第24話 未成年者取消権と夜景の見えるレストラン
金曜日の午後1時。
昼休みの余韻がまだ残る新宿区役所1階のフロアに、ひどく不釣り合いな3人組が足を踏み入れた。
先頭を歩いているのは、防塵ゴーグルを首に下げ、だぼついたパーカーを着た小柄な少女――谷口ヒカル子だ。しかし、いつもの生意気で小悪魔的な態度は完全に影を潜めていた。怯えた子猫のように下唇を強く噛み、パーカーの袖口をぎゅっと握りしめ、うつむき加減で重い足取りを進めている。
彼女の背後には、逃げ道を塞ぐようにピタリと張り付く2人の男の姿があった。
ギラギラとした派手な柄のシャツに、ブランド物のセカンドバッグ。耳の裏や首元には和彫りのタトゥーが覗き、周囲を威嚇するような歩き方をしている。いかにも裏社会の人間といった風体の男たちだった。
「おいガキ。なんで区役所なんかに呼び出しやがった。生活保護でも申請して、俺たちに金返す気になったか?」
背後の男の1人が、周囲の来庁者に見せつけるように大きな声を出す。順番待ちをしていた市民たちが、何事かとギョッとして一斉に道を譲った。
「お待ちしておりました。3番窓口へどうぞ」
カウンターの奥から、高木が静かに立ち上がった。
男たちは、アクリル板の向こう側にそびえ立つスーツ姿の巨漢に一瞬だけ顔を引きつらせたが、相手がただの役人だとわかると、すぐにせせら笑いを浮かべてカウンターの前に立った。
「なんだァ、あんた。このガキの親戚か? それとも新しいパトロンか?」
「新宿区役所ダンジョン管理課、主任の高木です。あなたが『新宿ファイナンス』の代表者の方でよろしいですか」
高木は名刺を差し出しながら、極めて事務的なトーンで応じた。
男は名刺を払いのけ、カウンターにドンッと肘をついた。
「ああ、そうだ。こいつの親が残した2000万の借金の保証人でな。利子だけで毎月飛んでくんだよ」
「確認ですが、谷口さんが連帯保証人として契約書にサインしたのは、2年前ですね」
「ああ、そうだ。親が死んだ後、きっちり指印も押させたぜ」
高木は手元に用意していたファイルを静かに開いた。中には、ヒカル子が怯えながら提出した証書のコピーが綴じられている。
「彼女は現在15歳です。契約当時は13歳」
高木はボールペンの先で、ヒカル子から預かっていた契約書のコピーの日付欄を正確に指し示した。
「民法第5条により、未成年者が法定代理人の同意を得ずに行った法律行為は、取り消すことができます。彼女は当時13歳であり、同意を与えるべき親権者もすでに他界していました。したがって、この連帯保証契約は本日付けで取り消し、無効とさせていただきます」
男の顔から、人を小馬鹿にしたような余裕の笑みが消えた。
「あぁ!? ふざけんな! ガキだろうがなんだろうが、ここに本人の指印があるだろうが! 俺たちは慈善事業やってんじゃねえんだよ!」
男が激昂してアクリル板をバンと力任せに叩く。隣のデスクで控えていたまひるが、いつでも飛び出せるよう無言で腰を落とし、鋭い視線を男たちに向けた。
しかし、高木は全く動じなかった。表情の筋肉一つすら変えない。
「契約の有効性以前の問題として、この借用書に記載されている金利についてもお伺いします」
高木はファイルの別のページをめくった。
「遅延損害金を含め、計算上の年利は150パーセントを超えていますね。これは利息制限法の上限を大幅に超えているばかりか、出資法第5条に違反する明白な犯罪行為です」
男の顔が、わずかに引きつった。
「……テメェ、役所の窓口のくせに、警察の真似事でもする気かよ」
「出資法違反は、5年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金、またはその両方が科せられる重罪です」
高木はファイルを静かに閉じ、有無を言わせぬ視線で男を真っ直ぐに射抜いた。
「さらに、すでに彼女が支払った利息を適正な金利で引き直し計算した場合、元本はとうの昔に消滅しており、むしろ数百万円単位の過払い金が発生しています」
「なっ……」
「これ以上、彼女に対する不当な請求や接触を続けるのであれば、区役所としてこの契約書を証拠に、所轄の警察署および金融庁に刑事告発を行います。……どうされますか。ここで過払い金の返還請求に応じますか、それとも、警察の取り調べを受けますか」
男の額から、ドッと嫌な冷や汗が噴き出した。
相手はただの区役所の職員だ。本来なら怒鳴り散らして威圧すれば、震え上がって引っ込むはずの存在。しかし、目の前にいる巨漢は、暴力の匂いを一切させないまま、逃げ道のない法律の檻で自分たちの首にロープを巻きつけてきている。
ここで手を出せば、隣で殺気を放っている元冒険者の女に制圧されるか、公務執行妨害でその場で逮捕される。そして警察の捜査が入れば、自分たちの違法な高利貸しの実態がすべて明るみに出る。
「……ッ、クソが! 覚えてろよ!」
男は忌々しげに舌打ちをすると、セカンドバッグを乱暴に掴み直し、足早に区役所の出口へと向かっていった。連れの男も慌ててその後を追う。
「……えっ?」
残されたヒカル子は、ポカンと口を開けたまま、逃げ帰っていく男たちの背中と、目の前の高木を交互に見つめていた。
「終わったよ、谷口さん」
高木は乱れたネクタイを直し、いつもの穏やかな声で告げた。
「彼らが君に接触してくる法的な根拠は、これで完全に消滅した。万が一、再び取り立てに来るようなことがあれば、すぐ私に連絡しなさい。すぐに警察を動かす」
「……う、嘘……」
ヒカル子は信じられないものを見るように、自分を長年縛り付けていた契約書のコピーを見つめた。
やがて、彼女の大きな猫目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。拭うことも忘れて、ヒカル子は両手で顔を覆い、しゃくり上げながらその場にしゃがみ込んだ。
まひるが慌ててカウンターから飛び出し、「大丈夫、もう怖くないからね」と、ヒカル子の小さな背中を優しくさすった。
数分後。
ようやく涙を拭ったヒカル子は、立ち上がり、赤く腫らした目で高木を真っ直ぐに見上げた。
「……おじさん。いや、ボス」
ヒカル子は鼻をすりながら、ビシッと姿勢を正した。
「私、あんたの言うことなら何でも聞く。ダンジョンの底だろうが、どこだろうが、必ず見取り図と帳簿を盗み出してくる。だから……これからも、私を使ってよ!」
「頼りにしているよ、天才シーフ」
高木が短く微笑んで頷くと、ヒカル子は「任せといて!」と力強く拳を握りしめ、颯爽と区役所を駆け出していった。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。午後8時。
新宿の高層ビル群の一角にある、夜景の美しいフレンチレストラン。
薄暗い間接照明と、店内を満たす静かなジャズの調べ。窓際のテーブル席に座った高木は、グラスのシャンパンを静かに傾けながら、待ち人を迎える準備を整えていた。
「お待たせ、乾三くん。ごめんね、少し遅れちゃって」
小気味よい足音を響かせて現れたのは、宮本マリだった。
いつもの隙のないパンツスーツ姿ではない。今日の彼女は、光沢のあるネイビーのシルクブラウスに、流れるようなシルエットのロングスカートという、しっとりとした大人の女性の装いだった。耳元で揺れる華奢なピアスが、店内の照明を浴びてキラリと光る。
「いや、私も今着いたところだ。よく似合っているね、その服」
「ふふっ、ありがとう。たまにはこういう格好も悪くないでしょ?」
マリは向かいの席に優雅に腰を下ろし、分厚い革張りのメニューを開いた。
今日は、高木からマリを誘った「デート」だった。
連日のように続く厄介な案件。特に今回の『闇のセーフエリア』の調査は、行政と国税が歩調を合わせなければならない大掛かりなものになる。だからこそ、本格的な戦いが始まる前に、お互いの労をねぎらい、英気を養う時間が必要だと高木は考えたのだ。
「それで? 昼間の件、どうだったの」
マリが前菜のカルパッチョを口に運びながら、少しだけ声のトーンを落として尋ねる。
「業者の方は、無事に片付いたよ」
高木が白ワインのグラスを置き、短く答える。
「そう。なら、あの子も心置きなく動けるわね。……今の時間なら、もう潜ってる頃かしら」
「ああ。彼女の腕を信じよう」
マリは小さくため息をつき、頬杖をついた。
少しだけ拗ねたような、蠱惑的な上目遣いで高木を見つめる。
「今日はデートなんだから、少しは別の話題にしましょうか。……それとも、乾三くんは私と2人きりじゃ、話すことないの?」
その言葉に、高木は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに苦笑して肩をすくめた。
「すまない。職業柄、つい段取りを気にしてしまう癖があってね。君のように魅力的な女性を前にして、無粋だった」
「ふふっ。わかればよろしい」
マリは嬉しそうに微笑み、自身のグラスを持ち上げた。
「じゃあ、改めて乾杯しましょう。厄介な案件を片付けてくれたあなたと……美味しい食事に」
「乾杯」
2つのグラスが、澄んだ音を立てて合わさる。
窓の外には、新宿の眩いネオンが宝石のように輝いていた。
「美味しいわ、このお肉。乾三くんも一口どう?」
「ありがとう。では、お返しにこちらのキッシュを」
丁寧に調理された料理の数々と、厳選されたワイン。テーブル越しに交わされる、仕事から離れた他愛のない会話。
高木は柔らかい笑みを浮かべ、目の前にいる戦友との親密で優雅なディナーの時間を、心ゆくまで堪能した。




