第13話 自家製佃煮とオークの人権
朝6時。高木は、スマートフォンのアラームが鳴るよりも前に自然と目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光の中、ベッドの足元では数日前に迎え入れたばかりのマンチカンの子猫、ベルが丸くなって穏やかな寝息を立てている。高木は分厚い布団をそっと押し除け、ベルを起こさないように足音を忍ばせてリビングへと向かった。
顔を洗い、白の無地Tシャツに着替えてキッチンに立つ。
今日からまた、終わりのないクレーム対応と煩雑な事務作業が待つ1週間が始まる。そのためのエネルギーを身体の隅々まで行き渡らせるには、しっかりとした朝食が不可欠だった。
高木はまず、コンロに小鍋を火にかけ、週末に多めに作ってタッパーに保存しておいた『昆布の佃煮』を小皿に取り分けた。
美味しい出汁を取ったあとの真昆布を捨てずに細かく刻み、醤油、みりん、酒、そして少量の三温糖を加えて汁気がなくなるまでじっくりと煮詰めた、小料理屋で出されても遜色のない手作り品だ。表面には食欲をそそる深い照りがあり、噛み締めれば昆布の豊かな旨味と甘辛い味わいが口いっぱいに広がる。
続いて、フライパンに少量の油をひき、塩を振って一晩寝かせておいた厚切りの鮭を並べる。
ジュワッという小気味良い音とともに、香ばしい匂いがキッチンに立ち込めた。皮の表面がパリッとキツネ色に焼け、身がふっくらと仕上がったところで火を止める。
熱々の鮭を皿に移し、菜箸を使って丁寧に骨を取り除きながら、大きめに身をほぐしていく。程よく脂の乗った鮭の塩気は、朝の目覚めに最適だ。
炊飯器を開けると、艶やかに炊き上がった白米の湯気がふわりと顔を包んだ。
高木は小さなボウルに濃いめの塩水を用意し、両手をさっと濡らす。炊きたての熱いご飯を手のひらに乗せ、中央にたっぷりとほぐした鮭と、自家製の昆布の佃煮を少しだけ忍ばせる。そして、米粒が潰れないように、それでいて形が崩れないように、絶妙な力加減で空気を包み込むようにして三角形に握っていく。
最後に、パリッとした有明海産の焼き海苔をぐるりと巻きつければ、極上の『お握り』の完成だ。
付け合わせも抜かりはない。
小鉢に納豆を移し、付属のタレと辛子、そして細かく刻んだ九条ネギをたっぷりと加えて、空気を含ませるように素早くかき混ぜる。別の小皿には、母親から送られてきた酸味の強い昔ながらの梅干しと、市販の熟成キムチ、そして歯ごたえの良いカクテキを彩りよく盛り付ける。
最後に、沸騰直前で火を止めた小鍋の出汁に信州味噌を溶き入れ、たっぷりの生もずくを落とした。磯の香りが爽やかな、もずくの味噌汁だ。
ダイニングテーブルに並べられた、色鮮やかでボリューム満点の和定食。
高木はケージから出てきて足元で「ミャァ」と鳴くベルの器に、計量したキャットフードを注いでやってから、自身も椅子に深く腰を下ろした。
「いただきます」
両手を合わせ、まずは温かいもずくの味噌汁をすする。出汁の香りが鼻腔を抜け、胃がじんわりと温まっていく。
そして、鮭と昆布の佃煮が入ったお握りを大きく頬張った。ふんわりと握られた白米の間から、鮭の塩気と昆布の甘辛さが絶妙なバランスで主張してくる。海苔の磯の香りも相まって、一口食べるごとに身体の奥から力が湧いてくるようだった。
箸休めにカクテキのポリポリとした食感を楽しみ、酸っぱい梅干しで味覚をリセットしながら、朝の食事を進めていく。
ベルがカリカリとキャットフードを食べる微かな音と、時折聞こえる遠くの車の走行音だけが、部屋を満たしている。
出汁の豊かな余韻を楽しみながら、高木は静かな朝の時間をゆっくりと味わった。
★★★★★★★★★★★
朝8時15分。
充実した朝食で英気を養い、新宿区役所に出勤してきた高木を待っていたのは、平穏な日常とは程遠い、異様な喧騒だった。
「オークにも人権を! 野蛮な狩猟を今すぐやめろ!」
「ダンジョンの自然を破壊するな! 行政は生態系を保護せよ!」
区役所1階の広大なロビーが、お揃いの緑色のウィンドブレーカーを着た数十人の集団によって占拠されていた。
彼らはロビーの中央に勝手にビニールシートを敷き詰め、簡易的な折りたたみ式の布製テントまで設営して陣取っている。手には「モンスターの命を守れ」「血塗られた魔石を使うな」と書かれた段ボール製のプラカードを掲げ、拡声器を持った男がリーダー格としてシュプレヒコールを上げていた。
一般の来庁者たちが困惑した表情で立ち止まり、遠巻きにその様子を窺っている。
さらに厄介なことに、彼らの周囲にはテレビ局の腕章をつけたカメラマンや、マイクを持ったレポーターなど、多数のマスコミ陣が取り囲むようにしてその様子を撮影していた。レポーターがカメラに向かって深刻そうな顔で何かを喋り、フラッシュの光がチカチカと瞬いている。
「……おはようございます、主任。なんか、朝からすごいことになってますね」
人垣の後ろで途方に暮れていた安藤まひるが、高木の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「おはよう、安藤さん。あれは……環境保護団体か」
「『緑の息吹』っていうNPO法人らしいです。さっきから『オークは知性を持った隣人だ』とか『冒険者は侵略者だ』とか、好き勝手叫んでますよ」
まひるは苛立ちを隠せない様子で、抗議集団を睨みつけた。
「オークに人権って、本気で言ってるんですか? あいつら、繁殖期になったら平気で人間を襲うような凶悪なモンスターですよ。今すぐあのテントを撤去してやりたいくらいです」
「気持ちはわかるよ。だが、彼らも本気でオークと手を取り合って生きていけるとは思っていないだろうね」
高木は冷静な声でそう言いながら、集団の動きを観察した。
「え? 本気じゃないんですか?」
「あそこで拡声器を握っている代表らしき男の視線を見てごらん」
高木が顎で示す先で、リーダー格の男が声を張り上げている。
「あ……本当だ。抗議しながら、ずっとカメラの位置を気にしてますね。赤ランプが点いたカメラの方ばっかり向いてる」
「そう。それに、座り込んでいる参加者たちの大半は、プラカードを機械的なリズムで上下させているだけで、目に熱意がない。おそらく日当で雇われたアルバイトか何かだろうね」
まひるがハッとして集団を見直す。確かに、彼らの態度はどこか事務的で、切実な怒りというよりも、決められた台本通りのパフォーマンスをこなしているように見えた。
「じゃあ、環境保護っていうのはただの口実ですか?」
「ああ。こうしてマスコミを呼んで派手な抗議活動を行い、『私たちは社会的な弱者のために権力と戦っている』という映像を世間に発信することが真の目的なんだ」
「……寄付金とか、そういうのが狙いですか?」
「その通りだよ。支持者から活動資金を集め、あわよくば自治体や国からNPO法人向けの『助成金』を引き出すための、社会的なパフォーマンスさ。注目を集めること自体が彼らのビジネスモデルなんだ」
高木が淡々と分析している間にも、ロビーの奥からひどく狼狽した様子の鈴木課長が小走りでやってきた。
「た、高木くん! どうしよう、いきなりあんな集団が押し寄せてきて! マスコミまでいるし、下手に刺激したら夕方のニュースで『新宿区、平和的な市民団体を弾圧!』なんて報道されちゃうよ!」
「落ち着いてください、課長。警察は呼びましたか」
「いや、まだだよ! 警察を呼んで無理やり排除なんかしたら、それこそ彼らの思う壺じゃないか。暴力で言論を弾圧したって、大炎上しちゃうよ!」
「あんな連中、私が腕ずくで追い出しましょうか? 少し痛い目を見れば、オークが隣人なんて口が裂けても言えなくなりますよ」
まひるが拳をボキボキと鳴らして身を乗り出したが、高木は大きな手で彼女の肩を軽く制した。
「怒りに任せて手を出せば、それこそ彼らの罠に自ら飛び込むようなものだよ。公務員が暴力を振るったとなれば、区の立場は決定的に悪くなるからね。ここは冷静に手順を踏むべきだ」
「じゃあ、どうするんですか? このまま座り込みを許してたら、今日の窓口業務ができませんよ」
まひるの懸念通り、彼らの設置したテントと集団のせいで、ロビーの導線は大きく塞がれていた。このままでは一般の来庁者がダンジョン管理課の窓口に辿り着くことすら困難だ。
高木はネクタイの結び目を軽く直しながら、座り込んでいる集団の「持ち物」と「配置」に視線を移した。
彼らが敷いている巨大なビニールシート。壁に無造作に立てかけられた木製の看板。そして、ロビーの中央に不自然に立てられた、キャンプ用の布製テント。
「……威力業務妨害で引っ張るのは得策ではないな。思想の自由や表現の自由を盾に、長期戦に持ち込まれる可能性がある」
高木は頭の中に格納されている膨大な法令と条例のインデックスを、凄まじい速度で検索し始めた。
「課長。総務課の施設管理担当に連絡して、庁舎の平面図を持ってくるように手配してください。それから、消防署の予防課に1本電話を入れておいていただけますか」
「えっ? 消防署? 警察じゃなくて?」
鈴木課長が目を丸くする。
「ええ。彼らがやっているのは、単なる『危険物の持ち込み』と『避難経路の阻害』です。来庁者の安全を守るための対応ですよ」
高木はそう言い残すと、分厚いファイルを小脇に抱え、騒乱のロビーの中央へと歩みを進めた。




