第23話 洗濯機の監視員と法外な依頼料
金曜日の朝。
高木の1LDKのマンションの洗面所で、子猫のベルはかつてないほどの真剣な眼差しで「それ」を監視していた。
稼働中のドラム式洗濯機である。
透明なガラス扉の向こう側で、高木のワイシャツやタオルが真っ白な泡まみれになりながら、右へ、左へと不規則に回転を繰り返している。低く唸るようなモーター音と、中の水がバチャバチャとガラスに打ち付けられる音が響くたび、ベルは耳をピンと立て、その動きに合わせて短い首を右へ左へと忙しく動かしていた。
「にゃっ」
時折、ガラスの向こうでタオルが大きく跳ねると、ベルはクリーム色の短い手を伸ばしてポムッと扉を叩く。しかし、もちろん中の獲物には届かず、冷たくて少し温かいガラスの感触が肉球に返ってくるだけだ。それでもベルは諦めず、香箱座りの体勢のまま、ジッとガラスに顔を近づけて瞬きもせずに監視任務を継続している。
洗面台の前でシェービングフォームを塗り、丁寧に髭を剃っていた高木は、その微笑ましい光景を鏡越しに眺めながら、自然と口角を緩めた。
我が家の平和な朝の風景。だが、高木の脳裏には、数時間前の木曜日の夜――新宿三丁目の居酒屋の個室で繰り広げられた、ひどくヒリついたやり取りが鮮明に残っていた。
★★★★★★★★★★★
前夜の居酒屋。
高木が紹介した「裏の協力者」である15歳の天才シーフ・谷口ヒカル子の不敵な自己紹介に対し、最初に沈黙を破ったのは、ギルド法務部の大野恵里だった。
「高木さん……冗談ですよね?」
恵里は手元のタブレット端末を伏せ、明らかな困惑と不快感が入り交じった声を出した。
「未成年を、しかも中学生を非合法な潜入調査に使うなど、ギルドのコンプライアンス以前に児童福祉法に抵触します。行政の人間であるあなたが、このような情報源を重用するなど……」
「大野室長の言う通りよ」
宮本マリも同調し、手元の冷酒のグラスをコツンとテーブルに置いた。
「いくらダンジョンに詳しいって言っても、こんな子供に国税の調査の片棒を担がせるわけにはいかないわ。もし現場で何かあって身元がバレたら、私たち全員の首が飛ぶわよ」
エリートとして社会のルールを行使してきた彼女たちにとって、だぼついたカーゴパンツ姿のストリートチルドレンをビジネスパートナーとして認めることは、到底受け入れがたいことだった。
しかし、大人たちから向けられる不信の目を、ヒカル子はフンと鼻で笑い飛ばした。
「お堅いねえ。じゃあ、お姉さんたちが自分で潜るの? ピンヒールで泥水の中を歩いて、ゴブリンの寝床を這いつくばってさ。あんたたちの立派な肩書きも法律も、地下の暗闇じゃ何の役にも立たないよ」
痛いところを突かれ、恵里とマリが言葉に詰まる。
黙っていられなくなったまひるが、身を乗り出して反発した。
「ちょっと、大人を舐めないでよね! あなたみたいな子供に何ができるっていうのよ!」
まひるは公務員としての言葉遣いを意識しつつも、かつて命懸けで潜っていた冒険者としてのプライドから、声に明確な怒気を滲ませていた。
ヒカル子はまひるをジロリと上から下まで眺め回し、呆れたようにため息をついた。
「うわ、いかにも考えなしの脳筋って感じ。あなたみたいなのが、一番先に罠に引っかかって死ぬんだよね」
「脳筋!? 私を誰だと思ってるの、元Cランク冒険者よ!」
「ふーん。で、今は安全な区役所でハンコ押してんでしょ。引退したお姉さんに用はないの」
「この……っ!」
まひるが顔を真っ赤にして立ち上がりかけた時、トン、と静かな音が響いた。
高木がウーロン茶のグラスをテーブルに置いた音だった。それだけで、個室に充満していた刺々しい空気が一瞬で凪ぐ。
「大野室長、宮本さん。彼女の年齢や経歴が、表社会で褒められたものではないのは事実だ。しかし、行政のネットワークにもギルドの監視網にも引っかからず、あの深層の暗闇を単独で歩ける人間は、新宿を探しても彼女しかいない」
高木は2人のプロフェッショナルを静かに見据え、事実だけを告げた。
「適材適所だよ。地上の法で裁けない相手をテーブルに引きずり出すためには、どうしても彼女の技術が必要になる」
恵里とマリは複雑な表情を浮かべたまま、互いに目配せをして、しぶしぶと引き下がった。高木がそこまで言うのなら、この少女の腕は確かなのだろうと判断したのだ。
場が落ち着いたのを確認し、高木はヒカル子に視線を向けた。
「谷口さん。先ほども電話で伝えた通り、探ってほしいのは第15階層以下の未踏破エリアにある『闇のセーフエリア』だ。そこの正確な見取り図と、運営資金の流れが記された裏帳簿のデータが欲しい」
ヒカル子は箸を置き、先ほどの子供っぽいからかいの表情から一転して、真剣な、大人を値踏みするような鋭い目つきになった。
「……なるほどね。あのヤバい連中の巣窟を潰すための証拠探しってわけだ。おじさんたちも結構エグいこと考えるね」
「引き受けてもらえるかな」
「タダじゃやらないよ。私の腕は高いからね」
ヒカル子は腕を組み、テーブルの上の大人たちを見回した。
「適正な報酬は区の調査費から用意するつもりだ」
「お金じゃない」
ヒカル子はテーブルに身を乗り出した。
「依頼を受ける見返りは……私につきまとってる、ヤバい借金をチャラにしてほしい」
その言葉に、マリが眉をひそめた。
「借金? 15歳の子供が?」
ヒカル子は視線を落とし、パーカーの袖口を無意識に強く握りしめた。少しだけ声のトーンが下がる。
「……私の両親、冒険者だったんだけどさ。2年前、ダンジョンの下層で帰らぬ人になった。で、残されたのが、親が装備を買うために手を出してた闇金からの借金。利子が雪だるま式に膨れ上がって、今はもう……2000万を超えてる」
恵里が息を呑む音が聞こえた。
「2000万……! 未成年にそんな負債を負わせるなど、法的に無効の可能性が高いわ。なぜ弁護士や警察に相談しなかったの?」
ヒカル子が自嘲気味に笑う。
「法律なんて関係ない連中なんだよ。毎日家に取り立てに来て、ドアを蹴られて、学校にも行けなくなった。警察を呼んでも『民事不介入』って適当にあしらわれるだけ。だから私、モグリでダンジョンに潜って、運び屋やって日銭を稼いでるの。でも、いくら稼いでも利子に消えるだけで……」
強がりで生意気な態度の裏に隠されていた、15歳の少女が背負うにはあまりにも過酷で切実な現実。いつ破綻してもおかしくない日常への恐怖が、彼女の小刻みに震える肩から伝わってくる。
「このままだと、そのうち風俗か、海外の怪しい組織に売り飛ばされる。……おじさん、あんた区役所の人間でしょ? 偉いんでしょ? この依頼をこなしたら、その借金、あんたの力でどうにかしてよ」
藁にもすがるような、しかし大人という存在を完全に信用しきれない、怯えた野良猫のような目が真っ直ぐに高木を見据えていた。
高木は哀れむことも、同情の言葉をかけることもしなかった。ただ、極めて事務的に、しかし相手を安心させる確かな重みのある声で問いかけた。
「相手の業者の名前は」
「……『新宿ファイナンス』。表向きはただの消費者金融だけど、バックには半グレがいるって噂」
「親御さんの契約書や、借用書は手元にあるか」
「コピーならある。でも、相手は証文を盾にして……」
「君自身の連帯保証人のサインは?」
「……私がさせられた。親が消えた後、大人が何人も家に押し掛けてきて、無理やり指印を……」
必要な情報を聞き出すと、高木は小さく、力強く頷いた。
「いいだろう。その条件で、依頼を引き受けよう」
ヒカル子が驚いたように目を丸くする。
「……本当に? 適当なこと言ってない? あいつら、普通に暴力振るうようなヤバい奴らだよ?」
高木は分厚い手でおしぼりを畳みながら、静かに告げる。
「ダンジョンの暗闇の仕事は、君に任せる。その代わり、地上の法律が通じる場所での『掃除』は、私たちが引き受けよう。……大野室長、宮本さん」
高木が両隣のプロフェッショナルたちに視線を向ける。
恵里が鋭い視線を向け、きっぱりとした声で言った。
「未成年を騙して不当な契約を結ばせた悪質業者。冒険者を食い物にしているとなれば、ギルドの法務としても看過できませんね。契約の瑕疵は私が徹底的に洗い出します」
マリも獰猛な笑みを浮かべ、グラスの残りを飲み干す。
「違法な高金利を取ってるなら、間違いなく脱税と資金洗浄をやってるわね。帳簿の裏を洗って、口座ごと差し押さえるのは私の得意分野よ」
まひるはドンッと自分の胸を叩いた。
「いざとなったら、私が物理で守るから! あなたは安心してダンジョンに潜りなさい!」
ヒカル子は少しだけ口を開け、言葉を失ったように彼らの顔を順番に見渡した。そして、無意識に握りしめていたパーカーの袖口から、ゆっくりと力を抜いていく。
「明日の午後、その業者を区役所に呼び出しなさい」
高木はウーロン茶のグラスを手に取り、静かに告げた。
「まずは、君の肩の重い荷を下ろすところから始めよう」
★★★★★★★★★★★
ピーッ、ピーッ、というリズミカルな電子音と共に洗濯機が停止し、高木の意識は金曜日の朝の洗面所へと引き戻された。
監視任務を終えたベルが、「終わったよ」と報告するように高木の足元にすり寄ってくる。
「ご苦労様。上手に監視できたね」
高木はベルの頭を撫でてやりながら、湿った洗濯物を取り出してカゴに移し、ベランダへと向かった。
シワをしっかりと伸ばし、ワイシャツをハンガーにかけて物干し竿に吊るしていく。初夏の心地よい風が、洗い立ての洗剤の清潔な香りをフワリと運んできた。
今日の午後、区役所のダンジョン管理課の窓口には、1人の少女を長年苦しめている悪質金融業者がやってくる。
高木は部屋に戻ると、アイロンの効いた清潔なワイシャツに袖を通し、ネクタイをしっかりと締めた。腕時計を身につけ、分厚い決裁用ファイルの入った鞄を持つ。
「留守番、頼んだよ」
足元で見上げるベルに短く声をかけ、高木は静かにドアを閉めて仕事へと向かった。




