第12話 マニフェストと猫とビジネスパートナー
土曜日の午前10時。
新宿から車で1時間ほどの郊外にある、静かな住宅街。その一角にある一軒家の前で、高木はレンタカーのエンジンを止めた。
ここは、愛猫家たちの間で評判の高い優良ブリーダーの犬舎兼自宅だ。
チャイムを鳴らすと、エプロン姿の初老の女性がにこやかに出迎えてくれた。しかし、玄関先に立つ見上げるようなスーツ姿の巨漢を目の当たりにすると、彼女は一瞬だけビクッと身をすくませた。無理もない。休日のノーネクタイの私服とはいえ、高木の分厚い胸板と威圧感は借金の取り立てか何かに見えなくもない。
「あの、本日お約束しておりました高木です。マンチカンの……」
「ああっ、高木さん! お待ちしておりました。ささ、どうぞ中へ」
ブリーダーの女性は安堵の表情を浮かべ、高木を清潔なリビングへと案内した。
部屋の隅に設置された広いサークルの中に、数匹の子猫たちが身を寄せ合って眠っている。高木がサークルの前にそっとしゃがみ込むと、その気配に気づいた一匹の子猫が、短い脚でヨチヨチと歩み寄ってきた。
淡いクリーム色の被毛に、くりくりとした大きな丸い瞳。生後2ヶ月半の、オスのマンチカンだ。
高木がそっと人差し指を差し出すと、子猫は小さなピンク色の鼻をヒクヒクとさせ、短い前脚でその指をギュッと抱きかかえるようにして舐め始めた。高木の丸太のように太い腕と、手のひらに収まってしまいそうな子猫の対比は、客観的に見ればひどくアンバランスだった。
「この子は兄弟の中でも一番人懐っこくて、物怖じしないんですよ。高木さんのような大きな方にも、すっかり安心しているみたいですね」
「……ええ。とても愛らしいですね」
高木は目元をわずかに和ませ、子猫の柔らかな頭を優しく撫でた。
高木はこの数ヶ月、自宅のマンションにキャットタワーを組み立て、食事用の器や専用のトイレを選び抜き、この小さな家族を迎え入れる準備を綿密に進めていた。肉球の柔らかな感触が指先から伝わってくるだけで、口角が自然と緩んでしまう。
ブリーダーから血統書とワクチンの接種記録、そして数日分の食べ慣れたキャットフードを受け取り、高木は用意してきた専用のキャリーバッグに子猫をそっと移した。
「名前は、もう決めていらっしゃるんですか?」
「『ベル』にしようかと。フランス語で美しい、という意味の言葉から取りました」
「素敵なお名前ですね。ベルちゃん、今日から高木さんの家族よ。元気でね」
帰宅後、高木はあらかじめ1LDKの部屋の隅に設置しておいた三段ケージの中に、ベルをそっと解放した。
ベルは新しい環境に少し戸惑いながらも、すぐに短い脚でトコトコと歩き回り、用意された猫用ベッドの匂いを嗅いで丸くなった。
その愛らしい姿をソファに座ってコーヒーを飲みながら眺めていると、高木の頭の片隅で一時停止していた「仕事の思考」が、ゆっくりと再起動し始めた。
(さて。月曜からは、あの大量のデータと向き合わなければならないな)
公園に不法投棄されたモンスターの死骸。
ベルの穏やかな寝息を聞きながら、高木はマグカップを置き、静かに目を閉じた。彼の頭の中で、月曜から処理すべき膨大なデータの分類が、すでにパズルゲームのように組み上がり始めていた。
★★★★★★★★★★★
月曜日の午後。新宿区役所ダンジョン管理課。
高木のデスクの上には、3台のモニターが展開され、無数のスプレッドシートと行政システムの照会画面が立ち上がっていた。
キーボードを叩く乾いた音が、一定の細かなリズムでフロアに響き続けている。画面上では膨大な文字列と数字が滝のようにスクロールし、ソートとフィルタリングが繰り返されていた。
「主任、お疲れ様です。……相変わらず、すごい画面ですね」
窓口業務が一段落したまひるが、コーヒーの紙コップを手に覗き込んできた。
「先週の不法投棄の件、ギルドの方は犯人を見つけられたんでしょうか。あのエリートっぽい弁護士の人、すごく自信満々でしたけど」
「おそらく、難航しているだろうね」
高木は視線を画面から外さず、淡々と答えた。
「現場には、足跡一つ、タイヤの痕一つ残っていなかった。おそらく犯人は『アイテムボックス』のような空間収納魔法か、あるいは物理的な痕跡を消す魔法を使っている。現場の物証主義で動くギルドの調査部隊にとって、魔法で隠蔽された事案を追うのは非常に骨が折れるはずだ」
「じゃあ、主任はどうやって犯人を見つける気なんですか? 魔法が使われてるなら、お手上げじゃ……」
「魔法でごまかせるのは、現場の『物理的な痕跡』だけだよ。社会のシステムに残る『数字と記録』の矛盾までは、魔法では消せないんだ」
高木はモニターの一つを指差した。
そこには、ギルドから行政に定期的に共有される、冒険者クランごとの『魔石換金記録』と、廃棄物処理業者が発行する『産業廃棄物管理票』の電子データが並べられていた。
「ダンジョンの浅い階層でスライムやゴブリンを狩った場合、魔石の取得量に対して、必ず一定量の『死骸』が発生する。適正なクランであれば、この死骸の処理を業者に委託し、その証拠としてマニフェストが発行・保管される」
「あ……なるほど! 魔石はいっぱい換金してるのに、ゴミを捨てた記録がないクランを探すんですね!」
「その通りだよ」
高木は小さく頷いた。
「しかし、それだけでは決定的な証拠としては少し弱いんだ。彼らも馬鹿ではないから、ダミーの清掃業者を間に挟んで、適当な一般廃棄物として処理枠をごまかしている形跡があったんだよ」
高木はキーボードを叩き、別のモニターに新宿区内の地図と、防犯カメラのネットワーク画面を表示させた。
「だから、区が管理する防犯カメラの『車両ナンバー通過記録』と、区内の『事業系一般廃棄物の回収ルート履歴』を照合したんだ。魔石の不自然な換金比率を出しているクランが契約している清掃業者のトラックが、なぜか不法投棄が発生した深夜の時間帯に、当該公園の周辺ルートを不自然に巡回している記録を抽出したんだよ」
まひるはただ息を呑むしかなかった。
それは、魔法の痕跡を探すような派手な調査ではない。膨大で退屈な行政のビッグデータの中から、針の穴を通すような異常値と矛盾を、力技ではなく純粋な論理と実務処理能力だけであぶり出す、気が遠くなるような作業だった。
「……主任、これ、全部一人で調べたんですか?」
「必要なデータベースへのアクセス権限と、簡単なソート用のマクロを組めば、あとは単純作業だよ」
高木は最後にエンターキーをターンと叩き、分厚い紙の束をプリンターから出力した。
「特定のクラン『ブラッドファング』と、彼らが裏で運営しているダミーの産廃業者の動きが見事に一致したんだ。これで告発の準備は整ったよ。ちょっと、ギルドへ出向いてくる」
高木は出力したばかりの書類をファイルに挟み、ジャケットを羽織って立ち上がった。
★★★★★★★★★★★
日本冒険者ギルド機構 新宿支部、法務部コンプライアンス管理室。
重厚なマホガニーのデスクの向こうで、室長の大野恵里は眉間を深く揉みほぐしていた。
(……やはり、現場に証拠がなさすぎる)
彼女の手元には、調査部隊からの芳しくない報告書が散乱している。高位の隠蔽魔法が使われた形跡があり、犯人の特定には至っていない。不法投棄の被害は広がっており、このままではギルドの管理責任が世論から厳しく追及されるのは火を見るよりも明らかだった。
そこへ、ノックの音が響き、部下が困惑した顔で顔を出した。
「室長。新宿区役所の高木と名乗る方が、面会を求めていますが……」
恵里はわずかに顔をしかめた。先日の公園で「行政は手を引け」と釘を刺した、あの威圧的な公務員だ。
「通して。どうせ、進捗の嫌味でも言いに来たんでしょう」
数秒後、応接室に通された高木は、恵里の冷ややかな視線を意に介することなく、分厚いファイルを机の上にことりと置いた。
「お忙しいところ申し訳ありません、大野室長。先日の不法投棄の件ですが、当課での調査が完了しましたので、情報共有に参りました」
「……調査完了?」
恵里は怪訝な顔でファイルに視線を落とす。
「ええ。廃棄物処理法違反で警察に刑事告発を行う前に、ギルド側にも事実確認をしていただこうかと」
「冗談でしょう。魔法による隠蔽工作が施されていた現場ですよ。行政の権限で、一体どうやって犯人を特定したというんですか」
恵里は半信半疑のまま、ファイルを手に取ってページをめくった。
そして、数秒後。彼女の指の動きがピタリと止まった。
ファイルに綴じられていたのは、現場の写真でも目撃証言でもなかった。
クラン『ブラッドファング』の魔石換金履歴、マニフェストの欠落データ、ダミー業者の不審なトラックの運行記録、そしてそれらが不法投棄の発生時刻と場所に見事に符合するタイムライン。
推測や感情の入り込む余地のない、行政の客観的なデータによって構築された、逃げ道のない論理の檻がそこにあった。
「……マニフェストの電子データと、区の防犯カメラの走行記録のクロスチェック……。ダミー会社の登記情報まで洗ったんですか」
恵里の声から、先ほどまでの冷たい余裕が消え去っていた。
「魔法を使って現場の痕跡を消すことはできても、社会インフラを利用して物理的にトラックを走らせ、換金システムを利用している以上、行政の網の目からは逃れられませんから」
高木は静かに答えた。
恵里はファイルを机に置き、ゆっくりと息を吐いた。
現場主義の冒険者たちには絶対に不可能なアプローチだ。これをまとめ上げるために、どれほどのデータを処理し、どれほどの法的根拠を精査したのか。目の前に立つ大柄な男の、異常なまでの実務能力の底知れなさに、恵里は薄ら寒さすら覚えた。
「……降参ですね」
恵里はポツリとこぼし、高木をまっすぐに見上げた。
「これは、刑事裁判でも十分に通用する完璧な証拠です。警察に告発状が受理されれば、彼らは終わりでしょう」
「ですが、警察の捜査と起訴には時間がかかります。その間に彼らが証拠を隠滅し、逃亡するリスクがあります」
高木は恵里の目を見つめ返し、一歩踏み込んだ。
「大野室長。ギルドの内部規定第8条には、『ギルドの品位を著しく貶め、社会に重大な損害を与えたクランに対し、コンプライアンス管理室長は即時のライセンス停止、および除名処分を下すことができる』とありますね」
「……ええ」
「この行政のデータと告発の事実をもって、今すぐ彼らの冒険者としての活動を物理的に止めていただきたい。我々行政には、彼らのダンジョンへの立ち入りを即座に禁止する権限はありません。それは、ギルドにしかできないことです」
恵里は少しの間沈黙し、やがてふっと、口角を上げて笑みをこぼした。
それは皮肉でも冷笑でもない、純粋に相手の有能さを認めたプロフェッショナルの笑みだった。
「お役所仕事の理想論だと言った私の発言は、撤回しなければなりませんね。……あなたは、極めて優秀で恐ろしい実務家です、高木さん」
恵里はデスクのインターホンを押し、鋭い声で部下に指示を出した。
「法務部より通達。クラン『ブラッドファング』の所属メンバー全員に対し、規約違反に基づくライセンスの即時凍結、およびギルド除名処分を執行します。直ちに手続きに入りなさい」
指示を終えると、恵里は立ち上がり、高木に向かって右手を差し出した。
「行政のデータ網とあなたの実務能力を、少し甘く見ていたようです。これに懲りず、今後も厄介な事案の際は、情報共有のパイプを持たせていただけませんか。……互いの立場と権限を利用し合う、ビジネスパートナーとして」
「こちらこそ、ギルドの迅速な判断に感謝します。今後ともよろしくお願いします、大野室長」
高木はその細く白い手を、自身の分厚い手でしっかりと握り返した。
行政の法とデータ、そしてギルドの強権。ダンジョンの秩序を維持するための、新たな防壁が構築された瞬間だった。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
定時で区役所を後にした高木は、自宅のドアを開けた。
「ミャァ」
玄関の明かりをつけると、ケージの中から甘えるような高い鳴き声が聞こえた。
「ただいま、ベル」
高木はスーツのジャケットを脱ぎながらケージを開け、よちよちと出てきた子猫の背中を大きな手で優しく撫でた。ベルはゴロゴロと喉を鳴らしながら、高木のズボンの裾に短い脚でしがみついてくる。
高木はネクタイを外し、キャットフードの袋を開けた。計量カップですりきり一杯分を量り、専用の器にカリカリと音を立てて注ぐと、ベルは待ちきれない様子で短い尻尾をピンと立てて器に顔を突っ込んだ。
小さな体が夢中で食事をとるのをしゃがみ込んで見つめながら、高木は自身の指先に残る柔らかな毛の感触をそっと確かめる。
厄介な悪徳クランの排除と、ギルドとの調整を終えた後の、静かで穏やかな時間。
高木は冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出すと、ソファに深く腰を下ろし、心地よい疲労感とともに、ただ愛猫の仕草だけをのんびりと眺め続けた。




