第19話 炎上の朝と包囲網の完成
月曜日の朝。
出勤の準備を終えた高木は、リビングの床に膝をつき、ローテーブルの下からソファの裏まで視線を巡らせていた。
「ベル。どこにいるんだい?」
声をかけても、いつものような「にゃあ」という愛らしい返事はない。
1LDKの部屋の中で、子猫が隠れられそうな場所は限られている。高木は部屋の隅に設置された3段ケージに近づき、その一番下、キャスターとフローリングの間にできたわずか10センチほどの隙間を覗き込んだ。
いた。
薄暗い隙間の奥深くに、淡いクリーム色の毛玉がすっぽりと収まっている。短い脚と柔らかな体を活かして器用に潜り込み、そこを自分だけの秘密基地に見立てているようだ。床に腹ばいになり、前脚をきれいに香箱座りのように折りたたんで、丸い瞳だけを爛々と輝かせている。
「そんな埃っぽい場所が落ち着くのかい」
高木は苦笑しながら、テレビ台の上に置いてあった猫じゃらしを手に取り、その先端の羽を隙間の入り口でチョロチョロと動かしてみた。
シュバッ!
暗がりの中から、短い前脚がものすごいスピードで飛び出してきて、羽をガッチリと捕らえた。そのまま隙間の奥へと力強く引っ張り込もうとする感触が、指先に伝わってくる。
「こらこら、おもちゃは持っていかないで」
高木が猫じゃらしを軽く引くと、ベルは不満そうに「にゃっ」と鳴き、渋々といった様子で羽を離した。どうやら、その狭くて暗い空間がよほど気に入っているらしい。無理に引っ張り出すのも可哀想に思え、高木は猫じゃらしを片付けた。
「じゃあ、留守番を頼んだよ」
隙間の奥の丸い瞳に向かって声をかけると、今度は「にゃーん」と柔らかい声が返ってきた。高木は自然と口角を緩め、立ち上がって玄関へと向かった。
高木が区役所に向かって歩き出していたちょうどその頃。
悪徳クラン『シルバーホーン』のリーダーである赤星は、新宿の雑居ビルを借り切った豪華な専用ラウンジのソファで、けたたましい怒声によって叩き起こされていた。
「代表! 起きてください、ヤバいです! ネットがとんでもないことになってます!」
血相を変えた若い部下が、赤星の顔の前にタブレット端末を突きつけてきた。
「あぁ……? 朝っぱらから騒ぐんじゃねえよ……」
昨夜の酒が残り、ズキズキと痛む頭を押さえながら、赤星は不機嫌にタブレットの画面に目をやった。
そこに表示されていたのは、動画プラットフォーム『Dチューブ』の再生画面だった。
タイトルには『環境保護の裏側! 悪徳クランの利権独占を完全スクープ!』というセンセーショナルな文字が躍っている。公開からまだ数十分しか経っていないにもかかわらず、再生数はすでに数十万を超え、リアルタイムのコメントが滝のように画面の横を流れていた。
『へえ、第4階層の東エリアって、そんなに儲かるんですか?』
動画から流れてきた女の甘い声に、赤星の酔いは一瞬で吹き飛んだ。
画面の中には、昨夜、会員制のラウンジで自分が口説いていたフリーライターの今井素子と、それに鼻の下を伸ばして饒舌に語る自分自身の姿がはっきりと映し出されていた。
『ちょっとした環境保護団体に寄付金と日当を弾んでやってるんだよ』
『あそこで座り込みをさせるのさ。そうすりゃギルドの連中も面倒くさがって手を出さねえし、一般の冒険者も近寄らねえ。その間に俺たちが魔石を根こそぎいただくって寸法さ』
隠し撮りされた映像の中で、赤星は自らの口で、環境保護団体をダミーに使ったエリア独占の手口をペラペラと自白していた。顔にモザイクすらかかっていない。
さらに映像は、赤星が自慢げに見せびらかしたスマートフォンの画面にズームインし、NPO法人の代表口座へ裏金を振り込んでいるネットバンキングの履歴まで、はっきりと世間に晒し上げていた。
コメント欄には『こいつらギルドから追放しろ』『脱税もやってそう』といった辛辣な言葉が次々と書き込まれている。
「……は? な、なんだこれ。ふざけんな!」
赤星は弾かれたように起き上がり、タブレットを床に叩きつけた。
「代表、どうします!? SNSで俺たちのクラン名も、代表の本名も特定されて拡散されてます! 今すぐ何とかしないとマズいですよ!」
「落ち着け! たかが動画1本だろ!」
赤星は怒号を上げ、部下を威圧した。
「ネットの連中が騒いだからなんだってんだ! 俺はこれまで、ギルドの理事連中にもたっぷりと袖の下を握らせてきたんだ。あいつらを丸め込めば、もみ消すことくらいどうとでもなる!」
赤星は自分のスマートフォンをひったくり、懇意にしているギルド上層部の連絡先を次々とタップした。
しかし、何度かけても電子音声が流れるか、留守番電話に接続されるだけだった。
「チッ、どいつもこいつも逃げ足の早いジジイどもめ……!」
赤星が舌打ちをしたその時、スマートフォンの画面が切り替わり、非通知の着信が表示された。
ギルドの関係者からの折り返しかと思い、赤星は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし! 先生ですか! 例の動画の件ですが、あれは悪質な捏造で……」
『シルバーホーン代表、赤星様ですね』
電話の向こうから聞こえてきたのは、初老の理事のしゃがれ声ではない。無機質で、一切の弁解を許さない冷徹な響きを持った若い女の声だった。
「……誰だ、お前は」
『日本冒険者ギルド機構、法務部コンプライアンス管理室長の大野です』
その名乗りに、赤星の背筋を嫌な汗が伝った。ギルドの中で最も厄介で、融通が利かないことで有名な法務のエリート弁護士だ。
「お、大野室長……。ちょうどいい、あの動画のことだがな! あれは俺たちを陥れるためのフェイクだ! ギルドの方からも、運営に直ちに削除要請を……」
『映像および音声の解析はすでに完了しております。捏造の事実は確認されませんでした。さらに、あなたのスマートフォンに表示されていた送金履歴と、当該団体の不自然な活動記録も完全に一致しています』
恵里の言葉は、一切の弁解を切り捨てる刃のように鋭かった。
『特定のエリアを不当に独占し、他の冒険者の正当な活動を妨害した行為、ならびに裏金操作によるギルドの著しい信用失墜。これらはコンプライアンス規約に対する重大な違反です』
「待て、話を聞け! 俺は理事の先生方とも話がついてて……」
『ギルド上層部の総意としてお伝えします。本日午前8時00分を以て、クラン『シルバーホーン』の所属メンバー全員に対し、冒険者ライセンスの無期限停止、およびギルドからの除名処分を執行いたしました』
赤星は息を呑んだ。
除名処分。それは冒険者としての社会的な死を意味する。
『対象者のギルドシステムへのアクセス権限は、ただ今すべて遮断されました。以降、魔石の換金およびダンジョンへの入区は一切認められません。通達は以上です』
プツリ、と通話が一方的に切られる。
赤星が震える手で魔石換金用のアカウントアプリを開こうとすると、画面には『このライセンスは現在凍結されています』というエラーメッセージが表示されるだけだった。
「クソッ……! クソがぁッ!!」
赤星はスマートフォンを壁に投げつけ、頭を抱えた。
「代表! 換金システムに入れません! これじゃ昨日持ち帰った魔石も全部ゴミ同然です!」
「わかってる! うるせえ!」
赤星はデスクに駆け寄り、ノートパソコンを乱暴に立ち上げた。
ギルドを追放されれば、もう国内で冒険者としては生きていけない。だが、これまでに稼いで裏口座に貯め込んだ莫大な資金はある。それを海外の口座に移し、ほとぼりが冷めるまで高飛びすればいい。金さえあれば、海外でいくらでもやり直せる。
赤星はネットバンキングの画面を開き、急いでIDとパスワードを叩き込んだ。
しかし、残高照会の画面に表示されたのは、予想外の文字列だった。
『この口座は現在、お取り扱いできません。お近くの窓口へお問い合わせください』
「……は?」
メインバンクだけではない。サブで使っていたネット銀行も、資産を分散させていた証券口座も、すべてログインが弾かれるか、取引停止のステータスになっている。
「どういうことだ……なんで俺の口座が……!」
午前8時00分。
バキィッ! というすさまじい破砕音と共に、ラウンジの分厚いエントランスドアが外側から乱暴に蹴り破られた。
「な、なんだ!?」
土足のまま踏み込んできたのは、揃いの黒いウィンドブレーカーを着た集団だった。彼らは無駄口を一切叩かず、瞬く間にラウンジの出口を封鎖し、赤星の部下たちを次々と床に押さえ込んでいく。
「動かないで! 国税局です!」
怒号が飛び交う中、赤星はノートパソコンを抱え込み、裏口へ続く廊下へと駆け出そうとした。
しかし、その足はピタリと止められた。
廊下の真ん中に、一人の女性が静かに立ち塞がっていたのだ。
鋭い視線を放つ、新宿税務署の宮本マリだった。
彼女は手にしたファイルを赤星の胸元へ突きつけ、有無を言わさぬ声で告げた。
「東京地方裁判所の令状に基づく強制調査よ。……動画でのご丁寧な自白、助かったわ」
「こ、国税だと……? ち、違う! あれは冗談で……」
「週末のうちに裏付けはすべて取らせてもらったの。海外口座を経由したマネーロンダリングの証拠もね」
赤星の喉がヒュッと鳴った。
「口座……まさか、さっきの……!」
「ええ。あなたの名義、およびクランに関わるすべての口座は、今朝一番で凍結済みよ」
赤星の足から、スッと力が抜けた。
動画の炎上。ギルドの除名。口座の凍結。国税の突入。
ほんの数十分前まで、自分はダンジョンの利権を握る強者だったはずだ。それが今、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように、すべてが消え失せていく。
「嘘だろ……」
赤星は床にへたり込み、画面が暗転したノートパソコンを見つめたままうわ言のように呟いた。
マリは抵抗する気力すら失った赤星を見下ろし、後ろに控えていた部下たちに短く指示を出した。
「捜索開始。裏帳簿と金庫の現金をすべて押さえなさい」
黒いウィンドブレーカーの集団が、赤星が築き上げた豪華なラウンジの金庫をこじ開け、無機質な手際で現金を回収していく。書類が段ボールに詰められ、高価な調度品に赤い差し押さえの札が次々と貼られていく。
赤星はただ焦点の定まらない目で、自らの居場所が事務的に解体されていく光景を、床に座り込んだまま呆然と眺め続けていた。




