第17話 ハニートラップと三位一体の包囲網
休日の静かな朝。
高木の1LDKのマンションのキッチンでは、小さな攻防戦が繰り広げられていた。
「ベル。少しだけじっとしていて」
高木はキッチンのカウンターにデジタルスケールを置き、その上にプラスチックのボウルを乗せて風袋引きのボタンを押した。表示が「0グラム」になったのを確認し、足元でじゃれついていたマンチカンの子猫、ベルを両手でそっと抱き上げる。
そのままボウルの中に入れようとしたのだが、ベルは不思議そうに短い前脚をボウルの縁に掛け、中に入ろうとしない。高木が指先でお尻を軽く押しても、にゃあと鳴いて器用に身をよじり、するりと床へ逃げ出してしまう。
成長記録として週に1度の体重測定を行いたいのだが、好奇心旺盛な子猫をじっとさせるのは、なかなか骨の折れる作業だ。
高木はボウルの前でしゃがみ込み、戸棚から猫用のペースト状のおやつを取り出した。封を少しだけ切ると、チキンとマグロの香ばしい匂いが漂う。
その匂いに気づいたベルが、短い尻尾をピンと立ててトコトコと歩み寄ってきた。高木がおやつを持った手をボウルの中へゆっくりと誘導すると、ベルは釣られるようにボウルの中へすっぽりと収まり、夢中でおやつを舐め始めた。
スケールのデジタル表示がパラパラと動き、やがて『1250』という数字でピタリと止まる。
「1.25キログラムか。順調に育っているね」
高木は目元を和ませ、おやつを舐め終えて口の周りをペロペロと舐めているベルの柔らかな頭を、大きな指先で優しく撫でた。健康的な毛並みの感触が指から伝わる。
その穏やかな時間を遮るように、リビングのテーブルに置いていたスマートフォンが短く振動した。
画面に表示されたのは、部下の安藤まひるからのメッセージだった。
『主任! 今井さんと一緒に、決定的な証拠を取ってきました! 今からそっちに行きます!』
高木はわずかに眉をひそめた。
フリーライターの今井素子が窓口に現れ、環境保護団体『緑の息吹』の背後にいるスポンサーの存在を仄めかしてから数日。彼女が独自のルートで証拠集めに動いていることは想定していたが、なぜそこに区役所の職員であるまひるが同行しているのか。
高木はベルをケージに戻し、急いで外出の準備を整えた。
★★★★★★★★★★★
数十分後。新宿区役所の近くにある、落ち着いた雰囲気の純喫茶。
高木が指定された奥のボックス席に向かうと、そこにはボルドー色のタイトなワンピースを着た素子と、なぜか少しサイズの合っていない黒服を着たまひるが並んで座っていた。
まひるは高木の顔を見るなり、ビクッと肩を揺らして気まずそうに視線を逸らした。
「おはよう、筋肉のお役人さん。休日の朝から呼び立てて悪かったわね」
素子は悪びれる様子もなく、アイスコーヒーのストローを赤い唇で咥えながら微笑んだ。
「おはようございます。それで……安藤さん。なぜ君が、今井さんと行動を共にしているのかな」
高木が静かに問いかけると、まひるは縮こまりながら口を開いた。
「す、すみません。昨日の夜、今井さんから急に『ちょっとだけ護衛のアルバイトをしてくれない? 主任には内緒で』って呼び出されまして……。私も、あの環境保護団体を裏で操ってる奴らの正体がどうしても気になって」
「彼女の言う通りよ。私一人で男の懐に飛び込むのは、さすがにリスクが高いからね。腕の立つボディーガードが必要だったの。ほら、私ってか弱いジャーナリストだから」
素子はそう言いながら、ハンドバッグから1つのUSBメモリを取り出し、テーブルの上を滑らせて高木へと渡した。
「約束通り、スポンサー様の正体と、団体に裏金が流れてる証拠。バッチリ押さえてきたわよ」
高木はノートパソコンを開き、USBメモリを差し込んで中のファイルを確認した。
そこには、昨夜の日付が記録された1つの動画ファイルが収められていた。素子の胸元のブローチに仕込まれた小型カメラの映像だろう。薄暗く、高級感のある会員制ラウンジの個室が映し出されている。
『へえ、第4階層の東エリアって、そんなに儲かるんですか?』
映像の中で、素子の甘く持ち上げるような声が響く。
『ああ。でもあそこは今、俺たち『シルバーホーン』だけの専用狩場になっててね。他の連中は誰も寄り付かないのさ』
素子の隣に座り、ふんぞり返ってウイスキーのグラスを傾けているのは、派手なブランド物のスーツを着た男だった。顔には赤みが差し、素子の美貌と巧みな相槌によって完全に自尊心を満たされ、饒舌になっているのがわかる。
『えー、すごい! でも、ダンジョンってギルドの管理下ですよね? どうやって特定のエリアを独占してるんですか?』
素子の問いかけに、男はグラスの氷をカラカラと鳴らして笑った。
『簡単なことさ。ちょっとした『環境保護団体』に寄付金と日当を弾んでやってるんだよ』
『環境保護団体?』
『そう。あそこで『オークの自然環境を守れ』って座り込みをさせるのさ。そうすりゃギルドの連中も面倒くさがって手を出さねえし、一般の冒険者も近寄らねえ。その間に俺たちが魔石を根こそぎいただくって寸法さ』
得意げに語る男の言葉に、素子はさらに身を寄せる。
『ええっ、そんなことできるんですか? すごーい! さすがですね!』
『ほら、これがあの『緑の息吹』の代表に振り込んでる裏金の記録だ。俺が全部仕切ってやってるんだよ』
画面には、男が取り出したスマートフォンのネットバンキングの送金履歴がはっきりと映し出されていた。素子のカメラが、その口座名義と金額の数字をピンポイントで鮮明に捉えている。
これで男が自らの口で語った独占の手口と、裏金の送金記録という決定的な証拠が揃った。
『さあ、難しい話はこれくらいにしようぜ。この後、いいホテルを取ってあるんだ』
映像の中で、男が強引に素子の肩を抱き寄せようとする。
その瞬間、個室のドアが開く音がした。
『お客様、お時間です』
声の主は、ボーイの制服を着たまひるだった。手にはおしぼりを乗せたトレイを持っている。
『あぁ? 呼んでねえよ、失せろ!』
激昂した男が立ち上がり、まひるに向かって乱暴に右手を振り上げた。
しかし、まひるの動きは冷静だった。
男の腕の軌道を見極めるや否や、半歩身をかわしてその手首を両手で的確に捕縛する。そのまま自身の重心を低く落とし、男の腕を捻り上げながらテーブルの上へと顔面から抑え込んだ。
『痛ぇぇぇ!! 何しやがる!』
『ご指名ありがとうございました。行きましょう、今井さん』
『ありがと、筋肉のお嬢ちゃん。いい手際ね』
映像は、素子が笑いながら個室を立ち去る場面で終わっていた。
「……なるほど。状況はよくわかったよ」
高木はパソコンの画面を閉じ、小さく息を吐いてからまひるに向き直った。
「素晴らしい護衛だったよ。しかし、一歩間違えれば君の身が危なかった。相手が刃物を隠し持っていた可能性もある。次からは必ず事前に報告してほしい。君の身の安全が第一だからね」
「はい……気をつけます」
まひるがシュンと縮こまるのを見て、素子がテーブルに肘をついて身を乗り出した。
「で、センセイ。この特ダネで、どうやってあいつらを燃やすの? 区役所の窓口権限だけじゃ、冒険者のクランまでは直接手が出せないでしょ?」
高木の顔に、微かな緊張感が走った。
「ええ。特定のエリアを不当に私物化し、他の冒険者を排除する行為は、ギルドのコンプライアンス規約に対する重大な違反です。そして、彼らが環境保護団体に流していた裏金の原資や、その資金操作については、国税局による脱税の調査対象となります」
高木はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、2枚の名刺をテーブルの上に並べた。
新宿税務署の特別国税徴収官、宮本マリ。
冒険者ギルド法務部コンプライアンス管理室長、大野恵里。
高木はスマートフォンの画面を操作し、まずは宮本マリへ通話をかけた。
数回のコールの後、休日ののんびりとした声が返ってくる。
『はい、宮本です。あら、乾三くん。休日にお誘い?』
「少し大きめの仕事が入ったんだ。特定のエリアを不当占拠しているクランが、ダミー団体に裏金を流している証拠が手に入った。資金洗浄と巨額の脱税が絡んでいる可能性が高い」
『……面白そうね。今からどこに向かえばいい?』
「新宿の純喫茶だ。今からギルドの大野室長にも声を掛ける」
通話を切り、今度は大野恵里の番号をタップする。
『はい、大野です』
休日のためか、普段の隙のない声とは少し違う、微かな疲労が滲む声だった。
「休日に申し訳ない、大野室長。高木です」
『高木さん? 何か問題でも起きましたか』
「ギルドのコンプライアンスに関わる重大な規約違反の証拠が上がりました。クラン『シルバーホーン』について、お耳に入れたいことがありまして」
『シルバーホーン……』
恵里の声がピシャリと引き締まる。
『彼らのやり方には以前から苦情が上がっていましたが、尻尾が掴めなかったんです。証拠というのは?』
「現在、手元に音声と映像データがあります。国税局の担当者も交えて、これから打ち合わせを行いたいのですが、ご足労いただけますか」
『わかりました。すぐに向かいます』
高木がスマートフォンをテーブルに置くと、素子がストローで氷をかき混ぜながらニヤリと笑った。
「さすが、手回しが早いわね。国税とギルドのトップを引きずり出すなんて、ただの区役所の窓口担当にはできない芸当よ」
「私はただ、それぞれの管轄で対応すべき事案を共有しているだけですよ。行政として、適正な手続きを進めるための準備です」
「そういうお役所言葉、嫌いじゃないわ」
しばらくして、喫茶店のドアが開き、私服姿の宮本マリと大野恵里が相次いで姿を見せた。
マリはラフなカットソーとジーンズ姿で、恵里は普段のタイトスカートとは違う、少しリラックスしたパンツスタイルだった。しかし、二人の目に宿るプロフェッショナルとしての鋭い光は、平日のそれと何ら変わりはない。
「遅くなってごめんなさい。で、どんな大物なの?」
マリが席につくなり、高木は先ほどの映像データを二人に提示した。
映像を確認し終えたマリと恵里の表情が、それぞれに引き締まっていく。
「……なるほど。環境保護団体をダミーにして、特定のエリアの魔石を独占。その利益を裏金として団体に還流させていたわけね。典型的な脱税のスキームだわ。この送金記録の口座から、全容を洗い出せる」
マリが指を鳴らして笑みを浮かべる。
「ギルドの規約にも明確に違反しています。他の冒険者の正当な活動を妨害し、不当な利益を得る行為。これだけの物証があれば、彼らのライセンスを即時凍結し、査問委員会にかけることが可能です」
恵里も冷静に分析する。
「問題は、どのタイミングで動くかですね」
高木はコーヒーカップを手に取り、静かに語り始めた。
「彼らが証拠を隠滅したり、海外へ資金を逃がしたりする前に、一斉に網をかける必要があります。大野室長、ギルドの権限で彼らのダンジョンへの立ち入りを禁止できますか」
「ええ、即日対応可能です」
「宮本さんは、裏口座の凍結と強制調査の準備を」
「任せて。週明けには令状を取るわ」
「そして今井さんには、この映像を適切なタイミングで世間に公開し、彼らが行政やギルドに圧力をかけられないよう、世論を味方につけてもらいたい」
素子はウインクをして見せた。
「得意分野よ。大炎上させてあげる」
「行政、国税、ギルド、そしてメディア。これらが連携すれば、彼らを逃がさない完璧な包囲網が完成する」
高木は三人の女性たちと、隣で真剣な表情を浮かべるまひるを交互に見渡した。
「月曜日の朝を期して、一斉に動きましょう」




