第18話 コーレーグースと完璧な包囲網
月曜日の朝5時半。
1LDKのマンションのキッチンに、一番出汁の優しい香りが満ちていた。
高木はコンロの前に立ち、小鍋の中で踊る鰹節を細かな網じゃくしで静かにすくい上げる。濁りのない黄金色の出汁が引けたことを確認し、火を止めた。
今日からまた1週間が始まる。そして今日は、悪徳クラン『シルバーホーン』と環境保護団体の癒着を断ち切るための、大規模な共同作戦の決行日だ。
脳と体に最適なエネルギーを補給するため、高木は手際よく朝食の準備を進めていく。
タッパーに残っていた自家製の昆布の佃煮と、ほぐした焼き鮭。それらを具材にして手早く白米を三角形に結び、香ばしい有明海産の焼き海苔を巻いて極上のお握りを2つ完成させる。前日と同じメニューとはいえ、朝のエネルギー補給としては申し分ない。
付け合わせは、実家から送られてきた酸味の強い梅干しと、よく漬かった市販のキムチ。週末に作り置きしておいたタコと胡瓜の甘酢和えは、一晩冷蔵庫で寝かせたことで酸味の角が取れ、タコの旨味がよりまろやかに馴染んでいた。
そして最後に、先ほど引いた熱々の一番出汁を小鉢に注ぎ、たっぷりの生もずくを落とす。味付けは少量の塩と薄口醤油のみ。
そこに、戸棚から取り出した小さなガラス瓶――沖縄特産の『コーレーグース』を数滴、吸い物の中に垂らした。
熱によって泡盛の芳醇な香りがふわりと立ち昇り、島唐辛子の刺激的な辛味が磯の香りと完璧に調和する。
ダイニングテーブルに和定食を並べると、足元で「にゃぁ」と短い鳴き声がした。
見下ろすと、マンチカンの子猫のベルが、自分の餌皿の前でお座りをしてこちらを見上げている。高木が計量したキャットフードを器に注いでやると、ベルは短い尻尾を揺らしてカリカリと音を立てて食べ始めた。
「いただきます」
高木は椅子に腰を下ろし、もずくの吸い物をすする。
コーレーグースのピリッとした辛味と深いコクが、寝起きの胃を力強く刺激し、視界をクリアにしていく。鮭と昆布のお握りを頬張り、甘酢和えの歯ごたえを楽しみながら、高木は前日に純喫茶で行われた「作戦会議」のやり取りを頭の中で反芻していた。
★★★★★★★★★★★
時計の針を前日の日曜日の午後、新宿の純喫茶の奥のボックス席へと戻す。
フリーライターの今井素子が持ち込んだ小型カメラの映像には、悪徳クラン『シルバーホーン』の幹部が、環境保護団体をダミーにして特定のエリアを独占し、裏金を流しているという自白と、決定的な送金記録が残されていた。
この物証を元に、高木、安藤まひる、素子、そして連絡を受けて駆けつけた新宿税務署の宮本マリと、ギルド法務部の大野恵里の5人がテーブルを囲んでいた。
「彼らのダミー会社は、B国を経由したペーパーカンパニーね」
映像を確認し終えたマリが、アイスティーのグラスを指先で弾きながら鋭い笑みを浮かべた。
「マネーロンダリングの典型的なスキームよ。この送金記録の口座情報があれば、一瞬で全容を洗い出せるわ」
「月曜の朝一番で、全口座の凍結と強制調査をお願いできるかな」
高木が確認するように問うと、マリは自信ありげに頷いた。
「任せて。週末のうちに裁判所を叩き起こして令状を取っておくわ。月曜の朝8時ジャストに、メインバンクの凍結と同時にアジトに踏み込む」
「ギルド側はどうですか、大野室長」
高木が視線を移すと、恵里はタブレット端末から顔を上げた。
「映像での自白と裏金の送金記録。これだけ揃っていれば、コンプライアンス規約違反で彼らのライセンスを無期限停止にするには十分です。ただ、相手は界隈でも影響力のある大手クランです。ギルドの上層部や懇意にしている政治家に泣きついて、圧力をかけてくる可能性は否定できません」
「だったら、その隙を与えなきゃいいのよ」
赤い唇を歪め、素子がテーブルの上に身を乗り出してきた。
「月曜の午前7時50分。通勤時間帯で一番ネットに人が集まるタイミングで、この証拠動画を私のチャンネルでプレミア公開してあげるわ。タイトルは『環境保護の裏側! 悪徳クランの利権独占を完全スクープ!』。世論を一気に大炎上させて、お偉いさんたちが誰も彼らを庇えなくなる空気を作ってやるのよ」
「なるほど」
恵里が眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「炎上で外堀が完全に埋まった直後の8時ちょうど。そこで私が、対象のクランメンバー全員にライセンスの停止処分を通達します。これで彼らのダンジョンへの入区権限、および魔石の換金システムへのアクセスは、物理的かつ合法的にブロックされる」
「そして、パニックになって逃げようとした連中の目の前で、私が国税の精鋭を引き連れてドアを蹴り破るってわけね。最高じゃない」
マリが楽しそうに目を細め、ストローでアイスティーを啜った。
「区役所としては、ダミー団体である『緑の息吹』のNPO法人認可取り消し手続きと、架空の事業報告に基づく詐欺罪での刑事告発状を所轄の警察へ提出します。さらに、公園に残されたモンスターの死骸の不法投棄について、処理費用を含めた損害賠償をクランに対して請求します」
「…………」
隣でプロフェッショナルたちの流れるようなパス回しを聞いていたまひるは、圧倒されてただ目を白黒させていた。誰も声を荒げたり、武器を振り回したりしているわけではない。だが、テーブルの上で淡々と組み立てられていく計画は、対象の社会的・経済的な息の根を確実に止める、あまりにも容赦のないものだった。
(怒らせちゃいけない人たちが本気を出したら、こんなに恐ろしいことになるんだ……)
「各機関の権限を時間差なく同時に機能させれば、彼らに対応する時間は与えられません」
高木はコーヒーカップを静かにソーサーに戻し、作戦の開始を告げた。
「月曜日の朝を期して、動きましょう」
★★★★★★★★★★★
そして、月曜日。
午前7時50分。新宿区役所1階のダンジョン管理課のフロア。
始業前の静かな執務室で、自身のデスクのパソコンを立ち上げていたまひるのスマートフォンが、けたたましく通知音を鳴らした。
「主任! 今井さんの動画、公開されました!」
まひるが画面をタップし、興奮気味に声を上げる。
「同接数、あっという間に10万人を超えてます! コメント欄もものすごい勢いで流れてて……『環境保護団体がヤラセだったなんて最低だ』とか『シルバーホーンってあの有名なクランかよ』とか、ネット上は大炎上状態です!」
「彼女のメディアコントロール能力は本物だね」
高木は自身のパソコンのモニターで業務システムにログインしながら、画面の隅で流れるニュースフィードに視線を向けた。
世論に火がつき、悪徳クランの不正が白日の下に晒された。これで彼らを擁護しようと動く権力者は誰もいなくなる。
午前8時00分。
高木のスマートフォンの画面に、ほぼ同時に2件のメッセージが着信した。
1件目は、大野恵里から。
『対象クランのライセンス凍結および、ギルドシステムへのアクセス遮断を完了しました。査問委員会の招集手配も済んでいます』
2件目は、宮本マリから。
『全口座の凍結確認。これより対象の拠点に突入するわ』
高木はメッセージを確認し、小さく息を吐いた。
炎上に気づいて資金を引き出そうとしても口座は凍結されており、魔石を換金しようにもライセンスは剥奪されている。逃走の準備を整える間もなく、目の前のドアを国税の部隊が突破してくるはずだ。
「安藤さん」
高木は引き出しから分厚い決裁用のファイルを取り出し、デスクの上に置いた。
「彼らが不正に受給した助成金の返還請求と、NPO法人の告発手続きを進める。関連書類を法務課と警察の窓口へ回す準備をしてくれるかな」
「はいっ、すぐやります!」
まひるは弾かれたように立ち上がり、プリントアウトされた書類の束を抱えてフロアを走り出した。
午前8時45分。
ダンジョン管理課の窓口のシャッターが、重々しい音を立てて上がり始めた。
区役所の外では、今日も一攫千金を夢見る冒険者たちや、日常のトラブルを抱えた区民たちが列を作っている。
高木は乱れの1つもないスーツ姿で、いつものように3番窓口のカウンターに座った。
手元には分厚い六法全書と、朱肉の染み込んだハンコ。
「お待たせいたしました。本日はどのようなご用件でしょうか」
高木は、目の前に進み出てきた来庁者に向かって、いつもと変わらぬ落ち着いた声で応対を始めた。




