第21話 行方不明の冒険者と闇のセーフエリア
購入したばかりの段ボール製の爪研ぎ器を前に、高木とベルは静かに向かい合っていた。
水曜日の朝。リビングの壁際に新しく設置されたそれは、緩やかなカーブを描いたソファ型のデザインで、表面には細かな波型の溝がびっしりと並んでいる。
子猫のベルは、その見慣れない物体の前にちょこんと座り、不思議そうに匂いを嗅いでいた。クリーム色の小さな手を伸ばして端の方をチョンと触ってみるが、すぐにビクッと引っ込めてブルッと首を振る。まだこれが何に使う道具なのか、全く理解できていないようだ。
出勤前のコーヒーを飲んでいた高木は、マグカップをローテーブルに置き、ベルの横にしゃがみ込んだ。
「ベル。こうやるんだよ」
高木は自分の人差し指と中指を立て、段ボールの表面の溝に沿って、軽く引っ掻くようにカリカリと音を立ててみせた。
乾いた硬い音が鳴ると、ベルはピンと耳を立てて高木の手元をじっと見つめた。そして真似をするように、恐る恐る右の小さな手を爪研ぎ器の上に乗せる。
鋭い爪が段ボールの溝に引っかかり、プスッという微かな音がした。
ベルは目を丸くして自分の手を見つめ、今度は左手も乗せて、少しだけ力を入れて手前に引いてみた。
バリッ、と小気味よい音が鳴る。
その感触が本能の奥底を刺激したのか、ベルの丸い瞳がパッと輝いた。左右の腕を交互に素早く動かし、バリバリバリ! と勢いよく爪を研ぎ始める。背中を反らせて気持ちよさそうに伸びをしながら、全身を使って段ボールの表面を引っ掻く。時折「にゃっ」と興奮したような声を漏らし、すっかり新しいおもちゃの虜になってしまったようだ。
その無心な後ろ姿を見守りながら、高木は自然と口角を緩めた。
壁紙や家具を守るための導入だったが、どうやら上手くいったらしい。高木はベルの柔らかな背中を指先でそっと撫でると、立ち上がってスーツのジャケットを羽織り、静かにドアを閉めて仕事へと向かった。
★★★★★★★★★★★
午前11時。新宿区役所1階、ダンジョン管理課のフロア。
『シルバーホーン』の一斉摘発という大騒動からしばらくの時間が経過し、窓口には平穏な日常が戻っていた。魔石の換金レートも安定しており、大声で威圧的な態度をとる冒険者の姿もめっきり減っている。
「次でお待ちの方、3番窓口へどうぞ」
まひるがマイク越しに声をかけると、待合席から初老の男女が立ち上がった。二人はどこか落ち着かない様子で周囲を見回しながら、重い足取りでカウンターの前にやってきた。
作業着姿の日に焼けた顔の父親と、目元に深い疲労の色を浮かべた母親だ。ダンジョンに潜る冒険者ではなく、ごく普通の一般区民であることが伺える。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
まひるが明るい声で対応するが、母親の方は不安げにバッグの持ち手を握りしめ、言葉を濁した。
「あの……こちらの窓口でよろしいのか、わからないんですが……。息子のことで、ご相談がありまして」
母親は震える手でバッグを開け、茶封筒から数枚の書類を取り出してアクリル板の下のトレイに置いた。
「息子が、1ヶ月前から家に帰ってこないんです。それに昨日、こんな手紙がポストに入っていて……」
まひるは差し出された書類を手に取った。
それは、いかにも安っぽい薄手の紙に、威圧的な太字の明朝体で印字された督促状だった。赤いスタンプで『最終通告』と押されている。
文面には、元金として300万円の借り入れがあり、法外な遅延損害金が加算されている旨が記載されていた。
「これ……借金の督促状ですか?」
「はい。息子は冒険者をやっているんですが、ギャンブルや無駄遣いをするような子じゃないんです。装備のメンテナンス費用だって、いつもコツコツ貯金してやり繰りしていました。それなのに、急にこんな額の借金だなんて……」
父親が横から口を挟む。その声には、深い戸惑いと、見えない相手への怒りが入り混じっていた。
まひるは書類の束をパラパラと捲り、最後の一枚に目を留めた。借用書のコピーらしき紙には、確かに息子本人のものと思われる直筆の署名と、乱雑な捺印があった。
だが、書類全体のフォーマットや文言の端々に、正規の金融機関ではない、裏社会の業者が使うような胡散臭さが漂っている。不審に思ったまひるが、隣のデスクで書類整理をしていた高木に視線を向けると、高木はすでに事態を察し、静かに席を立って窓口へと歩み寄ってきた。
「代わろう。……お待たせいたしました。主任の高木です」
高木はまひるから書類を受け取り、差出人の欄に記載されている金融業者の名前と住所を視線でなぞった。
「安藤さん。この業者名と所在地を、都内の貸金業登録データベースと法人登記で照会してみてくれるかな」
「はい、すぐやります」
まひるが自分の端末に戻ってキーボードを叩く。数十秒後、彼女は画面を見つめたまま怪訝な顔をした。
「主任。該当する貸金業の登録番号はありません。法人登記は存在していますが、記載されている住所は港区の私書箱になっています。実体のないペーパーカンパニーのようです」
「……なるほど」
高木は手元の督促状をトレイに戻し、夫婦に向き直った。
「息子さんは、最後にダンジョンへ向かう際、どの階層へ行くかご存知でしたか」
「たしか、第15階層より下のエリアに行ってみると言っていました。最近腕を上げて、中層の探索パーティーに誘われたと喜んでいたんです」
その言葉を聞いた瞬間、まひるの顔にハッとした色が浮かんだ。
「第15階層より下……未踏破エリアの付近ですか」
まひるは来庁者の夫婦を気遣うように声を潜め、高木の横に近づいた。
「主任……私、現役の頃に冒険者たちの間で流れていた、ちょっと嫌な噂を聞いたことがあります」
「どんな噂だい?」
「ダンジョンの中層……ギルドの監視の目も届きにくい入り組んだエリアに、ならず者の冒険者たちが不法占拠して勝手に作った集落みたいな場所があるって」
高木がわずかに目を細める。
「集落?」
「はい。一部の界隈では『闇のセーフエリア』って呼ばれてます。違法なカジノとか、風俗とか、地上ではご法度になっているような非合法アイテムの売買が行われてるって。もし、息子さんがそこに立ち寄って、何かのトラブルに巻き込まれたんだとしたら……」
まひるの言葉に、夫婦の顔からサッと血の気が引いた。
「そ、そんな……! じゃあ息子は、ダンジョンの中で借金のカタに捕まっているということですか!?」
母親がカウンターにすがりつくようにして声を上げる。
「まだ確定したわけではありません。落ち着いてください」
高木は夫婦をなだめるように、ゆっくりと手を前に出した。
「安藤さん、ギルドのデータベースで息子さんの入出区記録を確認して」
「わかりました。……ええと、入区記録は1ヶ月前の日付で残っていますが、出区記録……地上へ戻ってきた記録がありません。ダンジョン内に滞在したままです」
高木は顎に手を当てた。
ギルドを通さずに多額の現金を貸し付け、ペーパーカンパニーを使って地上へ督促状を送る。もしその無法地帯が実在するとすれば、この法外な借用書は、若い冒険者をそこで強制労働させるための縛りとして使われている可能性が高い。
「ご相談、確かに承りました。当課で情報を整理し、関係機関とも連携して対応を検討いたします。まずはご自宅でお待ちいただけますか」
高木は夫婦に名刺を渡し、丁寧に頭を下げて彼らを帰らせた。
★★★★★★★★★★★
昼休み。
ダンジョン管理課の奥にあるバックヤードで、高木とまひるは持ち込まれた相談の情報を整理していた。そこに、缶コーヒーを片手にした鈴木課長がフラリとやってきた。
「いやぁ、窓口で深刻そうな話をしてたけど、どうしたんだい? またどこかのクランが税金をごまかしたとか?」
「いえ、少し厄介な事案です」
高木は事の顛末と、ダンジョン中層に存在すると思われる『闇のセーフエリア』の疑いについて端的に報告した。
話を聞き終えるなり、鈴木課長の顔から余裕が消え去り、額にじわじわと冷や汗が浮かび始めた。彼は慌ててズボンのポケットからハンカチを取り出し、必死に額を拭う。
「た、高木くん! ダンジョン中層の違法エリアなんて、ただの都市伝説じゃないか!? もし実在したとしても、そんな深層の話は完全に区役所の管轄外だよ!」
「しかし課長、実際に区民の家族に行方不明者が出ており、実体のない金融業者から不当な請求が来ています」
「いやいや、でもねえ! 相手は法律の通じないならず者の集団だよ!? 下手に首を突っ込んで、区役所の窓口に報復でもされたらどうするんだい! 警察だって物理的に踏み込めない場所じゃないか!」
鈴木課長の事なかれ主義は相変わらずだった。自分の責任問題に発展するリスクを何よりも恐れているのだ。
「それに、第15階層なんて我々行政の権限が届くわけがない。完全な治外法権だよ。悪いことは言わないから、この件はギルドの捜索隊に任せて、我々は手を引こうじゃないか。ね、そうだろう?」
「事なかれ主義もそこまでいくと立派ですね」
まひるが呆れたようにため息をついた。
高木は鈴木課長の反論を静かに聞き流し、手元の資料をトントンと机で揃えた。
「課長の懸念も理解できます。我々区役所の職員が、ダンジョンの中層へ直接出向いて行政指導を行うことは物理的に不可能です。ギルドの討伐部隊や警察を動かすにしても、場所が特定できず、内部の明確な犯罪の証拠がなければ腰を上げることはないでしょう」
「そうだろう? だからこれは……」
「ですが、区民に直接的な被害が及んでいる以上、行政として放置するわけにはいきません」
高木の低い声が、バックヤードの空気を引き締めた。
まひるが高木の方へ身を乗り出す。
「でも、どうするんですか? 正面から調査に行けないとなると、手出しのしようがないですよ。ギルドの正規ルートで探りを入れても、すぐに警戒されるだけです」
高木はバックヤードに設置されたパソコンのモニターに向き直った。
「ああ。だから、こちら側のアプローチを変える」
高木はマウスを握り、行政のネットワークから切り離された、独自のデータベースの画面を開いた。
「表のルールが通じない相手の懐に潜り込むには、裏のルールで動ける協力者が必要だ」
高木は画面に表示されたある人物の連絡先を、静かにタップした。




