第30話 霞が関の思惑と赤坂の焼鳥
ダンジョン中層における行政代執行から数日が経過した。
新宿区役所1階のダンジョン管理課の窓口には、連日、多くの冒険者や市民が訪れ、いつもの喧騒を取り戻していた。
「高木主任……本当に、何とお礼を申し上げてよいか。息子が無事に帰ってまいりました。これもすべて、区役所の皆様のおかげです」
窓口のアクリル板の向こう側で、初老の夫婦が深々と頭を下げていた。その後ろには、少しやつれた表情ながらも安堵の色を浮かべた若い冒険者の息子の姿がある。
「当課としては、区民の皆様の安全と、法令を守るための通常業務を遂行したまでです」
高木は夫婦の感謝の言葉に対しても、一切の驕りを見せることなく、極めて平坦な声で応じた。
「息子さんの心身の回復を第一になさってください。何か手続き等でご不明な点があれば、またいつでもご相談を」
高木が丁寧に一礼すると、家族は何度も振り返りながら、晴れやかな足取りで区役所を後にした。
「よかったですね、主任。あの子、無事に家に戻れて」
隣のデスクで書類整理をしていたまひるが、嬉しそうに目を細める。
「ああ。不法占拠されていたエリアの浄化も終わり、清掃事務所が定期的なパトロールルートに組み込む手はずも整った。これで1件落着だ」
高木は手元の決裁ファイルを整え、壁掛け時計に目をやった。
時刻は午後5時15分。
フロアに、1日の業務終了を告げるチャイムの音が響き渡る。
「さて。今日の業務はここまでだ。明日もあることだし、帰ろう」
高木はパソコンをシャットダウンすると、一切の無駄のない動作で立ち上がり、ジャケットを羽織って区役所を後にした。
★★★★★★★★★★★
新宿から遠く離れた霞が関。
経済産業省のビルの中枢に位置する、資源エネルギー庁の広大な執務室では、書類の束が床に叩きつけられる鈍い音が響いていた。
「……オメガ・リソースの資産凍結に、違法建築物の強制代執行だと?」
重厚なデスクの奥で、特区開発室長の神崎は、冷え切った目で部下を睨みつけていた。仕立ての良いスーツと、隙のないオールバック。若くして要職に就くエリート官僚だ。
「は、はい。ギルドによるライセンス剥奪と国税のガサ入れ、そして新宿区の行政代執行が、1日のうちに立て続けに行われました。事前の兆候は一切なく、我々が介入する隙もありませんでした」
報告する部下の声が微かに震えている。
「手回しが良すぎるな。……誰の絵図だ」
「主導したのは、新宿区役所ダンジョン管理課の高木乾三という主任です。国税やギルド法務部とも裏で綿密に連携していたようでして……」
神崎は忌々しげに舌打ちをした。
「地方の窓口の小役人が、国のエネルギー戦略に砂をかけたわけか。オメガ・ファミリアからのキックバックが途絶えれば、来期の実証実験の予算組みにも影響が出る」
神崎は椅子から立ち上がり、窓の外に広がる官庁街を見下ろした。
「予定を前倒ししろ」
「前倒し、ですか?」
「『ダンジョン特別措置法改正案』の草案を急がせるんだ。保安基準の見直しを名目に、ダンジョンの管理権と魔石に関わる税収を、すべて国が直接吸い上げるシステムを構築する。新宿区の権限など、法改正で骨抜きにしてやる」
窓ガラスに反射する神崎の顔には、地方の自治体を見下す傲慢な冷笑が浮かんでいた。
★★★★★★★★★★★
午後6時30分。
高木は赤坂の喧騒から少し外れた裏路地を歩き、ひっそりと佇む隠れ家的な焼鳥屋の暖簾をくぐった。
店内は香ばしい炭の匂いと、適度な活気に満ちている。
白木のカウンター席の奥では、すでに恰幅の良い男がジョッキを傾けていた。大学時代の同期であり、現在は都内で手広く不動産業を営む佐々木だ。
「相変わらず、きっちり定時上がりか乾三」
佐々木が高木に気づき、片手を上げる。
「無駄な残業をしないように、効率よく仕事を処理しているだけさ」
高木はスツールに腰を下ろすと、店員に生ビールを注文した。
運ばれてきた冷えたジョッキを打ち合わせ、2人は喉を鳴らした。
目の前の焼き台では、ねじり鉢巻を締めた大将が、備長炭の熱と真剣な眼差しで向き合っていた。高木はビールを飲みながら、その一切の無駄がないプロの所作に静かに見入る。大将は炭の配置を微かに変え、串を置く位置によって火入れのグラデーションを完璧にコントロールしていた。
「お待ち。お通しね」
大将がカウンター越しに差し出したのは、氷水で締められた色鮮やかな大根やキュウリなどの野菜スティックと自家製の辛味噌、ふっくらと釜揚げされたシラスおろし、そして上品な色合いの昆布の煮付けだった。
高木は昆布の煮付けを箸でつまむ。出汁の旨味が中までしっかりと染み込んでおり、柔らかく解ける。野菜スティックに辛味噌をつけてかじると、瑞々しい食感とピリッとした辛味が口に広がり、ビールのアテとして最高のスタートになった。
「大将、おまかせで」
佐々木が声をかけると、大将は短く応じ、次々と絶品の鶏料理を提供し始めた。
まずは、新鮮なササミを使った鳥わさ。表面だけをサッと湯通しし、本わさびと少量の醤油を絡めた逸品だ。ねっとりとした舌触りと、ツンと鼻に抜けるわさびの爽やかな香りがたまらない。
続いて供されたのは、フォワグラだ。
大将が手元のうちわで巧みに灰を飛ばし、煙を肉に纏わせながら焼き上げた串。一口噛めば、表面の香ばしいカリッとした食感の直後、中からトロトロで濃厚な脂の甘みが口いっぱいに広がる。
高木はここで生ビールを空け、芋焼酎の水割りを注文した。すっきりとした焼酎が、フォワグラの濃厚な脂の余韻を綺麗に洗い流してくれる。グラスの中でカランと氷が鳴る音が心地よい。
ネギマ、軟骨と、定番ながらも鶏の部位ごとの旨味を最大限に引き出した串が続く。ネギの甘みと鶏肉の脂が絶妙に絡み合い、軟骨のコリコリとした歯ごたえが焼酎のピッチを上げさせる。
圧巻だったのは、椎茸の挽肉詰めだ。肉厚な椎茸の傘の裏に、粗挽きの鶏肉がぎっしりと詰められている。炭火の遠赤外線が椎茸の水分を閉じ込めたまま肉に火を通しており、噛み締めた瞬間に熱々の肉汁と椎茸の芳醇なエキスが爆発した。
「熱っ、でも美味いなこれ」
佐々木がハフハフと息を吐きながら焼酎を煽る。
「ああ。炭の温度管理と、塩を振るタイミングが絶妙だ」
高木はハツの弾力と溢れる肉汁を堪能しながら、感嘆の息を漏らした。
軟骨が練り込まれふんわりとした食感のつくね、皮がパリッと焼き上がった手羽先と、大将の焼きの技術が光るコースを最後まで堪能し、2人は満足げに息を吐いた。
「〆はどうする? お茶漬けにするか?」
「いや、ここの出汁漬けにしよう」
高木が注文すると、どんぶりに盛られた白米の上から、鶏のガラと野菜をじっくりと煮込んだ琥珀色の濃厚なスープが注がれた。鶏の旨味が凝縮されたスープを白米と共にかき込むと、胃の腑の底からじんわりと温かさが広がっていく。
「そういえば乾三、お前、最近区役所で派手にやってるらしいな。知り合いの業者から、ダンジョン関連でえげつない手口を使うデカい公務員がいるって聞いたぞ」
佐々木が出汁漬けをすすりながら、面白そうに聞いてくる。
「何かの間違いじゃないか。私はただの窓口担当だよ。法令に従って、書類の不備を指摘しているだけさ」
高木は焼酎の水割りの残りを飲み干し、淡々と答えた。
「相変わらずだな、お前は」
佐々木は苦笑し、残りのスープを飲み干した。
★★★★★★★★★★★
夜10時。
すっかり静まり返ったマンションのドアを開けると、三和土の隅に置かれたスリッパの上で、淡いクリーム色の毛玉が丸くなっていた。
「ミャァ」
高木の足音に気づいたベルが、眠たそうな目をこすりながら立ち上がり、短い脚でトコトコとすり寄ってくる。
「ただいま、ベル」
高木は革靴を脱ぐと、足元で鳴いているベルの脇に両手を入れて、そっと胸の高さまで抱き上げた。そのまま自分の頬を、ベルの柔らかく温かい額にすり合わせる。ベルは「にゃーん」と喉をゴロゴロ鳴らし、高木の鼻先を短い前脚でぽふぽふと優しく叩いた。
ネクタイを外し、リビングのソファに腰を下ろすと、ベルもすぐについてきて高木の膝の上に丸く収まった。
高木は膝の上の小さな温もりと規則的な寝息を感じながら、1日の終わりの静かな夜の時間を心ゆくまで満喫していた。




