第31話 マッドサイエンティストと違法魔物肉
赤坂の焼鳥屋での会食から一夜明けた、火曜日の夜。
高木は自室のキッチンに立ち、持ち帰ってきた紙箱の蓋を開けた。中には、昨夜の大将が「明日のおかずにでもしな」と持たせてくれた、串から外された焼き鳥がたっぷりと詰まっている。
冷蔵庫から取り出した冷たい焼き鳥を皿に移し、軽く酒を振ってから、魚焼きグリルに並べる。炭火の香ばしさを損なわないよう、ごく弱火でじんわりと熱を通していく。
肉から落ちた脂がパチリと爆ぜ、タレの焦げる甘辛い匂いが換気扇へと吸い込まれていく間に、高木は手早く副菜の準備に取り掛かった。
週末に作り置きしておいた、かぼちゃの含め煮を小鉢によそう。出汁と薄口醤油でじっくりと煮含められたかぼちゃは、一晩冷やされたことで芯まで味が染み込んでおり、温め直さずとも十分に美味い。
続いて、フライパンを火にかけ、細切りにした厚切りのベーコンをじっくりと炒める。脂が十分に溶け出したところで、乱切りにした茄子、へたを取ったししとう、そして半分にカットしたマッシュルームを一気に投入した。
ベーコンの旨味を吸った茄子がしんなりとしたタイミングで、ナンプラーを回し入れ、少量のチリパウダーを振りかける。エスニック特有の香りが立ち昇り、あっという間に食欲をそそる炒め物が完成した。
マグカップにフリーズドライの野菜スープのブロックを入れ、熱湯を注ぐ。小皿に黄色い沢庵を数枚添え、炊きたての白飯を茶碗に盛る。
高木は無地のランチョンマットの上にすべての食器を配置し、軽く息を吐いて、箸を手に取った。
炭火の香りが復活したネギマを箸でつまみ、白飯と共にかき込む。大将の焼きの技術は1日経っても色褪せず、鶏の脂の甘みとネギの香ばしさが口いっぱいに広がった。
エスニック風の炒め物は、ナンプラーの塩気とチリパウダーのピリッとした刺激が、マッシュルームの歯ごたえと茄子のとろける食感を見事に引き立てている。箸休めにかぼちゃの優しい甘みと沢庵の酸味を挟み、野菜スープで喉を潤す。
足元から「にゃあ」と短い鳴き声がした。
見下ろすと、ベルが後ろ脚で立ち上がり、ダイニングテーブルの縁に短い前脚をかけて、鼻をヒクヒクとさせている。温め直した焼き鳥の濃厚な匂いに釣られたらしい。
「これは君のご飯じゃないよ」
高木が指先で軽くベルの額を押すと、ベルは不満そうにもう一度鳴いたが、すぐに諦めて自分のケージに戻り、専用のキャットフードをカリカリと食べ始めた。
高木は自身の食事のペースを崩すことなく、皿の上の料理を丁寧に胃へと収めていった。
食後。
高木は鉄瓶で湯を沸かし、茶葉から淹れた温かい烏龍茶を湯呑みに注いだ。
一口含むと、半発酵茶特有の華やかな香りとすっきりとした苦味が口内に広がる。
烏龍茶の心地よい渋みを味わいながら、高木は静かに息を吐いた。
★★★★★★★★★★★
翌日の水曜日。午前10時。
新宿区役所1階のダンジョン管理課のフロアには、普段のクレーム対応とは質の異なる、切迫した空気が充満していた。
「はい、ダンジョン管理課です。……ええ、はい。ですから、その件につきましては現在保健所が事実確認を行っておりまして……」
まひるが受話器を握りしめ、困惑した表情で応対している。彼女のデスクの電話を切った途端、隣の若手職員の電話が鳴り響いた。
「主任。また区民からの問い合わせです」
まひるが保留ボタンを押し、高木の方へ身を乗り出した。
「『うちの家族が急に倒れた。ダンジョンから漏れ出した毒ガスか何かのせいじゃないか』って……。今朝からこんな電話ばっかりです。一体何が起きてるんですか?」
高木は手元の行政システムの掲示板から目を離さず、答えた。
「今朝の未明から、区内の複数の救急病院に、激しい腹痛と嘔吐を訴える患者が相次いで運び込まれている。その数、すでに30名以上だ」
「集団食中毒……ですか?」
「症状だけ見ればそうだが、患者たちの行動履歴に共通のイベントや特定の施設の利用記録がない。唯一の共通点は、昨晩『新宿区内の繁華街のどこかで飲食をした』という点だけだ」
高木はマウスを操作し、医療機関からの一次報告書のデータを画面に表示させた。
「さらに厄介なのは、一般的な食中毒菌が検出されていないことと、回復魔法の効きが異常に悪いことだ」
「回復魔法が効かない? ただの食あたりじゃないってことですか」
「原因不明の症状に、ダンジョンという非日常の存在が結びつけば、市民が不安を抱いて当課に問い合わせてくるのも無理はない」
高木は決裁ファイルを閉じ、立ち上がってジャケットを羽織った。
「憶測で回答するわけにはいかない。保健所の専門家に直接確認してくる。安藤さんは引き続き、マニュアルに従って冷静な電話対応を頼むよ」
「はい、わかりました!」
高木は足早にダンジョン管理課のフロアを出て、エレベーターで区役所の上層階へと向かった。
★★★★★★★★★★★
新宿区保健所。
その一番奥に位置する『ダンジョン衛生管理室』の分厚い防音扉の前に、高木は立っていた。
ここは、ダンジョン内で発見された未知の植物やモンスターの死骸など、既存の検疫システムでは対応しきれない特殊な検体を専門に分析・研究するための部署だ。
ノックをして扉を開けると、消毒液の強烈なアルコール臭と、微かな血の匂いが鼻を突いた。
広々とした室内の中央には、ステンレス製の巨大な解剖台が鎮座している。その上には、体長2メートルはあろうかという巨大な猪型モンスターの死体が横たわり、腹部が大きく切り開かれていた。
「ふふふーん、ふふーん♪」
解剖台の前に立つ人物が、上機嫌な鼻歌を漏らしている。
「お疲れ様です、工藤先生」
高木が声をかけると、血まみれのゴム手袋をしたその人物が、ゆっくりと振り返った。
「あら、高木さん。お疲れ様です」
真っ白で糊の効いた白衣を纏っているのは、抜けるように白い肌と、黒髪のボブヘアが特徴的な女性だ。工藤ゆき子。若くして獣医学と感染症研究の博士号を取得し、東京都の健康安全研究センターからこの保健所へと出向してきている特任研究員である。
「今日も素晴らしい検体ですね。この大猪の胃袋の構造、既存の哺乳類とは全く異なる消化酵素を分泌している形跡があります。腸壁の粘膜をもう少し詳しく見たいのですが、いかんせん鮮度が……」
ゆき子は右手に持った電動ノコギリを空回しさせながら、解剖台の上の内臓をじっと観察している。
「解剖の邪魔をして申し訳ありません。至急、確認したいことがありまして」
高木はただの事務的な確認事項として話を切り出した。
「今朝から区内で多発している、原因不明の急性胃腸炎の件です。ダンジョン管理課に、モンスターの毒ではないかという問い合わせが殺到しています。そちらで何か掴んでいますか」
ゆき子は電動ノコギリのスイッチを切り、血まみれの手袋を専用の廃棄ボックスに捨てた。
「ええ。先ほど、指定病院から患者の吐瀉物と血液のサンプルが届きました。すぐに培養と分析にかけましたよ」
ゆき子は手洗い場で念入りに手を洗い、白衣のポケットから新しい手袋を取り出しながら、部屋の隅にある電子顕微鏡のモニターへと歩み寄った。
「結論から申し上げますと、ただの食中毒ではありません」
ゆき子がキーボードを叩くと、モニターに細胞レベルの拡大画像が映し出された。そこには、赤血球に絡みつくような奇妙な形をした微生物が蠢いている。
「患者の検体から、この未知のバクテリアが検出されました。極めて高い耐熱性を持ち、通常の調理程度の加熱では死滅しません。そして、これと同じバクテリアを、私はつい先日、別の検体からも発見しています」
ゆき子は画面を分割し、もう一つの画像を表示させた。
全く同じ形状のバクテリアが、赤黒い肉の繊維の中で繁殖している画像だった。
「これは……」
「数日前に、ギルドのパトロール隊が第4階層の隠し通路で押収した、キメラ系の解体残骸から採取したサンプルです」
ゆき子は長い睫毛を伏せ、淡々と告げた。
「正規の検疫ルートを通っていない肉ですね」
高木はモニターから視線を外した。
「……違法魔物肉の提供。飲食店での集団感染と見て間違いないな」
「ええ。早急に感染源を特定し、営業停止と食材の殺処分を行わなければ、被害はさらに拡大します」
ゆき子は新しい手袋をはめながら、白衣の襟元を正した。
「私はこのバクテリアの正確な毒性の証明と、特効薬となる中和剤のデータ作成を進めます。ですが、流通ルートの特定とお店の割り出しは、保健所のマンパワーだけでは時間がかかりますね」
高木は腕を組み、視線を足元に落とした。
患者の共通点は「昨晩、新宿区内の繁華街で飲食をした」ことだけ。それだけで保健所がしらみ潰しに調査を行うのは非現実的だ。
「……何か、絞り込むための手がかりがあれば」
高木は思考を巡らせる。違法なルートで流通している肉。それを仕入れて提供している店舗。
「ギルドの魔石換金記録と、区の飲食店の営業許可データ……」
高木はポツリと呟き、顔を上げた。
「それらを照らし合わせれば、不自然な動きをしている店舗が浮かび上がるかもしれない。……当課で洗ってみましょう」
「お願いします。店舗が特定でき次第、私も立入検査に同行します」
「承知しました。データがまとまり次第、すぐにご連絡します」
高木が静かに一礼して解剖室を後にしようとすると、背後からゆき子の声が追いかけてきた。
「高木さん。もし犯人の店舗で、まだ調理されていない新鮮な魔物肉が見つかったら、証拠品として私の研究室に回していただけますか?」
「法令に基づく証拠品の保全手続きが済み次第、検討しましょう」
高木は振り返ることなく答え、防音扉を静かに閉めた。
彼は解剖室を後にすると、早足で自席へと戻り、キーボードに手を伸ばした。




