第16話 ハニートラップと情報公開条例
朝日が差し込むリビングの床で、小さな毛玉がコロコロと転がっていた。
ベルだ。
出勤の準備を整え、ソファに腰掛けて革靴の紐を結ぼうとする高木の足元で、ベルは短い前脚を一生懸命に伸ばし、揺れる靴紐の先端を捕まえようとじゃれついている。
「にゃっ、にゃっ」
小さな口を開けて鳴きながら、床を転げ回る姿は愛らしさの塊だった。ようやく靴紐の端を両手で挟み込んだベルは、それを自分の獲物だと主張するように、小さな歯でハムハムと噛み始めた。しかし、まだ乳歯が生え揃っていないため、靴紐には何のダメージもない。
「こら。それは食べ物じゃないよ」
高木が大きな指先でベルの柔らかなお腹をそっと撫でると、ベルは「にゃーん」と甘えた声を出し、靴紐を離して高木の指にスリスリと頭を擦り付けてきた。
そのままゴロンと仰向けになり、無防備なお腹を全開にして「もっと撫でて」とアピールする。高木の分厚い手のひらが優しくお腹をさすると、ベルは気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
その無邪気な仕草に、高木は自然と口角を緩め、ベルの頭をもう一度撫でてから立ち上がった。
ジャケットを羽織る高木を、ベルは短い脚でトコトコと玄関までついて見送る。「いってらっしゃい」と言うかのように小さく鳴くその声に背中を押され、高木は静かにドアを閉めて仕事へと向かった。
★★★★★★★★★★★
午前9時30分。新宿区役所1階のダンジョン管理課。
昨日までロビーを占拠していた環境保護団体『緑の息吹』の姿はもうない。彼らが残していったゴミや汚れも清掃事務所の職員によって綺麗に片付けられ、庁舎内には本来の平穏な空気が戻っていた。
高木が詐欺罪での刑事告発をちらつかせたことで、団体は逃げるように解散し、そのまま活動を停止したらしい。マスコミも後追いすることなく、事態は波風を立てずに収束していた。
「主任、昨日は本当にお疲れ様でした。ロビーが静かなのって、こんなに快適なんですね」
まひるが背伸びをしながら、安堵の声を漏らす。
「ああ。来庁者の導線が確保されて何よりだよ。これで通常の業務に集中できる」
高木が手元の書類に視線を落とした、その時だった。
カツン、カツンと、リズムの良いハイヒールの足音がフロアに響いてきた。
「すみません。こちらの窓口でよろしいのかしら?」
甘く、少し気怠げな女の声。
高木とまひるが顔を上げると、3番窓口のアクリル板の向こうに一人の女性が立っていた。
思わず目を引くような、エキゾチックな美貌だった。
緩く巻かれた長い髪。目鼻立ちがはっきりとした顔立ち。そして何より、体にぴったりとフィットしたボルドー色のタイトワンピースが、彼女の豊満でグラマラスなプロポーションを隠すことなく主張している。胸元は深く開き、動くたびにふわりと高級な香水の匂いが漂ってきた。
「はい。ダンジョン管理課ですが、どのようなご用件でしょうか」
高木が立ち上がり、事務的なトーンで応じる。
まひるは女性の派手な出で立ちと、過剰に放たれている「いい女」のオーラに、本能的な警戒心を抱いて眉をひそめた。
「あなたが、高木主任ね」
女性はアクリル板の隙間から顔を近づけ、高木を上目遣いで見つめた。
「私、フリーのライターをしている今井素子っていうの。ちょっとお話を聞きたくて来たんだけど」
「取材のお申し込みでしたら、総務課の広報担当窓口を通していただけますか。当課では直接の取材対応は行っておりませんので」
高木が定型句で断ろうとすると、素子はふふっと艶やかに笑った。
「固いこと言わないでよ。堅苦しいインタビューをしたいわけじゃないの。昨日の朝、ここで騒いでた環境保護団体、いたでしょ? 彼ら、急に逃げるようにいなくなったみたいだけど……区役所の方から、何か『強い指導』でも入ったんじゃないかって噂になってて」
素子はさらに身を乗り出し、豊かな胸の谷間をわざとアクリル板の隙間に押し付けるような体勢をとった。
「ねえ、高木さん。あなたがあいつらを追い払ったんでしょ? どんな手を使ったのか、私にだけこっそり教えてくれない? 内緒にしておくから、ね?」
甘い吐息がかかりそうな距離。普通の男なら、その美貌と色香に惑わされて、つい自慢話の1つでも漏らしてしまうかもしれない。
まひるが「ちょっと、距離が近すぎますよ」と注意しようと立ち上がりかけたが、高木は手でそれを制した。
高木の表情は、岩のようにピクリとも動かなかった。
「特定の団体に対する行政の対応や、指導内容の個別具体的な詳細については、地方公務員法第34条が定める守秘義務により、お答えすることはできません」
「えー、冷たい。私、あなたのこと結構気に入っちゃったかも。ねえ、今日の夜、どこかで飲みに行かない? 美味しいお店知ってるの。そこでゆっくりお話ししましょうよ」
素子は流し目をつかいながら、声のトーンをさらに一段階甘くした。
しかし、高木の返答は氷のように無機質だった。
「お誘いは光栄ですが、業務に関する情報開示を求める利害関係者との不適切な会食は、公務員倫理規程に抵触します。お断りいたします」
「私はただのフリーのライターよ? あなたと利害関係なんてないじゃない」
「いいえ」
高木はスッと目を細め、素子の胸元、深く開いたワンピースの襟元に付けられた小さな飾りに視線を向けた。
「そのブローチの中央にある黒い点。小型カメラのレンズですね」
素子の表情が、ほんの一瞬だけ強張った。
「雑談を装って情報を引き出し、それを無断で録画・公開しようとする行為は、取材の域を超えています。公的な見解が必要であれば、新宿区情報公開条例に基づく『行政文書開示請求』の手続きをご案内します。第1号様式に必要事項を記入し、情報公開コーナーへ提出してください。審査の上、公開可能な文書であれば14日以内に開示決定の通知を出します」
淀みなく、一切の感情を交えずに法的な手続きの案内が告げられる。
数秒の沈黙の後。
素子は「はぁ」と短く、ひどくつまらなそうなため息をついた。
「……チッ。可愛げのない男」
先ほどまでの甘い声と上目遣いが嘘のように消え失せ、素子は本来の低い声で舌打ちをした。背筋を伸ばし、ブローチに手を当ててカメラのスイッチをカチリと切る。
「女の武器にやられてベラベラ喋るバカな役人なら、そのまま動画のネタにしてやろうと思ったのに。つまんないの」
「動画のネタ、ですか」
「そうよ。私、『素子のダンジョン・スキャンダル』っていうチャンネルをやってるの。知ってるでしょ?」
まひるがハッとして声を上げる。
「あ、あの登録者数数百万人の暴露系Dチューバー!? 悪徳冒険者の不祥事とか、クランの裏帳簿とかをすっぱ抜いて炎上させてる……」
「ご名答。権力者が燃えるのを見るのって、最高に楽しいからね」
素子は悪びれもせず、妖艶な笑みを浮かべた。
相手の懐に美貌を武器に入り込み、決定的な証拠を掴んで世間を煽る。それが彼女のやり方なのだろう。
「まあいいわ。あんたがただの堅物じゃないってことは分かった。お色気が通じないなら、ビジネスの話をしましょうか」
素子はアクリル板の前に両手をつき、今度は真剣な、ジャーナリストとしての鋭い目つきで高木を見た。
「ねえ、センセイ。昨日あんたが追い払った『緑の息吹』。あいつら、ただの助成金目当てのケチな詐欺集団だと思ってる?」
「……ほう」
高木はタイピングの手を止め、初めて素子の言葉に興味を示したように視線を向けた。
「あいつら、確かに助成金はパクってたけど、それだけじゃないわ。あの座り込みの規模、考えてもみてよ。テントやら横断幕やら、人を集める日当も含めて、結構な金がかかってるはずでしょ」
「そうですね。彼ら単独の資金力では少し不自然な規模でした」
「でしょ? あいつらのバックには、資金を出してる『スポンサー』がいるのよ」
素子は声を落とし、周囲を警戒するように見回してから続けた。
「そのスポンサーの狙いは環境保護なんかじゃないわ。特定のエリアのモンスターを愛護するって騒がせて、他の冒険者の開発や探索を妨害させる。そうやって競争相手を排除して、裏でダンジョンの利権を独占しようとしてる連中がいるのよ」
高木とまひるの顔に、わずかな緊張が走った。
「つまり、環境保護団体に裏金を流して操り、ダンジョンの特定のエリアを私物化しようとしている組織がある、と」
「ええ。昨日の代表が血相変えて逃げたのも、助成金の不正がバレたからだけじゃないわ。警察沙汰になってスポンサーの存在まで調べられたら、裏の連中に消されかねないって焦ったからよ」
「……なるほど。筋は通りますね」
高木は顎に手を当てた。
「そのスポンサーというのは、冒険者のクラン、あるいはそれに類する組織といったところでしょうか」
「さすが、察しがいいわね」
素子はニヤリと口角を上げた。
「でも、ここから先はタダじゃないわ。私にもジャーナリストとしての『特ダネ』が必要なの。私がそのクランの裏金の証拠を掴んできたら、センセイ、行政の権限でそいつらを派手に追い詰めてくれる?」
「行政は特定の個人の特ダネのために動くことはありません。ですが」
高木は手元の資料を揃えてファイルに収め、まっすぐに素子を見据えた。
「ダンジョンの秩序を乱し、違法な資金操作を行っている組織があるのなら、法令に基づき厳正に対処するのが我々の仕事です」
「……フフッ。優等生な回答だけど、まあ合格点かな。ハニートラップより、こっちのルートの方が面白そうね」
素子は満足げに頷くと、ハンドバッグから名刺を1枚取り出し、トレイの上に滑らせた。
「じゃあ、証拠が揃ったら連絡するわ。楽しみにしててね、筋肉のお役人さん」
素子はそう言い残し、軽やかなステップを残して区役所の自動ドアから颯爽と出ていった。
「……嵐みたいな人でしたね」
まひるが呆然としながら呟く。
「でも、あの人の言うことが本当なら、昨日の団体はただのトカゲの尻尾だったってことですか?」
「その可能性は高いね。裏で絵を描いている連中がいるなら、放置しておくわけにはいかない」
高木は素子から受け取った名刺を静かに引き出しにしまい、キーボードの上に両手を置いた。
「彼女がどんな手札を持ってくるにせよ、我々は我々の仕事をこなすだけだ」
そう告げると、高木は視線をモニターに戻し、止まっていた事務作業を再開した。




