第34話 未知の寄生虫と感染症法
深夜の新宿区保健所、ダンジョン衛生管理室。
無機質なLED照明がステンレスの機材を冷たく照らす中、工藤ゆき子は電子顕微鏡の接眼レンズからゆっくりと目を離し、静かに息をついた。
白衣の袖を軽くまくり上げ、傍らのモニターに映し出された分析データを無言で見つめる。
昨日、歌舞伎町の裏手にある会員制レストラン『エピキュリアン』の厨房や保冷車から押収された、大量の違法魔物肉。急性胃腸炎を引き起こしたバクテリアの特定自体は、搬入された昨晩のうちに終わっていた。しかし、肉の深部の細胞組織を溶解し、念のためにさらなる精密な成分分析にかけた結果、当初の想定を大きく覆す物質が浮かび上がったのだ。
ゆき子はキーボードを操作し、電子顕微鏡で捉えた画像をさらに一段階拡大する。
モニターの全面に映し出されたのは、バクテリアの群れの中に隠れるようにして偏在している、球状の微小なカプセルだった。幾重にも重なる強固な外殻に覆われたそれは、単なる細胞の異常や死骸ではない。明確な生存本能を持ち、宿主の体内に潜伏しようとする、未知の生物の卵だ。
「……寄生虫の卵」
ゆき子は誰に言うでもなく呟いた。
彼女は再び手袋をはめ、ドラフトチャンバーの中でシャーレの中のサンプルに様々な試薬を滴下し、過酷な環境下での耐性テストを繰り返す。
強力な酸性溶液に浸しても、バーナーの火を使って100度以上の熱湯で15分間連続加熱しても、卵の強固な外殻は全く損傷を受けなかった。さらに、動物の神経細胞の培養液にその卵を接触させると、外殻を破って孵化した微小な幼虫が即座に神経線維に食い込み、細胞のネットワークを物理的に破壊しながら異常な速度で増殖していく様子が確認できた。
ゆき子は手袋を外し、医療廃棄物の容器へ滑り込ませた。
壁掛け時計の針は午前6時を回っていた。彼女は白衣のポケットからスマートフォンを取り出し、迷うことなく発信ボタンを押した。
★★★★★★★★★★★
午前8時。
新宿区役所の上層階にある災害対策会議室に、張り詰めた空気が充満していた。
緊急招集されたのは、保健所の幹部、区の危機管理担当、そしてダンジョン管理課の高木だ。
プロジェクターの巨大なスクリーンには、ゆき子が徹夜でまとめた寄生虫の生態データと、人体の中枢神経系への危険性を示すシミュレーション結果が映し出されている。
保健所長が顔面を蒼白にして、ズボンのポケットから取り出したハンカチで何度も額を拭う。
「感染源である店舗で食事をした客が、すでに数十人規模で区内の複数の病院に運び込まれています。もしこれが、人から人へ感染するものだったら……」
「現在のところ、飛沫や接触によるヒト・ヒト感染の所見は確認されていません。該当の魔物肉を通じた経口感染のみです」
ゆき子が落ち着いた声で補足する。
高木は手元に用意した分厚いファイルを開き、出席者たちを見渡した。
「感染経路が限定されているのであれば、やるべきことは明確です。対象者を迅速に特定し、隔離と検査を行うこと」
高木は『感染症法』の条文が記載されたページに視線を落とし、極めて事務的なトーンで告げた。
「本件について、『感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律』に基づく『新感染症』の適用要件を満たすものとして対処します。直ちに区長決裁を取り付け、区内の1級警戒態勢を敷いてください」
「し、しかし高木主任。新感染症の認定には、国や都の厚生労働部門との調整が……」
危機管理担当の職員が難色を示す。
「調整を待っている時間はありません」
高木は書類のページを繰り、淡々と続けた。
「同法第16条に基づき、感染が疑われる『エピキュリアン』の来店客リストを警察の協力のもと即座に押収し、保健所長名で健康診断の勧告を行います。応じない場合は、第17条による健康診断の措置命令へ移行します」
「施設の消毒はどうしますか。営業停止にはなっていますが、厨房や冷蔵庫の汚染がどの程度か……」
「第27条および第29条を適用し、店舗の全域および従業員の自宅に対し、保健所主導で徹底的な消毒および汚染物件の廃棄を命じます。実作業は区の委託業者を回します。費用は全額、運営法人に請求します」
会議室の空気が引き締まった。
「安藤さん」
壁際で控えていたまひるに高木が声をかける。
「来店客リストの照合と、指定医療機関への連絡窓口の立ち上げを急いでくれるかな。ダンジョン管理課の全職員を動員して構わないよ」
「はい、すぐにかかります!」
まひるが勢いよく頷き、会議室を飛び出していく。高木は再び資料に視線を戻した。
★★★★★★★★★★★
数日後。
迅速な初動対応と徹底した隔離検査により、違法魔物肉による寄生虫感染は『エピキュリアン』の来店客とその家族のみに封じ込められ、区内への二次感染の拡大は未然に防がれた。未承認薬の投与も初期段階で行われたことが功を奏し、重篤な神経障害に至った患者は出ていない。
区内を覆っていた緊張状態が一段落した、金曜日の夜。
高木は新宿の喧騒から少し離れた、荒木町の一角にある小さな寿司店のカウンターに座っていた。
石畳の路地裏にひっそりと暖簾を掲げるその店は、余計なBGMはなく、職人の包丁がまな板を叩く微かな音と、客たちの静かな話し声だけが響いている。白木のカウンターは手入れが行き届いており、清浄な空気が漂っていた。
高木の隣には、私服姿の工藤ゆき子が座っていた。
糊の効いた白衣ではなく、柔らかな質感のネイビーのシルクブラウスに身を包んでいる。黒髪のボブヘアは丁寧に整えられていた。
「お疲れ様です、工藤先生」
高木が冷酒の注がれた江戸切子のお猪口を軽く持ち上げると、ゆき子も自身の杯を手に取った。
「高木さんも。迅速な法的手続きのおかげで、被害を最小限に抑えることができました。乾杯」
二人の杯が触れ合い、微かな高い音が鳴る。
口当たりの良い純米大吟醸の香りが鼻腔を抜け、高木は静かに息をついた。
付け台の上に、職人の手によって丁寧に握られた1貫が置かれた。
真鯛の昆布締めだ。
高木は箸を使わず、指先でそっとつまんで口に運んだ。
数日間寝かされて余分な水分が抜け、ねっとりとした食感に変わった白身。そこに昆布の奥深い旨味が凝縮されており、人肌の温度に保たれた赤酢のシャリが、魚の甘みを見事に引き立てている。
ゆき子も同じように真鯛を口にし、目を細めた。
「……素晴らしい技術ですね。素材の状態を完璧に見極めて、一番美味しい瞬間を引き出しています」
「ええ。長年の経験と観察の賜物でしょう。食材の性質を理解し、それに合わせた最適な手順を踏む。行政の仕事もこうありたいものです」
高木が淡々と返すと、ゆき子は微かに口角を上げた。
続いて出されたのは、細やかな飾り包丁が入れられた小肌だった。
銀色に輝く皮目が美しく、酢と塩の締め具合が絶妙だ。口の中でホロリとほどけるシャリと、小肌の爽やかな酸味が一体となる。
車海老は、客の目の前で殻を剥き、まだほんのりと温かい状態で握られる。エビの力強い甘みとプリプリとした歯ごたえが、杯を進ませた。
「徹夜の分析から、ずっと気の張る作業が続いていましたから。こうして確かな仕事がされた食事を静かにいただける時間は、とても貴重です」
ゆき子はガリを一口つまみ、お猪口を傾けた。
「それにしても、高木さんは本当に動じませんね。未知の寄生虫によるパンデミックのリスクを前にしても、顔色一つ変えずに法律の条文を読み上げていくのですから」
「動揺したところで、事態は解決しません。私にできるのは、用意されたルールを正しい順序で適用し、専門家が動ける環境を整えることだけです」
高木は次に置かれた煮穴子を見つめた。
ふっくらと煮上げられた穴子に、甘辛いツメが塗られ、細かく刻まれた柚子の皮が散らされている。口に入れると、噛む必要がないほど柔らかく溶け、柚子の香りが脂の重さを爽やかに中和していった。
「その『専門家が動ける環境』に、私はとても感謝しています」
ゆき子は穴子を味わった後、静かなトーンで言った。
「明日の午前中、警察署の取調室で『エピキュリアン』のオーナーである西園寺の聴取が行われます。保健所の担当として、私も同席する予定です」
「ええ。私も同行します」
高木はお茶を一口飲み、視線を前へ向けたまま答えた。
「彼には、自身が流通させた違法な肉が、どのような結果をもたらすのかを正確に理解してもらう必要があります」
「客観的なデータと、科学的な事実をもって」
ゆき子が静かな声で応じた。
二人はそれ以上仕事の話を交えることなく、出された玉子焼きを静かに平らげた。
高木は温かいお茶の入った湯呑みを付け台の上に置き、明日行われる取調室での対峙へと静かに意識を向けた。




