第15話 オークのりんごと事業報告書
朝の静けさが漂う1LDKのマンション。
キッチンに立つ高木は、手動のミルで豆を挽き、ハンドドリップで丁寧に淹れたブラックコーヒーの豊かな香りを楽しみながら、部屋の隅に置かれたキャットタワーへと視線を向けた。
タワーの中段に取り付けられた布製のハンモックの中で、数日前に迎え入れたばかりのマンチカンの子猫、ベルが丸くなって眠っている。
淡いクリーム色の被毛が、窓から差し込む柔らかな朝の光を浴びてふんわりと輝いていた。短い前脚を顔の前にクロスさせるようにして身を丸め、ピンク色の小さな鼻をヒクヒクと規則的に動かしている。時折、ミルクを飲む夢でも見ているのか、小さな口をモニャモニャと動かして「にゃむ……」と微かな寝言を漏らした。
柔らかそうなお腹が、穏やかな呼吸に合わせて小さく上下している。
高木は熱いマグカップを片手にしたまま、その無防備で愛らしい寝姿をただ静かに見つめ、コーヒーをゆっくりと一口飲んだ。
深い苦味が喉の奥を通っていくのを確認すると、高木は音を立てないようにカップをシンクに置き、スーツのジャケットを羽織る。そして、ベルの安眠を妨げないように、そっと玄関のドアを閉めて仕事へと向かった。
★★★★★★★★★★★
午前8時30分。新宿区役所の1階ロビー。
出勤してきた高木の目に飛び込んできたのは、前日のマスコミが入り乱れていた騒々しさとは打って変わった、ひどく淀んだ空気だった。
環境保護団体『緑の息吹』のメンバーたちは、まだロビーの隅に居座っていた。しかし、高木が前日に消防法に基づく撤去要請を行ったことで、彼らの拠点であった巨大なテントや派手な横断幕はすでになく、冷たい床の上に直に敷かれたブルーシートの上で、数十人が車座になって力なく座り込んでいる。周囲には空になったコンビニ弁当の容器やペットボトルが散乱していた。
テレビ局のカメラマンやレポーターの姿はもうない。絵にならない地味な座り込みに見切りをつけ、早々に撤収してしまったのだ。マスコミという最大のアピール手段を失い、さらに固い床での寝泊まりを強いられたことで、メンバーの大半を占める日雇いのアルバイトたちらしい若者たちの顔には、隠しきれない疲労と不満が色濃く浮かんでいた。彼らは互いに会話を交わすこともなく、ただうつむいてスマートフォンを弄るか、焦点の合わない目で虚空を見つめている。
そんな停滞した空気の中、代表の初老の男だけが血走った目で苛立ちを募らせていた。
「おい! どうなってんだ! いつまで俺たちをこんな床に放置しておくつもりだ!」
男は通りかかった若手職員の胸倉を掴まんばかりの勢いで怒鳴り散らしていた。
「俺たちは正当な抗議活動をしてるんだぞ! 区長を出せ! すぐにダンジョンの管理体制を見直すって約束させろ!」
「そ、そう言われましても……私の一存では……」
「ふざけるな! 行政の怠慢を誤魔化す気か!」
男が激昂し、手に持っていた丸めた段ボール製のプラカードを振り上げ、若手職員に一歩踏み出した。
その瞬間、横からすっと入り込んだ人影が、男の前に立ちはだかった。
「そこまでです。暴力行為に発展するようなら、今度こそ警察を呼びますよ」
静かで、しかし腹の底に響くような低い声。高木だった。
立ちはだかる厚い鋼板のような胸板に阻まれ、男はハッとしてプラカードを振り上げたまま動きを止めた。
「しゅ、主任! おはようございます」
高木の背後から、様子を見に来ていたまひるが小走りで駆け寄ってくる。彼女も男の横暴な態度に苛立っているようで、拳をぎゅっと握りしめていた。
「朝からずっとこんな調子なんです。周りの皆さんの迷惑になってますし、もう威力業務妨害でつまみ出してもいいんじゃないですか?」
「手を出したら相手の思う壺だからね。冷静に対応するんだよ」
高木はまひるを軽く手で制し、代表の男に向き直った。
「マスコミの方々もすでにお帰りになり、皆様も随分とお疲れのようです。区民の皆様の通行の妨げにもなっておりますし、そろそろお引き取りいただけませんか」
「帰るわけにはいかない! 俺たちの要求が通るまではな!」
男は高木を見上げながらも、必死に虚勢を張って怒鳴り返した。
「オークにも人権はある! あいつらは知性を持った隣人だ! それを金のために虐殺する冒険者と、それを容認する区役所を、俺たちは絶対に許さない!」
「……なるほど。オークが知性を持った隣人、ですか」
高木はネクタイを少しだけ緩めると、小脇に抱えていたファイルからタブレット端末を取り出した。
「皆様が主張の根拠としてSNSにアップロードされている、『オークの平和な生態調査』というこの動画について、少々確認したいことがありまして」
高木はタブレットの画面を操作し、男の目の前に突きつけた。
画面の中で再生されたのは、薄暗いダンジョンの岩場で、数匹のオークが大人しく座り込み、何かをモチャモチャと咀嚼している映像だった。
「ほら見ろ! これが証拠だ! 奴らは俺たちが近づいても襲ってこない!」
男が声を上げる。
高木はタブレットの画面を指で弾き、オークの足元の映像を拡大した。
「この動画は第3階層の北エリアで撮影されたものですね。映像の中でオークたちが食べている赤い果実……りんごのようですが」
「だ、だからなんだ!」
「ダンジョン内の第3階層までの植生データに、りんごの樹木は存在しません。彼らが自生していない果物を食べているということは、外部から持ち込んで与えたということになりますね」
男の顔が、ピクリとこわばった。
「ダンジョン内への地上の食物の持ち込みおよび意図的な給餌は、ダンジョン特別措置法で禁止されている違法行為です」
高木はタブレットの画面を切り替えながら言葉を続ける。
「生態系を乱すだけでなく、人間の食べ物の味を覚えたモンスターが、匂いにつられて冒険者を積極的に襲う原因になるからです」
「い、言いがかりだ! りんごなんて俺たちは知らない! 勝手に落ちていたんだ!」
「勝手に落ちていた、ですか」
高木は静かな声で返す。
「違法な給餌による生態系への影響については、この映像を環境省とギルドの調査部に提出して判断してもらいましょう」
高木はタブレットをしまい、今度は小脇に抱えていた分厚いファイルを開いた。
「それよりも、確認しなければならないことがあります。……『特定非営利活動法人 緑の息吹』。昨日、内閣府のNPO法人ポータルサイトで貴法人の登記情報を照会しました」
男は弾かれたように半歩後ずさりした。
「NPO法の第29条において、NPO法人は毎事業年度初めの3ヶ月以内に、事業報告書、財産目録、貸借対照表などを所轄庁に提出しなければならないと定められています。しかし、貴法人は過去3年間にわたり、これらの書類を一切提出していません」
「そ、それは……事務手続きが遅れているだけで……」
「正当な理由なく3年以上にわたって事業報告書の提出を怠ったNPO法人は、設立の認証を取り消される対象となります。すなわち、法人の強制解散です」
男は口をパクパクと動かしたが、声にならなかった。
「さらに、東京都のNPO活動支援助成金の交付記録を確認させていただきました」
高木は手元の資料のページをめくる。
「貴法人は『ダンジョン環境保全のための定期パトロール事業』という名目で、年間数百万円の助成金を受け取っています。しかし、ギルドの入区記録データベースと照合した結果、貴法人のメンバーがダンジョンに入った記録は、先ほどの動画を撮影した半年前の1回しか存在しません」
男の顔が、土気色に染まった。
震える手から段ボールのプラカードが力なく滑り落ちる。
「活動実態がないにもかかわらず、架空のパトロール記録を捏造して助成金を受給していたとすれば、刑法第246条の詐欺罪に該当します。東京都の監査が入り、不正受給が認定されれば、受給額の全額返還と高額な延滞金が課せられます。悪質と判断されれば、刑事告発される可能性も高い」
高木はファイルを閉じ、男を静かに見据えた。
「ダンジョンの生態系を乱す違法な餌付け。NPO法違反による法人格の取り消し。そして、助成金の不正受給による刑事告発。……これ以上、このロビーで業務を妨害し続けるのであれば、私は庁舎の管理者として、これらすべての証拠を東京都、環境省、そして所轄の警察署へ直ちに提出します」
高木は小さく息を吐き、告げた。
「どうされますか。まだ、抗議を続けますか?」
男はガタガタと震え出した。
「て、撤収だ……! 今すぐ荷物をまとめろ! ここから出るぞ!」
男は裏返った声でメンバーたちに指示を出すと、散乱したゴミを片付けるのもそこそこに、足早にロビーの出口へと向かっていった。雇われていたアルバイトたちも、面倒ごとにこれ以上巻き込まれるのを恐れて我先にと逃げ出していく。
ものの数分で、ロビーにはいつもの広々とした空間が戻ってきた。
「……主任、すごいです! あんな助成金の不正まで調べてたなんて!」
一部始終を見ていたまひるが駆け寄ってきた。
「昨日、彼らが床で疲弊するのを待つ間にね。行政のデータベースを少し照合すれば、活動実態がないことくらいすぐに裏が取れるからね」
高木は乱れたネクタイを直し、答えた。
「た、高木くん! よかった、平和的に解決してくれて!」
奥から鈴木課長がハンカチで額の汗を拭いながら小走りでやってくる。
「いやぁ、本当に助かったよ。これで今日も無事に窓口を開けられるね」
「ええ。清掃事務所に連絡して、ロビーの掃除をお願いしておいてください。では、時間ですので業務に戻りましょう」
午前8時45分。
ダンジョン管理課の窓口のシャッターが上がり、いつものように冒険者や市民が整理券を求めてやってくる。
高木は自席に座り、パソコンのモニターを立ち上げた。
「番号札1番でお待ちのお客様、3番窓口へどうぞ」
自動音声のアナウンスが響く中、高木は分厚い六法全書を開き、目の前の書類の束にハンコを押し始めた。




