第39話 不法就労助長罪と沈黙の制圧
木曜日の朝。
高木の1LDKのマンションのリビングは、淡い朝日に包まれていた。キッチンで手動のコーヒーミルを回すカリカリという音が静かに響き、ドリップポットから細く注がれた湯が、深煎りの豆をゆっくりと膨らませていく。香ばしい匂いが部屋を満たす中、高木は淹れたてのコーヒーが注がれたマグカップを片手に、部屋の隅に置かれた真新しい3段ケージの前にしゃがみ込んでいた。
ケージの中には、数日前に新しく迎え入れたばかりの子猫がいる。
ブリティッシュショートヘアのオスで、名前は『アッシュ』。その名の通り、美しいブルーグレイの被毛を持ち、まだ生後3ヶ月の小さな体はビロードのように滑らかだ。丸い琥珀色の瞳はどこか困ったような、あるいは思慮深いような独特の表情を作っている。まだ新しい環境に完全に慣れてはいないのか、ケージの隅で小さく香箱座りをして、じっと周囲の様子を窺っていた。
「おはよう、アッシュ」
高木が低く穏やかな声で呼びかけると、アッシュは「にゃぅ」と小さく掠れた声で応え、申し訳程度に尻尾の先をパタパタと動かした。
そこへ、フローリングをタタタッと小さな足音を立ててやってきた影があった。先住猫であるマンチカンのベルだ。
ベルはアッシュのケージの前にちょこんと座ると、不思議そうに首を傾げた。自分より少しだけ小さな、灰色の見慣れない毛玉。興味津々なベルは、ケージの格子の隙間から右の前脚を精一杯伸ばし、チョイチョイと空を掻いた。
アッシュはその動きにビクッと肩を揺らしたが、逃げようとはしなかった。
ベルが「にゃんっ」と明るい声で鳴き、今度は格子の隙間に自分のピンク色の鼻先をグイッと押し込む。アッシュも恐る恐る立ち上がり、へっぴり腰のまま近づいていくと、格子の隙間越しに2匹の鼻先がピタリと触れ合った。
互いの匂いをクンクンと嗅ぎ合い、確認するような数秒間の静寂。
やがて、ベルが満足そうに喉をゴロゴロと鳴らし始めると、アッシュも警戒を解いたように目を細め、ケージの格子に頭をスリスリと擦り付けた。
「……仲良くやれそうだな」
高木はコーヒーを一口飲み、小さく息を吐いて目元を和ませた。
しかし、その穏やかな視線の奥では、前日から続く重苦しい案件についての思考が、静かに、そして冷徹に回り続けていた。
★★★★★★★★★★★
午前10時。新宿区役所、ダンジョン管理課のフロア。
週も半ばを過ぎた窓口には、魔石の換金や各種申請の手続きに訪れる冒険者たちが列を作っていた。安藤まひるは3番窓口に入り、手際よく市民の対応に追われている。
一方、パーテーションで区切られたバックヤードで、高木は自席のモニターを3画面すべて稼働させ、凄まじい速度でデータの照合を行っていた。
「主任、お疲れ様です。先ほど外国人相談窓口から、過去の面談記録を取り寄せてきました。紙の資料になりますが……」
窓口業務の合間を縫ってバックヤードに戻ってきたまひるが、ドサリと分厚いファイルの束を高木のデスクに置いた。
「ありがとう。助かるよ」
高木はバインダーを受け取り、相談内容が記載されたテキストに素早く目を通していく。
『時給の良い通訳のアルバイトだと紹介されたが、実際はダンジョン内で重い魔石を運ぶ仕事ばかりさせられている』
『就労ビザの更新手続きを代行すると言われ、会社にパスポートを預けたまま返してもらえない。辞めたいと言ったら強制送還させると脅された』
『よくわからない書類にサインをさせられ、大量の化粧品や時計を買わされた。商品はすべて会社の人間に回収された』
辿々しい日本語で書き残されたSOSの数々。
日本の法律や複雑な制度に不慣れな留学生や技能実習生を甘い言葉で騙し、違法な魔石の運び屋や、免税品の不正転売の実行犯として使い捨てる。言語の壁と、在留資格を失う恐怖によって声を上げられない若者たちを、奴隷のように搾取する手口がそこには克明に記されていた。
高木は眉間を微かにひそめ、書類の端を握る手に僅かに力を込めた。彼らは皆、正規の手続きを踏んで来日し、区内で生活を営む立派な新宿区民だ。彼らの無知と立場につけ込み、犯罪の片棒を担がせた上で使い捨てるような真似は、行政を預かる窓口担当として到底見過ごせるものではない。
高木は視線をモニターに戻し、税務署の宮本マリから共有された暗号化データを開く。
そこには、末端のブローカーたちの口座から吸い上げられた資金が、複数のダミー口座を経由して集約されていく不自然な資金流入のフロー図が描かれていた。
高木はキーボードを叩き、相談窓口の記録に共通して登場する『斡旋業者』の名前と、マリが調べ上げた最終的な資金の集約先をクロスチェックする。
数秒の処理の後、モニター上で2つのデータが1つの法人名にピタリと重なった。
『株式会社グローバル・エッジ』
高木は受話器を取り上げ、外線を発信した。
数回のコールの後、マリの張りのある声が耳に届く。
『もしもし』
「高木だ。口座の集約先、グローバル・エッジで間違いないか」
『ええ。ダミーの会社をいくつも経由しているけれど、終着点はそこよ。そっちの裏付けはどう?』
「区の外国人相談窓口の記録と一致した。パスポートの取り上げや、資格外活動の強要が常態化している」
『そう。関税法違反と脱税で、口座凍結の準備は整っているわ。警察への情報提供のタイミングはどうする?』
「私から直接、彼らに行政指導のための事実確認を行う。口座の凍結はその直後にお願いしたい」
『……わかったわ。気をつけてね』
短い確認だけで通話を切ると、高木はデスクの引き出しから区役所の職員証を取り出して首にかけた。公的な身分を証明するそのカードの重みを確認するように、一度だけ指で触れる。
「安藤さん。窓口の対応を頼む。グローバル・エッジという法人に、事実確認に行ってくる」
「えっ、あ、はい。お気をつけて!」
背後からのまひるの声を背に、高木はジャケットを羽織り、バックヤードを後にした。
★★★★★★★★★★★
大久保駅からほど近い、人通りの多い通りから一本外れた路地裏。
スパイスの匂いや、様々な言語の看板が入り乱れる大久保の通りは、昼間でも独特の熱気を孕んでいる。高木はその喧騒を抜け、目的の住所にある古い雑居ビルを見上げた。壁に落書きが残る薄暗い階段を上がり、4階へ向かう。
薄汚れ、まともな社名看板すら出ていない鉄扉の前に、高木は立っていた。
ノックを数回したが、返事はない。高木は躊躇うことなくドアノブを回し、中へと足を踏み入れた。
オフィスの中は、淀んだタバコの煙と、安い芳香剤の匂いが混ざり合っていた。
事務机がいくつか並んでいるが、パソコンや書類はほとんどなく、壁には古いカレンダーが貼られているだけで、まともに業務が行われている気配はない。奥のレザーソファには、高価なスーツを着崩した恰幅の良い男がふんぞり返り、周囲には柄の悪いシャツやジャージ姿の若い男たちが数人、スマートフォンやタブレットをいじりながらたむろしていた。
ドアが開く乾いた音に、室内の視線が一斉に高木へと向けられる。
男たちの手が止まり、室内の会話が途切れた。
「あ? なんだおっさん。誰の許可得て入ってきてんだ」
柄シャツを着た若い男が立ち上がり、足音を荒らげて近づいてくる。
高木は瞬き1つせず、男たちを静かに見据えたまま、内ポケットから名刺入れを取り出した。
「新宿区役所、ダンジョン管理課の高木と申します。株式会社グローバル・エッジの代表者の方はいらっしゃいますか」
「区役所ォ?」
奥のソファに座っていた男が、鼻で笑った。
「役所がうちに何の用だ。アポなしでズカズカ入ってきていい場所じゃねえぞ」
「御社の事業実態について、区民からの通報に基づき、いくつかお伺いしたいことがありまして」
高木は手にしたバインダーを開き、淡々とした声で告げた。
「過去半年間、御社が就労支援を行った留学生や技能実習生のうち、少なくとも40名以上が、資格外活動の上限時間を大幅に超えてダンジョン内での魔石運搬に従事させられています。さらに、彼らの名義で不自然な額の免税品が購入され、海外へ転売された形跡があります」
室内が、シンと静まり返った。
ソファの男は煙草を灰皿に押し付け、不機嫌そうに目を細める。
「知らねえな。あいつらが小遣い欲しさに勝手にやったことだろ。うちは仕事を紹介しただけだ」
「新宿区の外国人相談窓口には、御社にパスポートを取り上げられ、返却を拒まれているという相談が多数寄せられています」
「……」
「入管法第19条の2。外国人の雇用主等による旅券等の保管の制限。これに抵触するだけでなく、あなたがたが行っているのは明確な『不法就労助長罪』です」
「てめぇ……いい加減にしろよ!」
柄シャツの男が怒鳴り声を上げ、高木の胸倉を掴もうと乱暴に手を伸ばした。
高木はその手を避けることすらしなかった。
ただ、伸びてきた男の手首を自らの分厚い右手でガッチリと掴んだ。
「痛ッ……!」
男が顔を歪め、振りほどこうと暴れるが、高木の手は万力のようにピクリとも動かない。鍛え上げられた巨大な腕力が、男の骨を軋ませる。
周囲の男たちが一斉に立ち上がり、一触即発の空気が充満した。
しかし、高木は声のトーンを一切変えることなく、冷徹に宣告を続けた。
「出入国管理及び難民認定法第73条の2。事業活動に関し、外国人に不法就労活動をさせる行為。3年以下の懲役、もしくは300万円以下の罰金、またはその両方」
「離せ、このゴリラ……!」
「これだけ組織的かつ悪質な関与が認められれば、法人代表だけでなく、現場の構成員も同罪に問われます。知らなかった、では済まされません。さらに、関税法違反および脱税の共犯として、重加算税と刑事告発を免れることはできません」
高木の重く、感情の乗らない声が、狭いオフィスに響き渡る。
ソファの男が、忌々しげに立ち上がった。
「御託を並べてんじゃねえぞ。役所の窓口の分際で、警察の真似事か? 証拠なんかどこにも……」
「証拠なら、すでに国税局がすべて押さえています」
高木は柄シャツの男の手首をパッと離し、静かに告げた。
「御社のダミー口座は、たった今、すべて凍結されました」




