から持ち寄られた分厚い極秘資料の束や、ノートパソコン、タブレット端末が所狭しと広げられる。
「ダンジョン内での非合法な魔石取引やテナント料の着金先は、経産省の天下り先よ」
マリが、複雑な資金の流れを示すA3サイズのフローチャートをテーブルの中央に滑らせた。紙が擦れる乾いた音が響く。チャートには、無数のダミー会社と海外口座を経由した金の流れが、黒と赤の矢印で緻密にマッピングされていた。彼女の赤いペン先が、ダミー会社群の終着点をトントンと叩く。
「これで国税の強制調査の要件は満たしたわ」
「推進派官僚の視察日程と、該当クランの活動履歴が一致しています」
恵里が手元のタブレットを操作し、照合済みのエクセルデータをモニターに映し出した。数万行に及ぶギルドの入出区記録と、官僚の公用車のETC履歴データだ。青白い光が彼女の知的な横顔を照らす。
「ギルド法務部として、ライセンスの即時停止処分を出せます」
ゆき子が、静かに分厚いクリアファイルを差し出した。
「違法魔物肉の流通の要だった冷蔵倉庫は、彼らの管理物件です」
ゆき子は無表情のまま、報告書の重要箇所を細い指で指し示した。中には、電子顕微鏡で撮影された病原菌の拡大写真と、流通経路を証明するトラックの運行記録がファイリングされている。
「食品衛生法と感染症法に基づき、即時封鎖と立ち入り検査に入ります」
プロフェッショナルたちによる短く的確な報告が交わされる中、まひるが資料の束を見つめながら重苦しい声を出した。
「……でも、これだけの証拠が揃っていても、どうやって相手に突きつけるんですか? 警察や検察に持ち込んでも、相手は国の中枢です」
まひるは不安そうに周囲を見回した。
「密室で揉み消される可能性が高いですよね。その間に新法案が可決されてしまえば、全部手遅れになります」
まひるの懸念に対して、室内は静まり返った。エアコンの微かな作動音だけが響く。資料の束を前にしたまま、誰の口からも即座の反論は出ない。テーブルの上に積み上げられたのは、間違いなく国家の中枢を揺るがすだけの爆発物だ。しかし、それを起爆させるための導火線が、彼ら公務員の手には存在しない。
その時、玄関のインターホンが軽快な音を立てて鳴った。
高木が席を立ち、玄関のドアを開けると、そこには不敵な笑みを浮かべたフリージャーナリストの今井素子と、防塵ゴーグルを首に下げた陽気な留学生のクロエの姿があった。素子は、夜の街を抜け出してきたようなスパイシーで妖艶な香水の匂いを微かに纏っていた。クロエはいつものようにカラフルなウィンドブレーカー姿で、大きなリュックを背負っている。
さらに、クロエの後ろからは、だぼついたパーカーを着たヒカル子がひょっこりと顔を出した。
「約束通り、裏のピッキングなんか使わずに、『表の運び屋』としてこの子を無事にここまで護衛してきたよ」
ヒカル子の報告に、高木は短く「ご苦労だった」と頷き、3人分のスリッパを出してリビングへと招き入れた。初めて見る新しい顔ぶれに、ベルとアッシュが興味深そうに近づいていく。
素子は部屋に入るなり、テーブルの上に広げられた極秘資料の山を一瞥した。マリと素子の視線が一瞬だけ交錯し、互いの立場と役割を静かに値踏みするような無言の牽制が走る。
素子はすぐに視線を外し、自身のスマートフォンを掲げた。画面には、すでに作成済みの動画のサムネイルと、海外メディアへの一斉送信用のメーリングリストが表示されていた。
「密室で揉み消される前に、私のチャンネルと海外メディアに一斉にリークするわ。炎上で外堀を埋めてあげる」
素子は不敵に笑った。
クロエも胸を張り、自身のスマートフォンのSNSアプリを開いて眩しい笑顔を見せた。画面には、英語で書かれた告発文のドラフトが表示されている。
「私のネットワークで世界中に拡散するよ! ケンゾーには助けてもらった恩があるからね! オーストラリアのインフルエンサーたちも、スタンバイOKだって」
高木はエプロンを外し、ジャケットを羽織ってから、並べられた資料の前に立った。分厚い胸板が、ワイシャツの生地を内側から押し上げている。彼の視線は、テーブルの上に揃ったすべての武器を冷静に値踏みするように動いた。
高木は並べられた資料の上に両手を組み、集まった女性たちを静かに見回した。
高木は静かに呼吸を整え、次なる一手へと意識を向けた。
「国会で法案が採決される前に、推進派の足元を完全に崩します。各機関の権限行使と、メディアへの情報公開のタイミング。1秒のズレも許されません」
高木は、1地方公務員として、冷徹な声で作戦の開始を宣言した。
「明日の午前8時。日本のダンジョン行政の歴史を、正しく終わらせましょう」




