第32話 狩人の調達と隠れ家レストラン
新宿区役所ダンジョン管理課のバックヤード。
天井の蛍光灯が冷たい光を落とす中、高木は3台のモニターを駆使し、静かにデータの海に潜っていた。
画面の一つには、ギルドから共有された冒険者たちの『魔石換金記録』。もう一つの画面には、新宿区保健所が管理する『飲食店の営業許可・衛生検査データベース』が表示されている。
高木は、特定の私設業者への魔石の持ち込み履歴と、区内の飲食店の仕入れ額および提供価格のデータをクロスチェックし、不自然な歪みを抽出していた。
キーボードを叩く乾いた音が、静かなバックヤードに規則的に響く。モニターの青白い光が、高木の真剣な横顔を照らしていた。無数の文字列と数字の羅列が滝のように流れ、条件に合致しないデータが次々と弾かれていく。魔法の痕跡などなくとも、社会のシステムを利用している以上、必ずどこかに数字の矛盾が生じる。
高木の指先は迷いなくキーを弾き、数万件に及ぶデータのノイズを切り捨てていく。
データの照合が進むにつれ、やがてモニターの画面に数件のリストが残った。
高木はさらに店舗の立地と顧客層のデータをフィルタリングし、1つの店舗名をハイライトした。
「……ここだな」
自動ドアが重々しい音を立てて開き、大きなクーラーボックスを台車に載せたまひるがバックヤードに入ってきた。キャスターが床を転がる鈍い音が、静かな室内に響く。彼女の防刃ジャケットの肩口には、わずかに乾いた土と、ダンジョン特有の硝煙に似た匂いが染み付いていた。
「主任、指定された第4階層のキメラ、狩ってきましたよ」
まひるは額の汗を手の甲で拭い、ずっしりと重いクーラーボックスの蓋を軽く叩いた。
「毒袋を傷つけないように関節の隙間を狙って一撃で仕留めて、血抜きも完璧にしてあります。わざわざ氷魔法の魔石まで使って、キンキンに冷やして持ってきましたからね。途中で他の冒険者に変な目で見られちゃいましたよ」
「ありがとう、安藤さん。非常に助かったよ」
高木は椅子から立ち上がり、台車のハンドルを握った。クーラーボックスの隙間からは、白い冷気が薄っすらと漏れ出している。
「Cランク指定の魔物を『ちょっと狩ってきて』って頼むの、うちの課くらいですよ。……で、これをどこへ持っていくんですか?」
「保健所だ」
区役所の上層階にある、ダンジョン衛生管理室。
二重構造になった分厚い防音扉を開けると、消毒液の強烈なアルコール臭と、微かな獣の血の匂いが鼻を突いた。部屋の中央に鎮座するステンレス製の解剖台の上で、工藤ゆき子が手際よくクーラーボックスのフタを開けた。
真っ白な白衣を纏った彼女の目は、中に入っている巨大なキメラの肉塊を見るなり、好奇心と探求心で爛々と輝いた。
「素晴らしいです、安藤さん。細胞の劣化が全く見られません」
ゆき子はピンセットで肉の断面をつまみ上げ、感嘆の声を漏らす。彼女の指先は迷いなく肉の繊維を押し広げ、対象の状態を正確に見極めていく。
「筋肉の繊維も生きていますし、血液の凝固も最小限に抑えられています。ここまで完璧な状態の比較サンプルがあれば、毒素の特定と中和剤の生成はすぐに終わります。あなたは本当に、優秀な狩人ですね」
「そ、そりゃどうも……。あの、私、もう戻ってもいいですか。生肉の匂い、ちょっとキツくて」
解剖台の上に無造作に広げられていく肉塊と、ゆき子の異様なまでの熱量に、まひるは引きつった顔で後ずさりし、逃げるように解剖室を出ていった。
ゆき子は手袋をはめ直し、手元のシャーレに肉片を移しながら高木を見た。
「それで、流通ルートの方は特定できましたか」
高木は持参したタブレットの画面を操作し、ゆき子に提示した。
「ええ。データの照合から、1件の不審な店舗が浮かび上がりました。歌舞伎町の裏通りにある会員制レストラン『エピキュリアン』」
「エピキュリアン……」
ゆき子はメスを置き、少しだけ首をかしげた。
「聞いたことがあります。政財界の有力者もお忍びで通うという、完全紹介制の高級店ですね」
「ええ。表向きは最高級の輸入肉のみを扱っていることになっていますが、正規の仕入れルートの記録と提供価格に大きな乖離があります。違法魔物肉を提供している隠れ家の可能性が高い」
高木はタブレットの画面を消し、ジャケットのポケットにしまった。
「今から、直接確認に行きます」
「私も同行します。保健所の立入検査権限が必要ですものね」
ゆき子は白衣のポケットに検査用のサンプリングキットを滑り込ませ、高木の後に続いた。
★★★★★★★★★★★
午後3時。
歌舞伎町の喧騒から大きく外れた、人通りの少ない裏路地。周囲の雑居ビルとは明らかに異質な、無機質なコンクリートの壁がそこにあった。目立つ看板は一切なく、ただ壁の一部に重厚な木製のドアだけがひっそりと嵌め込まれている。知る人ぞ知る、という言葉をそのまま体現したような外観だ。
高木とゆき子がドアの横にある真鍮製のインターホンを押すと、しばらくして、内側からカチャリと重い鍵の開く音がした。
隙間なく仕立ての良いスーツを着た初老の男が、ドアを半分だけ開けて姿を現す。
「いらっしゃいませ。当店は完全紹介制となっておりますが」
男の口調は丁寧で柔らかいが、その目は油断なく高木たちの身なりを足元から頭の先まで値踏みしていた。
「新宿区保健所です」
ゆき子が白衣の胸元から身分証を取り出し、男の目の前に提示する。
「食品衛生法第28条に基づく立入検査に参りました。厨房と冷蔵設備を確認させてください」
オーナーの男の顔の筋肉が、わずかにこわばった。視線が一瞬だけ背後の厨房の方角へと泳ぐ。しかし、すぐに営業用の愛想の良い笑みを張り付けた。
「これはご苦労様です。ですが、当店からは食中毒を出したという事実は一切ございませんよ。提供しているお肉も、すべてオーストラリアから空輸した最高級品でして。正規の検疫証明書も保管しております」
「現在区内で発生している食中毒と関連がないか、念のための確認です。ご協力を」
ゆき子が一歩踏み込もうとするが、オーナーはドアの枠に手をかけ、物理的に道を塞いだ。
「困りますね。現在、店内では都議会議員の先生方が会食中でして。根拠のない疑いで厨房に入られ、場を荒らされるのは信用問題に関わります。……令状はお持ちですか?」
「保健所の任意の立入である以上、正当な理由なく拒むことはできません」
高木が低く落ち着いた声で指摘する。
「拒んではおりません。ただ、今日はタイミングが悪いと申し上げているのです。後日、顧問弁護士を通じて日程を調整させていただきますよ。それまでは、お引き取りを」
オーナーはそう言い残し、バタンとドアを閉めて鍵をかけた。
これ以上無理に押し入れば、建造物侵入や職権乱用を問われ、逆に相手の弁護士から揚げ足を取られることになる。相手は有力者とのコネクションを盾にして、時間を稼ぐつもりだ。
「高木さん。あの様子では、間違いなく厨房に違法魔物肉を隠しています。後日では、すべて処分されてしまいます」
ゆき子が不満げにドアを睨みつける。
「ええ。任意の立入権限だけでは、あの扉は開けられない。行政手続上、強制的に踏み込むにはより強い裏付けが必要です」
高木はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
「……相手を焦らせて、ボロを出させましょう」
★★★★★★★★★★★
夜8時。
新宿の喧騒をはるか下方に一望できる、高層ビルの最上階に位置するフレンチレストラン。
薄暗い間接照明が各テーブルを照らし、ピアノの生演奏が静かに流れている。高木は窓際のテーブル席に座り、運ばれてきたグラスの炭酸水に口をつけ、静かに相手を待っていた。窓ガラスには、新宿の夜を彩る無数のネオンが映り込んでいる。
カツン、とヒールの音が近づいてくる。
向かいの席にやってきたのは、フリーライターの今井素子だ。背中の大きく開いたボルドー色のイブニングドレスを着こなす彼女の姿は、店内の誰の目をも惹きつけるほどに洗練されていた。ドレスの裾を優雅に翻し、彼女はウェイターが引いた椅子に滑り込むように腰を下ろす。
「驚いたわ」
素子は赤い唇をわずかに吊り上げ、着席するなり言った。
「区役所の堅物主任から、こんなディナーに誘われるなんて」
「私から誘ったわけじゃありません。あなたが『特ダネの相談があるなら、それなりの店を用意しなさい』とメッセージを送ってきたんでしょう」
高木はメニュー表を開きながら、淡々と返した。
「ふふっ。相変わらず可愛げがないわね」
素子は運ばれてきたシャンパンを一口飲み、少しだけ身を乗り出した。
「で? わざわざ私を呼び出してまで、何をさせたいの?」
「歌舞伎町の裏路地にある『エピキュリアン』という会員制レストラン。そこで違法な魔物肉が提供されている疑いがあります」
高木はメニューを見つめたまま、声を落として続けた。
「現在発生している集団食中毒の感染源である可能性が極めて高い。しかし、店側は顧問弁護士と有力者の存在を盾にして立入検査を拒否しています」
「なるほど。私のチャンネルで火をつけて、あいつらを燻り出せってことね」
素子はグラスを置き、高木の目を見た。
「店名を出さずとも、会員制の常連客なら察しがつく。あなたの情報拡散能力を見込んでの相談です」
高木が視線を上げると、素子は楽しそうに目を細めていた。
「役人のくせに、容赦のない盤面を描くわね。いいわ、乗ってあげる。権力者の隠れ家が燃えるのは、最高の見世物だからね」
ウェイターが近づき、二人の前にアミューズを静かに置いた。
小さなシュー生地の中にチーズを練り込んだグジェールだ。高木はそれを一つ手に取り、口に運ぶ。チーズの芳醇な香りと塩気が、炭酸水で潤した口の中を心地よく刺激する。
「その代わり、ガサ入れの瞬間は私に独占取材させてよね。約束よ」
「現場の安全が確保できれば、検討します」
続いて運ばれてきたのは、魚介と野菜が層になったテリーヌだった。色彩豊かな断面が、白い皿の上で美しく映えている。添えられた色鮮やかなソースが、皿全体を一つの絵画のように仕上げていた。
高木はナイフとフォークを手に取り、前菜を切り分けた。
「まずは食事にしましょう。冷めてしまいますから」
「本当にマイペースね。まあ、そこがあなたの面白いところだけど」
素子もフォークを取り、テリーヌを口に運んだ。
二人の間には、大人のビジネスパートナーとしての静かな緊張感と、確かな信頼が存在していた。
メインディッシュとして提供されたのは、鴨肉のローストだった。絶妙な火入れによってほんのりとピンク色を残した鴨肉に、甘酸っぱいベリーのソースが添えられている。付け合わせのロースト野菜からは、芳ばしい香りが漂っていた。高木はナイフを入れ、鴨肉特有の野性味のある旨味と、ソースの酸味が織りなす深い味わいを堪能した。
素子は鴨肉を味わいながら、シャンパンのお代わりを注文し、妖艶な笑みを浮かべた。
「明日の朝、楽しみにしてて。私の動画で、あいつらの化けの皮を完全に剥がしてあげるから」
高木は炭酸水のグラスを静かにテーブルに置いた。




