第38話 異文化交流と感謝のハグ
水曜日の夜。
高木は自宅マンションのキッチンに立ち、ぐらぐらと沸騰する大きな鍋の中で、二八蕎麦の乾麺を泳がせていた。
昨日の昼、クロエへの事情聴取のために立ち寄った老舗蕎麦店で鴨せいろを味わったばかりだが、あの芳醇なつゆの香りが記憶にこびりついて離れず、今夜は自宅で蕎麦を手繰ると決めていた。
たっぷりの湯で指定の時間通りに茹で上げた蕎麦を、素早くざるにあけ、流水で揉むようにして表面のぬめりを取る。そして最後に氷水にサッと浸し、麺をキリッと冷たく締め上げた。
隣のコンロでは、つけ汁の準備が整いつつある。
鴨肉の代わりに用意したのは、手に入りやすい豚バラ肉の薄切りだ。まずはフライパンに油を引かずに豚肉を並べ、弱火でじっくりと脂を引き出す。カリッとした焦げ目がついたところで、大きく斜め切りにした長ネギを投入し、豚の脂をまとわせながら香ばしく焼き色をつける。そこに、鰹と昆布で濃いめに引いた合わせ出汁を一気に注ぎ込んだ。
ジュワァッという音と共に、豚の脂の甘みとネギの香ばしさが出汁に溶け出していく。かえしと少量の本みりんを加え、少し濃いめの熱いつけ汁に仕上げた。
高木は冷たく締めた蕎麦をざるに高く盛り付け、熱々のつけ汁を深めの器に注いだ。
そして、戸棚の奥から小さな木製の筒を取り出した。京都の老舗が調合した『黒七味』だ。
黒七味は、一般的な赤い七味唐辛子とは一線を画す。唐辛子、山椒、白ごま、黒ごま、けしの実、麻の実、青のり。これらを丁寧に焙煎し、手間をかけて手揉みで油分を引き出しながらブレンドすることで、あの独特の濃い茶褐色が生まれる。
高木が木筒の栓を抜き、熱いつけ汁の表面に黒七味をパパッと振りかけた瞬間だった。
立ち昇る湯気に乗って、山椒の鮮烈な清涼感と、深く焙煎された胡麻や唐辛子の香ばしさが、爆発的に鼻腔を突き抜けた。
ただの豚肉の脂の匂いが、黒七味という魔法を振りかけられた瞬間に、上品な料亭の椀物のような品格へと昇華される。スパイスの複雑で奥深い香りが、食欲を強烈に刺激した。
ダイニングテーブルに運び、手を合わせてから、高木は蕎麦をつけ汁にくぐらせて勢いよく啜った。
冷たく引き締まった蕎麦の喉越しに、熱い豚の脂とネギの甘み、そして黒七味のピリッとした痺れと辛味が複雑に絡み合う。山椒の香りが鼻に抜け、一口食べるごとに箸の動きが加速していく。
足元では、マンチカンの子猫のベルが「ミャァ」と短く鳴き、高木の足首にスリスリと頭を擦り付けている。
「君のご飯はもう終わっただろう」
高木は苦笑しながら、ベルの柔らかな背中を空いた手でそっと撫でた。
ベルは不満そうに「にゃーん」と声を高くしたが、高木が構ってくれないと分かると、諦めたように高木のスリッパの上に顎を乗せて丸くなった。
高木は残りの蕎麦を平らげ、熱いつけ汁を白濁したとろみのある蕎麦湯で割ってゆっくりと飲み干した。黒七味の心地よい余韻と、豚肉のコクが溶け出したスープが、胃の腑からじんわりと体を温めてくれる。
シンクで食器を洗いながら、高木は昨日の午後に窓口へ駆け込んできた留学生の少女の顔を思い浮かべていた。
書類に不備はなかった。税務署と税関のシステムが正常に稼働していれば、彼女の在留資格は守られるはずだ。
★★★★★★★★★★★
翌日の木曜日。午前10時。
新宿区役所1階のダンジョン管理課は、今日も多くの来庁者で賑わっていた。
窓口で魔石の換金業務をこなしていた高木とまひるの耳に、庁舎の入り口付近から聞き覚えのある明るい声が飛び込んできた。
「ケンゾー! マヒル!」
周囲の視線を全く気にすることなく、ブロンドのポニーテールを揺らして駆け寄ってきたのは、クロエ・ウィリアムズだった。
昨日までの青ざめた表情はすっかり消え去り、彼女本来の太陽のような満面の笑みが戻っている。背中にはいつもの大きなリュックを背負い、足取りは羽が生えたように軽い。
「クロエちゃん! 手続き、どうだった?」
まひるが身を乗り出して尋ねると、クロエはカウンターのアクリル板の前に立ち、嬉しそうに両手でVサインを作った。
「Perfect(完璧)だよ! ケンゾーが作ってくれた書類を出したら、税務署の人も税関も、全部スムーズに処理してくれたの! 荷物もちゃんとストップできたし、追徴課税分の納付も私の貯金で済ませてきたよ!」
クロエの言葉に、まひるは肩の力を抜いて深く息を漏らした。
「よかった……! 本当に、一時はどうなることかと思ったけど」
「高い勉強代になったけど、私が無知だったから仕方ないね」
クロエは明るく笑い飛ばしたが、すぐに真剣な眼差しになり、高木を真っ直ぐに見つめた。
彼女は胸元で両手をぎゅっと組み合わせる。
「ケンゾー。日本の役所は、ただルールを押し付けるだけの冷たい場所だと思ってた。でも、あなたは違った。私のために動いてくれて、本当にありがとう」
クロエの丸い瞳が、尊敬と熱烈な好意に潤んでいる。
「あなたは私にとって、間違いなく最高のヒーローだよ!」
感極まったクロエが、アクリル板の隙間から身を乗り出し、高木に向かって両腕を大きく広げて飛びつこうとした。
しかし。
スッ。
高木は表情一つ変えることなく、そっと半歩後ろへ下がり、深いお辞儀で彼女の熱烈なハグをスマートにかわした。
宙を掻いたクロエの腕がパタパタと空を切り、彼女は目を白黒させる。
「区民の不利益を回避するための、通常の行政手続きを行ったまでです。感謝には及びません」
高木は頭を下げたまま、極めて平坦な声で告げた。
「それと、庁舎内での過剰なスキンシップは地方公務員法における職務専念義務の観点からも推奨されません。お引き取りを」
「うぅ〜、ケンゾーのいけず! でも、そういうクールなところも好き!」
クロエはニコッと笑い、まひるに向かってひらひらと手を振った。
「マヒル、今度の週末は絶対ハラジュク行こうね! 私の奢りでクレープ食べよ!」
「うん、行く行く! 気をつけて帰ってね!」
嵐のように現れて去っていった陽気な留学生の背中を見送りながら、まひるは呆れたように苦笑した。
「主任、ヒーローって……すごい言われようですね。でも、本当に良かったです。あの子が犯罪者にならなくて」
「ええ。彼女は無事、正規の範囲内で冒険者活動を続けられる」
高木はデスクの上のファイルを整え、ふと視線を鋭くした。
「だが、彼女を捨て駒にしようとした連中は、まだ新宿の暗がりに潜んだままだ。このまま引き下がるとは思えない」
高木はキーボードに手を置き、モニターの向こう側に広がる見えないネットワークへと意識を向けた。
★★★★★★★★★★★
その週末の夜。
丸の内の高層ビル群の一角にある、夜景が見渡せるシックなバーラウンジ。
ピアノの生演奏が静かに流れる店内で、高木は運ばれてきたジンリッキーのグラスを傾けていた。今日は仕立ての良いダークネイビーのジャケットに、ノーネクタイという少しだけリラックスした装いだ。
「お待たせ、乾三くん」
夜の街の香りを微かに纏いながら、向かいの席に宮本マリが腰を下ろした。
カシュクールのドレープが美しい漆黒のドレスに、華奢なパールのネックレス。国税の冷徹なトッカンとしての顔を完全に隠し、大人の女性としての艶やかな魅力を存分に放っている。少しだけ落とされた店内の照明が、彼女の白く細い首筋を美しく照らしていた。
「急にこんな素敵なバーに呼び出すなんて。もしかして、本気のデートのお誘い?」
マリが妖艶な笑みを浮かべ、メニューリストを覗き込む。
「そう思ってくれて構わない。君には連日、無理な裏調査ばかり頼んでいるからね。今夜は私の奢りだ」
高木が静かに微笑むと、マリは嬉しそうにシャンパンを注文した。
運ばれてきたシャンパンとジンリッキーのグラスを、微かな音を立てて合わせる。
きめ細かな泡が弾けるのを楽しんでから、マリはグラスの縁を指先でなぞった。
「せっかくのデートに仕事の話を持ち込むのは野暮だけど……聞きたいんでしょ? 例のブローカー組織の口座解析の進捗」
「最高の酒の肴になると思っているよ」
高木の言葉に、マリは呆れたように小さく笑い、声を潜めた。
「クロエちゃんを騙して荷物を送らせようとしていたあのアカウント。そこを起点に、資金の流れを洗ったわ。……結果から言うと、かなり厄介な相手よ」
マリの目が、プロフェッショナルの鋭い光を帯びる。
「単なる個人の密輸犯じゃない。東南アジアの複数の国にペーパーカンパニーを配置して、ダンジョン産の非合法アイテムや免税品を組織的に横流ししている、巨大なシンジケートよ。末端のアカウントは、いつでも切り捨てられるただのトカゲの尻尾に過ぎないわ」
「国籍の偽装や、入国管理の網を抜ける手口にも長けているはずだ。彼らはインバウンドの増加を隠れ蓑にして、合法的な旅行者や留学生の背後に紛れ込んでいる」
高木はジンリッキーの冷たいグラスを見つめた。氷が溶ける微かな音がする。
「ええ。新宿のダンジョン特区を狙って、不法就労者を大量に送り込んでいる形跡もある。関税法違反に、外為法違反、それに不法就労の助長。まともに相手をしたら、国税の権限だけじゃとても追いきれないわ」
「だからこそ、我々が動く意味がある」
高木はグラスを置き、窓の外のビル群を見据えた。
「彼らの資金源となっている国内のアジトと、違法な流通ルートを特定する。行政の網の目を使って彼らの活動拠点を物理的に封鎖し、国税が資金を断つ。そして入国管理局と連携し、不法滞在の事実で彼らをこの国から完全に追放する。……武力を使わずに、彼らの生存基盤そのものを削り取るんだ」
マリは小さく息を吐き、艶やかな唇を吊り上げた。
「相変わらず、容赦のないシナリオを描くわね、乾三くん」
「区民の平穏を脅かす害虫は、法と行政の手続きをもって完全に駆除する。それだけだよ」
高木が静かに言い切ると、マリはシャンパンの残りを飲み干し、「頼もしいパートナーね」と楽しそうに笑った。
グラスの中で弾ける泡の音が、静かなラウンジに溶けていく。二人は言葉を交わすことなく、次なる一手に向けた静かな決意を共有するように、再びグラスを微かな音を立てて合わせた。




