第20話 莫大な請求書と定時退社
月曜日の朝。
1LDKのマンションのリビングに、カラカラと軽いプラスチックの音が響いていた。
高木がミネラルウォーターを飲み終え、ローテーブルの上に無造作に置いた青いペットボトルのキャップ。それが今、子猫のベルにとっての最大の関心事であり、最新の標的だった。
ベルはテーブルの脚の影に身を潜め、耳を伏せて獲物を狙う猛獣のように低い姿勢をとっている。そしてタイミングを計るように短い尻尾の先をピクピクと揺らし、短い前脚を精一杯伸ばして、チョイッとキャップの端を弾いた。
カラリ、とキャップがフローリングの上を不規則に滑っていくと、ベルは「にゃっ」と短く高い声を上げてトテトテと追いかける。両前脚で器用に挟み込もうと飛びかかるのだが、丸くて軽いキャップは無情にもピンク色の肉球をツルリと滑り抜け、ソファーの下の薄暗い隙間へと転がっていってしまった。
ベルはソファーの布地に顔をこすりつけるようにして隙間に首を突っ込み、お尻を高く上げて短い尻尾をパタパタと振りながら、必死に前脚を伸ばしている。しかし、どうしても数センチ届かないらしく、「にゃーん、にゃーん」と情けない声を出して、洗面所の鏡の前で身支度をしている高木の方を振り返った。
「自分で弾いておいて、助けを求めるのかい」
高木は苦笑しながら、締めている途中だったネクタイから手を離し、ソファーの前にしゃがみ込んだ。長い腕をソファーの下に伸ばし、埃にまみれる前に青いキャップを救出してやる。
それをベルの目の前にコトリと置いてやると、ベルは「にゃっ!」と嬉しそうに鳴き、再びキャップに向かって果敢なアタックを開始した。
その微笑ましくもせわしない攻防を眺めながら、高木は洗面所の鏡に向かい、ネクタイの結び目をきっちりと首元まで引き上げた。
今日は月曜日。大がかりな共同作戦の決行日であり、おそらく区役所の窓口にもその余波が押し寄せてくるはずだ。
「戸締まりは頼んだよ、ベル」
高木は夢中で遊んでいる小さな背中に短く声をかけ、いつものように静かにドアを閉めて仕事へと向かった。
★★★★★★★★★★★
午前11時。新宿区役所1階、ダンジョン管理課のフロア。
週明けの混雑がピークを過ぎ、窓口業務が少しだけ落ち着きを見せ始めた頃だった。
バンッ! というガラスが割れんばかりの乱暴な音と共に、区役所の自動ドアがこじ開けられた。
「どいつだ!! 俺をハメた区役所の担当者はどこにいる!!」
腹の底から絞り出したような、獣の咆哮に近い怒号がフロアに響き渡った。
静かだった区役所の空気は一瞬にして凍りつき、順番待ちをしていた市民たちが悲鳴を上げて壁際に身を寄せた。窓口の職員たちも一斉に手を止めて入り口に視線を向ける。
現れたのは、目を血走らせ、髪を振り乱した男だった。数時間前まで都心の高級ラウンジでふんぞり返っていたはずの悪徳クラン『シルバーホーン』のリーダー、赤星だ。
着ているブランド物のスーツはヨレヨレになり、ネクタイは引きちぎられたように緩んでいる。その顔には、怒りと焦燥が複雑に入り混じった、狂気にも似た表情が張り付いていた。荒い息を吐くたびに、ひどい酒の匂いが周囲に漂う。
「あの女のバックにいるのはわかってんだよ! 隠れてねえで出てこい!!」
赤星は息を荒らげながらフロアをズカズカと進み、手近にあった記載台を力任せに蹴り飛ばした。ガシャーンと音がして、ボールペンや申請用紙が床に散乱する。
まひるは反射的にデスクから立ち上がり、腰を落として相手の初動を制圧するための警戒態勢に入った。足元のキャスター付きの椅子を邪魔にならない位置へ蹴りやり、いざとなればアクリル板を飛び越えてでも、あの男の首根っこを押さえつけるつもりだった。
しかし、まひるが動くよりも早く、高木が静かに席を立った。
「当課にご用件でしょうか。他のお客様のご迷惑になりますので、大声を出すのはお控えください」
高木は極めて事務的な、温度を感じさせないトーンで声をかけながら、赤星の正面へと歩み寄った。
見上げるようなスーツ姿の巨漢が立ちはだかり、暴れる赤星を見下ろす形になる。その圧倒的な体格差に、赤星は一瞬だけひるんだように見えたが、すぐに顔を歪めて憎悪をむき出しにした。
「お前か……! お前らが裏で絵を描いて、俺のクランを潰しやがったんだな!」
赤星は高木を指差し、唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴り散らした。
「ギルドの除名処分に、国税のガサ入れ! たった数十分の間に一斉に動きやがって! おかげで俺の口座も、アジトに隠してた現金も、マジックアイテムも、全部奪われた!」
「当窓口でお受けできるのは、ダンジョン利用に関する行政手続きのみです。不服申し立てであれば、それぞれの執行機関へ直接お問い合わせください」
「ふざけんな! どう落とし前つけるつもりだ! ぶっ殺してやる……!」
赤星が懐に手を入れ、身を乗り出そうとした。
その瞬間。
高木は手元のクリアファイルから、あらかじめ用意してあった2枚の書類を抜き出し、窓口のカウンターのトレイにパサリと置いた。
「落とし前、ですか。ちょうど良かったです。あなたには、こちらからお渡ししなければならない書類がありましたので」
「なんだこれは……!」
「1枚目は、東京都NPO活動支援助成金の返還請求書です」
高木はボールペンの先で、一番上の書類に印字された太字の項目を静かに指し示した。
「あなたが実質的に運営していた環境保護団体『緑の息吹』。彼らが提出していた架空の事業報告に基づく助成金の不正受給について、全額の返還を求めるものです」
「知るか! 俺はそんな団体、名前しか……」
「国税局の調査により、あなたの口座と団体の口座間の不透明な資金のやり取りはすでに立証されています」
高木は赤星の言葉をピシャリと遮り、冷徹に言葉を続けた。
「言い逃れはできません。なお、これとは別に、詐欺罪での刑事告発状をすでに所轄の警察署へ提出しています」
赤星の顔から、一瞬にして表情が抜け落ちていくのがわかった。怒りで紅潮していた肌が青ざめ、口元が微かに震える。
「さ、詐欺……?」
「そして2枚目。こちらは新宿区からの損害賠償請求書になります」
高木はボールペンの先を、もう1つの書類へと滑らせた。
「区内の公園に不法投棄されたモンスターの死骸。あなたはどうやら、ダミーの産廃業者を使って処理費用を浮かせたつもりのようですが」
「証拠なんかねえだろ! あの現場にタイヤの痕一つ残さなかったんだぞ!」
「防犯カメラの車両通過記録と、業者のトラックの走行履歴が完全に一致しました。清掃事務所による特殊清掃費用および、汚染された土壌の浄化にかかった費用の全額を、クランの代表であるあなたに請求いたします」
赤星は震える手で、トレイの上に置かれた書類を手に取った。
そこに記載されている金額を見て、彼の目は限界まで見開かれた。助成金の返還額に高額な延滞金が加算された数字。そして、特殊清掃と土壌改良という、想像を絶する莫大な損害賠償額。
2つの書類に並んだ数字の合計は、途方もない金額だった。
「お、俺は……俺はもう、何も持ってねえんだぞ……」
赤星は書類を持つ手をガタガタと震わせながら、後ずさりした。
「今朝、国税に全部持っていかれたんだ……! 自分の身1つしか残ってねえんだよ! こんな莫大な額、払えるわけねえだろ!」
「お支払いが滞るようであれば、規定に従い、さらに延滞金が加算されていきます」
高木は赤星の悲鳴のような訴えに対し、感情の起伏を一切見せずに淡々と告げた。
「仮にあなたが自己破産を宣告したところで、悪意のある不法行為に基づく損害賠償や、刑事罰に伴う罰金などは免責の対象になりません。刑期を終えた後も、あなたが一生かけて支払うべき負債です」
「あ……あぁ……」
「お渡しする書類は以上です。お引き取りください。これ以上窓口で業務を妨害されるのであれば、警察を呼びます」
赤星は書類を取り落とし、カウンターにすがりつくようにして膝から崩れ落ちた。頭を抱え、うわ言のように意味の通らない言葉を呟き続ける。
もはや彼に、立ち上がって暴れたり怒鳴り散らしたりする気力は残っていなかった。
やがて、サイレンの音と共に通報を受けて駆けつけた警察官たちがフロアになだれ込み、赤星は抵抗することすらなく、両脇を抱えられて力なく連行されていった。
嵐が去り、フロアにようやく本来の静けさが戻る。
避難していた市民たちが恐る恐る窓口に戻り始め、職員たちもほうっと長い安堵の息を吐き出した。
「主任、お疲れ様です……。本当に、すごいタイミングで全部重なりましたね」
まひるが警戒を解き、高木の隣に立って小さく息を吐き出した。
「これまでの彼自身の行いが、一気に清算の時期を迎えただけだよ」
高木は乱れた記載台を片付けるよう若手職員に指示を出しながら、短い言葉で返した。
そこへ、フロアの入り口から小気味よいヒールの音を響かせて、近づいてくる人影があった。
硬い床を打つリズムに合わせて、高級な香水の甘い匂いが区役所の無機質な空気に混ざり込む。
「お疲れ様。いやー、最後の最後までいい絵が撮れたわ」
スマートフォンを片手に、今井素子が窓口のアクリル板に寄りかかってきた。彼女の赤い口元には、満足げな笑みが浮かんでいる。
「今井さん。庁舎内での撮影はご遠慮くださいと、以前申し上げたはずですが」
高木が厳しい視線を向けると、素子は軽く肩をすくめてスマートフォンをハンドバッグにしまった。
「回してないわよ。ただの見学。……それにしても、行政と国税とギルドを巻き込んで、あそこまで綺麗にお片付けするなんてね。センセイの腕前、見直したわ」
素子は名刺入れを指先で弄りながら、高木に向かってすっと身を乗り出してきた。
「ねえ。私、これからも色んな連中の裏の顔を暴いていくつもりなの。また面白いネタを持ってきたら、組んでくれる? センセイと私のコンビなら、このダンジョン界隈をもっと面白く掃除できると思うんだけど」
妖艶な笑みを浮かべて誘いかける素子。
高木は無言で壁掛け時計に目をやった。
時刻は午後5時15分。
秒針が12を指し、タイミングを合わせたように、業務終了を告げるチャイムが区役所のフロアに響き渡った。
「お誘いは光栄ですが、お断りします」
高木はパソコンの電源を落とし、デスクの上の決裁箱を几帳面に整えた。
「なぜ? 私と組めば、特ダネと引き換えにもっと効率よく情報を集められるわよ」
「私は区役所の窓口担当ですから。与えられた業務を、法令に従って淡々と処理するだけです」
高木はデスクから立ち上がり、椅子の背にかけてあったスーツのジャケットを羽織った。
「定時なので。本日の業務は終了です。お疲れ様でした」
素子の唖然とした顔を窓口に残し、高木はまひるに「また明日」と短く声をかけると、引き出しの鍵を閉めて足早にフロアを去っていった。
一人残された素子は、ポカンと開けていた口を閉じ、「……ふふっ、本当に可愛げのない男」と呆れたように笑った。
まひるは素子のその顔を見て小さく吹き出し、自分も急いで帰り支度を始めた。




