第37話 免税要件の例外規定と修正申告
午後1時10分。
昼休憩を終えた職員たちが慌ただしく行き交う新宿区役所1階のフロアに、高木はクロエを伴って戻ってきた。
「主任! どうだったんですか?」
窓口で待機していたまひるが、高木の姿を見るなり小走りで駆け寄ってくる。クロエの表情が普段の底抜けの明るさを失い、ひどく青ざめているのを見て、まひるもただ事ではないと察したようだ。
「彼女は、外国人ブローカーに名義を悪用されていました」
高木は歩みを止めることなく、自席へと真っ直ぐに向かいながら短く答えた。
「このまま放置すれば、彼女が密輸の実行犯にされてしまいます」
「そんな……!」
まひるが息を呑み、クロエを見た。クロエは不安そうに身を縮こまらせ、パーカーの袖口を強く握りしめている。異国の地で犯罪者として扱われるかもしれないという恐怖が、17歳の少女から一切の余裕を奪っていた。
高木はデスクの椅子に腰を下ろすと、即座にパソコンのモニターを立ち上げた。
「安藤さん。国税庁の法令検索システムを開き、消費税法第8条の輸出免税等に関する通達と、関税法第111条の罰則規定をピックアップしてプリントアウトしてください。それから、税務署の申告窓口へ提出する『消費税及び地方消費税の修正申告書』のフォーマットを至急用意して」
「はいっ!」
まひるが自分のデスクに飛び乗り、猛スピードでキーボードを叩き始める。
高木もまた、手元にクロエから預かった免税購入記録のレシートの束を広げ、画面上のシステムと照らし合わせながら、恐るべき速度でタイピングを開始した。
ターン、ターンと、エンターキーを弾く小気味よい音がフロアに響く。
ワイシャツ越しに広い肩甲骨が滑らかに動き、分厚い筋肉がスーツの生地を内側から押し上げている。しかしその指先の動きは、ピアノの鍵盤を叩くかのように繊細かつ精密だった。
高木が構築しているのは、クロエを密輸の「実行犯」から「悪意のない第三者」、あるいは「錯誤による被害者」へと法的に着地させるための論理の盾だ。
免税購入された物品が輸出されず国内で横流しされた場合、名義人である購入者に消費税の納税義務が発生する。これを「業として」行ったと見なされれば、重加算税や無申告加算税といった重いペナルティが課され、最悪の場合は刑事告発に発展する。
「ウィリアムズさん。その『友人』とやり取りをしていたメッセージアプリの履歴を開いて、私に見せてください」
高木が画面から複数の法令の条文を並行して読み込みながら、視線を外さずに指示を出す。
クロエは震える手でスマートフォンを操作し、高木に差し出した。高木はその画面を一瞥し、素早くスクリーンショットを保存して区役所のプリンターへとデータを飛ばした。
「……買い物の指示と、わずかな謝礼についての言及がありますね。これで十分です」
高木はプリントアウトされたメッセージの履歴を、作成中の修正申告書の添付書類としてホチキスで留めた。
「彼女が自発的に事業として行ったのではなく、ブローカーの欺罔行為によって名義を冒用された事実を、この通信記録で客観的に証明します。その上で、税務署の調査が入る前に、自発的に『錯誤による無申告』として修正申告を行う」
高木は迷いなくボールペンを走らせ、書類の空欄を次々と埋めていく。
「本来納めるべき消費税分の納付は避けられませんが、意図的な所得隠しや密輸の意図がなかったことを先手を打って国税に証明できれば、在留資格の取り消しという最悪の事態は確実に回避できます」
その流れるような実務処理と、淀みのない完璧な手続きの構築。
隣で見ていたクロエの丸い瞳が、驚きと感嘆で見開かれた。オーストラリアから来た彼女にとって、日本の役所の人間といえば、ハンコと書類の不備を指摘するだけの機械的な存在だと思っていた。
しかし、目の前の大柄な男は違う。自分のために、複雑怪奇な日本の法律の海から正確な条文を釣り上げ、それを組み合わせて強固な鎧を作り上げてくれている。
「Kenzo……」
クロエは思わず、小さな声でこぼした。
「日本の役所って、もっと冷たくて怖い場所だと思ってた。こんなに親身になって助けてくれるなんて……」
高木はタイピングの手を止めることなく、極めて平坦な声で返した。
「私はただの地方公務員です。区民が不当な不利益を被らないよう、適切な行政手続きを案内しているに過ぎません」
やがてプリンターから最後の一枚が吐き出され、高木は分厚い修正申告書の束を綺麗に整えて、クロエの前に差し出した。
「ここに署名を。これを直ちに新宿税務署の窓口へ提出し、同時に東京税関へも上申書を電子送信します。これで、あなたの身の安全は法的に担保されました」
クロエは書類を受け取ると、安堵で肩の力を抜き、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
「Thank you……本当に、ありがとう、Kenzo……!」
彼女は泣き顔のまま両手を伸ばし、高木の分厚い右手をぎゅっと固く握りしめた。
しかし高木は、その手を握り返すことはせず、スッと静かに自分の手を引き抜いた。
「感謝には及びません。……それよりも、すぐに税務署へ向かいましょう。受付時間が終わる前に」
「Oops、やっぱりお堅いね……! でも、最高に頼もしいよ!」
クロエは涙を拭い、高木に満面の笑みを向けた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜、午後7時30分。
新宿の喧騒から少し離れた、神楽坂の石畳の路地裏。
看板の出ていない、知る人ぞ知る落ち着いた雰囲気のおでん屋のカウンターの端で、高木はすでに冷えた純米吟醸酒の入ったグラスを傾けていた。
そこへ、ふわりと上品な香水の匂いが近づいてくる。
「もう一杯目いっちゃってるの? 抜け駆けはずるいわよ」
隣の空き席にスッと腰を下ろしたのは、宮本マリだ。仕事終わりの隙のないパンツスーツ姿から一転し、今夜の彼女はドレープの効いたシルクのブラウスに、深いスリットの入ったタイトスカートという装いだった。薄暗い店内の照明が、彼女の艶やかな横顔を美しく照らし出している。
高木はグラスを置き、「待ちきれなくてね。君も飲むだろう?」と店主にマリの分のグラスを頼んだ。
カウンターの目の前には、美しく磨き上げられた真鍮の四角い鍋がはめ込まれており、澄んだ黄金色の出汁が静かに湯気を立てている。昆布と鰹節、それにほんの少しの鶏ガラを加えた上品な京風の出汁の香りが、食欲を優しく刺激した。
店主によってマリの前にグラスが置かれ、並々と日本酒が注がれる。
「お疲れ様」
無言で杯を掲げ合い、二人のグラスがごく軽く触れ合う。
キリッと冷えた日本酒を一口含むと、米のふくよかな旨味とフルーティーな香りが広がり、一日の疲労が静かに解きほぐされていくのを感じた。
「例の留学生の修正申告書。今日の午後、うちの窓口に提出されたわよ」
マリが、お通しの小松菜のおひたしを箸でつまみながら切り出した。
「ええ。受理されましたか」
「形式も添付の事実証明も完璧だったもの。うちの担当官も、追徴課税の処理だけで済ませてたわ。……で、本命はあっちに添付されてたレシートの控えの方でしょ?」
高木は店主に大根と牛すじ、そして飛竜頭を注文し、淡々と頷いた。
「彼女に買い物を指示していた『友人』というアカウント。その背後にいるブローカー組織についてです」
目の前に、熱々の出汁が張られた深めの小鉢が置かれる。
大根は丁寧に面取りされ、隠し包丁が入れられているため、芯の奥まで琥珀色の出汁が完璧に染み込んでいる。箸を入れると抵抗なくスッと切れ、口に運ぶと、熱い出汁の旨味と大根本来の甘みがじゅわっと溢れ出した。冷えた日本酒との相性は抜群だ。
高木は牛すじにほんの少し和芥子をつけ、口に運んだ。トロトロになるまで煮込まれた牛すじの濃厚な脂の甘みを、芥子のツンとした辛味がシャープに切り裂いていく。
マリは自身の小鉢の飛竜頭を上品に割りながら言った。
「うちのネットワークで調べたんだけど、同様の手口で留学生や旅行者の名義を悪用した免税品の不正転売が、かなり組織的な規模で行われている形跡があるわ。彼女がやり取りしていたアカウントの通信履歴から、相手のダミー口座の1つがすでに割れたの」
マリの瞳の奥に、脱税者を逃さない狩人の鋭い光が宿る。
「現在、その口座を起点に資金の流れを逆探知しているところよ。アジトと主犯格を特定して、一網打尽にしてやるわ」
「相手が外国籍のブローカー組織となると、我々地方自治体の権限や国税の調査だけでは、最終的に国外へ逃げられるリスクがあります」
高木は空になったグラスを静かにカウンターに置き、マリを見た。
「確実を期すなら、出入国在留管理局や、警察の組織犯罪対策部との連携が必要になるでしょう」
「外堀を完全に埋めてから、一気に叩く。いつものあなたのやり方ね」
マリが妖艶な笑みを深め、高木に視線を絡ませる。
高木はそれには答えず、追加で頼んだ日本酒の徳利を手に取り、マリの空いたグラスへ静かに透明な液体を注いだ。




