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新宿区役所ダンジョン管理課 ~魔法ゼロの筋肉公務員は、六法全書と税法で悪質冒険者を合法ざまぁします~  作者: 伊達ジン


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第14話 防炎ラベルとモルトウイスキー

 新宿区役所1階の広大なロビーは、朝から騒然とした空気に包まれていた。

 環境保護団体『緑の息吹』のメンバー数十人が、一般の通行の邪魔になる位置に巨大なビニールシートを敷き詰め、その上に座り込んで段ボール製のプラカードを頭上に掲げている。彼らの中心には布製のキャンプ用テントが堂々と設営され、そこを前線基地にするように、代表らしき初老の男が拡声器を握って声を張り上げていた。


「我々は、区役所の野蛮なダンジョン管理体制に強く抗議する! オークたちにも生きる権利がある! 殺戮を容認する行政は直ちに方針を改めよ!」


 男の言葉に合わせて、周囲のメンバーが機械的なリズムでシュプレヒコールを反復する。その様子を、駆けつけたテレビ局のカメラマンやレポーターたちが熱心に撮影していた。

 一般の来庁者たちは遠巻きに事態を見守り、本来の窓口業務は停滞を余儀なくされている。代表の男は、自分たちに集まる無数のカメラのレンズに満足そうな視線を向けながら、さらに悲劇の主人公のような顔を作って言葉を続けようとした。


 その時、マスコミのカメラマンたちの間を縫うようにして、一人の男が静かに進み出てきた。


「区の担当者が出てきたぞ!」


 レポーターの一人が声を上げ、一斉にカメラのフラッシュが焚かれる。

 抗議集団の前に立ったのは、分厚いファイルを小脇に抱えた高木だった。見上げるような巨体と、仕立ての良いスーツの下に隠された威圧的な筋肉に、代表の男も一瞬だけたじろいだように見えたが、すぐに「権力側の人間」という格好の標的を見つけて目をギラつかせた。


「区の責任者か! ちょうどいい、我々の要求を聞いてもらおうか! オークの不当な殺戮をやめ、生態系を保護する約束を今この場でしろ! さもなければ、我々は一歩もここから動かないぞ!」


 男は拡声器の筒先を高木に向け、マスコミのカメラを意識しながら大げさな身振りで煽り立てた。周囲のメンバーも一斉に立ち上がり、高木を取り囲むようにして気勢を上げる。


 しかし、高木は顔色一つ変えなかった。

 突きつけられた拡声器の筒先をゆっくりと指で押し下げると、極めて穏やかで、事務的な声で口を開いた。


「皆様の環境保護に関するご主張や、その抗議活動自体を否定するつもりはありません。言論の自由は最大限に尊重されるべきですからね」


 高木の言葉に、代表の男は毒気を抜かれたようにぽかんとした。怒鳴り返してくると思っていた相手が、あっさりと自分たちの活動を認めたからだ。


「なんだ、話がわかるじゃないか。だったら今すぐ……」

「ただし」


 高木の声のトーンが、わずかに一段階下がった。


「ここは多数の区民の皆様が利用される公共の庁舎です。現在、皆様が設置されている持ち物について、非常に憂慮すべき法的な問題が発生しています。庁舎を管理する立場として、これらは見過ごすわけにはいきません」


「法的な問題だと? ふざけるな、我々は一歩も外には出ないぞ! 威力業務妨害で警察でも呼ぶ気か! 暴力による弾圧として徹底的に抗議させてもらうからな!」


 代表の男が色めき立ち、テレビカメラのレンズが一斉に高木の顔にズームされる。


 しかし、高木は手元のファイルを開き、静かに首を振った。


「警察を呼ぶつもりはありません。皆様の抗議の意志とは全く関係のない、別の法律の話をしているんですよ」


 高木はファイルのあるページを指で示しながら、ロビーの床に敷き詰められた巨大なブルーシートと、その中央に陣取る布製のテント、そして壁際に無造作に立てかけられた横断幕と大量の段ボール製プラカードを順に指差した。


「消防法第8条の2の4、避難施設の管理に関する規定です。現在、皆様のテントとシートの配置によって、メインエントランスから東側の非常口へ抜ける避難経路の有効幅員が著しく狭められています。万が一、この庁舎内で火災や地震が発生した場合、逃げ遅れる人が出る可能性が極めて高い危険な状態です」


 代表の男が言葉に詰まる。


「そ、それは……」


「さらに重大なのが、こちらですね」


 高木はテントの布地と、大きくスローガンが書かれた横断幕に触れた。


「消防法第8条の3。高層建築物や地下街など、不特定多数が出入りする施設で使用するカーテン、どん帳、展示用の合板などは、政令で定める防炎性能を有する『防炎物品』でなければならないと義務付けられています」


 高木はテントの裾や横断幕の端をめくってみせた。


「拝見したところ、これらの物品に公益財団法人日本防炎協会が発行する『防炎ラベル』は付着していませんね。防炎処理未済のただの布や段ボールのようです」

「だ、だからなんだ! たかが布切れ一枚で……」

「たかが布切れではありませんよ」


 高木は、周囲を取り囲むマスコミのカメラに向かって、はっきりと聞こえる声で続けた。


「不特定多数が集まるこの密閉されたロビーで、もしタバコの不始末や漏電などで火災が発生した場合、防炎処理未済のテントや大量の段ボールは、一気に燃え広がります。しかも避難経路はシートで塞がれている。逃げ惑う来庁者がパニックを起こし、将棋倒しになって多数の死傷者が出る大惨事になりかねません」


 静まり返ったロビーに、カメラのシャッター音だけが響いた。

 高木の言葉は、誰が聞いても正論だった。イデオロギーや正義の問題ではない。そこにいるすべての来庁者と職員の「命の安全」に関わる、極めて具体的な危険性の指摘だったのだ。


「抗議活動を続けられるのは自由ですが、来庁者の命を危険に晒すこれらの物品をこのまま放置しておくわけにはいきません。地方自治法第238条の4に基づく庁舎管理権の行使として、直ちにこのテントとシート、および横断幕の撤去をお願いします」

「ば、馬鹿な! これを撤去したら、我々の活動拠点がなくなってしまうだろうが!」


 男が慌てて反論するが、高木は同情の余地を一切見せずに淡々と告げた。


「速やかに撤去に応じていただけない場合は、消防署の予防課に連絡し、立ち入り検査を要請します。消防法に基づく改修・移転の措置命令が出されれば、従わない場合は1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる可能性がありますよ」


 代表の男は、周囲の様子をぐるりと見渡した。

 テレビカメラのレンズが、今度は「防炎処理されていない危険なテント」と「避難経路を塞ぐシート」の方へと向けられている。

 このまま意地を張れば、彼らは「正義のために戦う市民団体」ではなく、「他人の命を危険に晒して消防法違反を犯している迷惑な集団」として夕方のニュースで報道されてしまう。彼らにとって最も避けたい「社会的なイメージの悪化」を、高木は暴力でも警察でもなく、消防法という斜め上の角度から見事に突きつけたのだ。


「……っ! わ、わかった! 撤去すればいいんだろう、撤去すれば!」


 代表の男は顔を真っ赤にして吐き捨てると、周囲のメンバーたちにテントの解体とシートの片付けを荒々しく指示し始めた。

 高木は「ご協力に感謝します」と短く頭を下げ、少し離れた場所で固唾を飲んで見守っていたまひると鈴木課長のもとへ、悠然と歩いて戻った。


「しゅ、主任……すごい。本当に警察も呼ばずに、あいつらの拠点を解体させちゃいましたね」


 まひるが興奮気味に小声を上げる。


「そうだよ。イデオロギーで争っても水掛け論になるだけだからね」


 高木がネクタイを直しつつ振り返ると、ロビーの光景はすっかり様変わりしていた。

 巨大なテントや派手な横断幕が消え失せ、残されたのは、ロビーの隅の冷たい床に直接腰を下ろしているだけの数十人の集団だ。絵面としての迫力や悲壮感はすっかりなくなり、ただの地味で迷惑な座り込み集団と化している。

 それを見越したかのように、マスコミのカメラマンたちも次々とレンズを下ろし、興味を失った様子で機材の片付けを始めていた。


「テレビ局の人たち、帰っていくみたいですね」

「絵にならないと判断したんだろうね。団体側も、アピールのためのマスコミがいなくなれば、モチベーションを維持するのは難しいはずだ。彼らのペースは確実に崩れているよ」


 高木は時計に目をやった。


「彼らの真の目的である『NPO助成金の不正受給』については、すでに裏の取りを終えている。明日の朝、彼らが疲弊しきったタイミングで、最後の指導を行うとしようか」


★★★★★★★★★★★


 その日の夜。

 定時退社を済ませて自宅マンションに戻った高木は、軽い夕食とシャワーを終え、リビングのソファで静かな時間を迎えていた。

 部屋の隅に置かれたキャットタワーの最上段では、子猫のベルが丸くなって幸せそうに眠っている。


 高木はキッチンのカウンターに立ち、自分だけのささやかな晩酌の準備を始めた。

 ワインセラーから取り出したのは、フランス・ブルゴーニュ地方の赤ワインだ。ピノ・ノワール種特有の、透明感のあるルビー色が美しい1本。ソムリエナイフを使ってコルクを静かに抜き、丸みを帯びた大きなワイングラスにゆっくりと注ぐ。

 グラスを軽く回して鼻を近づけると、ラズベリーやチェリーのような赤い果実の香りと、ほんのりとした土やスパイスの複雑な香りが立ち昇ってきた。


 一口含むと、滑らかな酸味と繊細な果実味が舌の上を優しく滑っていく。日中の騒々しいロビーでの立ち回りを忘れさせてくれるような、優雅で洗練された味わいだった。


 ワインのグラスの横には、もう一つの楽しみが用意されている。

 小ぶりのガラスボウルに入れた、無糖のプレーンヨーグルトだ。高木はそこに、上質な国産の百花蜂蜜を、ティースプーンに1杯だけ、とろりと垂らした。

 真っ白なヨーグルトの海に、黄金色の蜂蜜がゆっくりと沈んでいく。スプーンで軽くかき混ぜて口に運ぶと、ヨーグルトの爽やかな酸味を、蜂蜜のまろやかで奥深い甘みが絶妙なバランスで包み込んだ。

 この酸味と甘味のコントラストが、ブルゴーニュの赤ワインの繊細な果実味と驚くほどよく合うのだ。蜂蜜のコクがワインの酸味をまろやかにし、互いの風味を引き立て合う最高のマリアージュだった。


 高木はソファに深く身を沈め、ワインと蜂蜜ヨーグルトを交互に味わいながら、ゆっくりと夜の時間を堪能した。


 ふと、足元で微かな気配がした。

 見ると、いつの間にか起きてきたベルが、ソファの下から短い前脚を伸ばして、ローテーブルの上に置かれたグラスを不思議そうに見上げている。


 高木はふっと目を細め、ワイングラスの横に置いてあったもう一つのボトル――『ニッカ』のシングルモルトウイスキーに手を伸ばした。

 どっしりとした分厚いロックグラスに大ぶりの丸氷を入れ、琥珀色の液体を静かに注ぐ。カラン、と氷がグラスに当たる高い音が、夜の部屋に心地よく響いた。


 ベルが短い脚でテーブルに身を乗り出し、ウイスキーの匂いを嗅ごうと小さな鼻を近づけてくる。

 しかし、モルト特有のスモーキーで力強いアルコールの香りに驚いたのか、「にゃっ」と小さく鳴いて慌てて顔を背け、耳をペタンと伏せてしまった。


「これは大人だけの楽しみだからね。君にはまだ早いよ」


 高木はくすりと笑い、ベルの柔らかな頭を指先でそっと撫でた。


 ロックグラスを手に取り、ウイスキーの冷たい液体を喉の奥へ流し込む。

 喉を焼くような力強いアルコールの刺激と、オーク樽の芳醇な香りが、一日の疲労を静かに解きほぐしていく。


(明日の朝は、少し事務的な手続きが多くなりそうだ)


『緑の息吹』のNPO法人としての事業報告書の未提出問題、そして助成金の不自然な流れ。さらに、彼らが抗議の根拠としている映像に映り込んでいる致命的な矛盾。


 それらの手札をどのタイミングで切り、どう逃げ道を塞ぐか。

 琥珀色のモルトウイスキーをゆっくりと傾けながら、高木の頭の中では、翌日の対応シミュレーションが深夜まで止まることなく回り続けていた。

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