205 ××から始まるストーリー
「はむ……んん」
午前の日差しが降り注ぎ優しい風が入ってくる部屋は、奇妙な沈黙に包まれていた。
「……」
仰向けに倒れてそうになって後ろに手をつく俺に覆い被さるように近づき、妹様は首を傾けるとその小さな唇で俺の鼻をぱっくりと包み込む。
俺の眼前には、瞳を閉じて俺の鼻を温かい唇で挟み込むハニーの顔があった。
「……」
全く言葉が出せない俺。 周りにいるであろうるー君たちも息を潜めているらしいが、あいにくとセーレたんの金の髪がカーテンとなって俺には見えない。 ……いや、むしろ幸いか。
なあ妹様よ。 こういう時は使い捨てになってもいいからさ、普通にハンカチを使った方がいいと思うんだ?
俺の鼻から赤いモノがひと筋垂れ始めて、慌てたセーレたん。 最初は半ば反射的に手で押さえにかかったが、少しでも離すとたらーりとなるのを見て、何を思ったかいきなり鼻ごとぱっくんちょ。
「んん~……ん?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返して俺の目を見る妹様。 恐らく「止まったかな~?」と聞いているんだろうけど、俺にも分からんよ。
それにしてもさ……包丁で指を切って「はむっ♪」とかならまだ分かるんだが、鼻ごとぱっくんというのは斬新すぎやしませんか?
「ぷは……あっ♪」
少し紅くなった唇を離し、髪を直しながら身体を起こしたセーレたん。 止まったらしい。
最後に細いのどを鳴らして俺の血を飲み込むと、色鮮やかな舌で手や唇についたわずかな血を舐め取って、柔らかな笑みを浮かべた。
……昔、セーレたんが風邪を引いたときにお袋が同じようにして詰まった鼻を吸っていたのを何となく思い出したよ。
「だいじょうぶ? お兄ちゃん」
ゆっくりと上半身を起こす俺の背中に、そっと手を添えて助けてくれるセーレ様。 そして何事もなかったかのような高貴な微笑みをたたえたまま、小首をかしげてたずねてきた。
オーラからしてすぐ分かるけど、お嬢様モードが全開のようだ。
「うん、ありがとな」
もうここまできたら、周りのリアクションなど気にしてもしょうがない。
俺は平然とお嬢様の頬に下から手を当てて、優しくなでる。 するとその手に頭を預けて、気持ちよさそうに目を瞑った。
「うふふふふふ~♪」
「ほ、本当にごめんなさい……」
「ところで、ステイリアさん」
「ほわいっ!?」
妹様を見ながら、申し訳なさそうに縮こまっている本日のお客様に声をかけると、当人は文字通り意味が分からなそうな声を上げた。
目を向けると、なんだかヘッドバットの前よりも顔が赤いような気がするけど。
「今日はどのようなご用件で?」
「へあっ、ああっ、ええっと」
両手をわたわたさせて、一人パントマイムを披露したお姉さん。 先をカールさせた飴色のショートヘアが、右へ左へと踊っている。
「……まあ、そんなところではなんなんで、奥へどうぞ」
「ひゃ、ひゃい」
ソファーは置いていないので、部屋の奥にある小さいテーブルのところへ誘う。
また脚を引っ掛けて転びそうなタイトスカートを気にしながら、ステイリアさんはお袋くらいはありそうな身長を小さくしてテーブルの前にちょこんと座った。 俺とセーレ様もその向かいに腰を下ろす。
ちなみにるー君主従は、俺と妹様の様子を興味深そうに見えているだけだった。 るー君は少し顔を赤らめて、ツェリさんは無表情な中で灰色の瞳を輝かせながら。
そして今は、人妻らしいお客さんの後ろに控えるようにして二人は座っている。
「改めまして、ぼくはジャスパー・オリオールと言います。 それでこっちは双子の妹でセレスティアです」
「初めまして~♪」
仕切り直したところで、ちゃんと挨拶していなかったことに気づいた俺はそこからスタートさせた。
お姉さんはお嬢様と化したマイシスターを見て後ろに倒れそうになっていたが、なんとか踏ん張って耳まで真っ赤な顔で言葉を返す。
「は、はじめまして! しゅテイリア・ブリートでしゅ」
「……」
まあ、噛み噛みなのは気にしないでおこう。
「それで今日は、どうしてぼくに会いに?」
「は、ははいっ。 ええっと、あの」
「……深呼吸、しましょうか」
「す、すみません」
それにしても、人見知りではなさそうだけど、ものすっごい緊張しやすい人なのかな。 しかも目が悪くてドジっ子と来ている。
でもこれだけいろんな意味でコケまくったら、普通は人と接するのが怖くなりそうなものなんだけど……それどころか、まったく変わらずに全力で突撃してくるところは好感が持てる。
両腕を広げて深呼吸を始めたお姉さんを見ながら、意外とすごい人なのかもしれないなと思った。
「……はいっ! お待たせしました」
すーはーしている間にマールちゃんがお茶を持って来てくれて、それも一気に飲み干すと、どうやら完全に落ち着きを取り戻したようだ。 キリッとした表情をしたお姉さんは、なるほど格好良かった。
金髪とは違って光沢の抑えられた、飴色の髪がまたすごく落ち着いて見える。
お姉さんは逆にこっちが恥ずかしくなってくるくらい、俺の目をじーっと注視しながら紅い唇から言葉を紡ぎ始めた。
「ええっと……先日私、ツェツィーリエさんからとあるものを見てほしいと言われまして」
「はい」
俺は白銀さんの方を一瞥するが、ご本人は微動だにせず。
このままステイリアさんから話を聞いて下さい、ということだろう。 俺はすぐにお姉さんに視線を戻し、彼女の言葉に集中する。
「……それを見て私、『これは凄い! 面白い!』って思ったんです」
「は、はい」
さっきまでの挙動不審がウソのように、ステイリアさんは瞳をアメジストのように輝かせ、テーブルを両手で叩くようにして身を乗り出してきた。
またお姉さんの顔が目の前に迫ってきて、俺はその勢いに少し押される。 セーレたんもパチパチと目を瞬かせている。
「勉強と言えば、難しい・大変・面倒の三拍子が揃っているものですけど、それは違いました! 楽しいんです! それに分かりやすい!
そしてなにより……それを作った人の『楽しく学んでほしい』という気持ちが伝わってくるんです!」
「ど、どうも」
ここまで言われれば、この人が何のことを言っているのかは分かる。 ベタ褒めすぎて、ちと照れるけど……。
俺が再度白銀さんに目を移すと、思った通り口元を上げていた。
「しかもですよっ!?」
「うえっ!?」
よそ見をしていたらステイリアさんに耳元で大きな声を出され、思わず身を引いてしまう俺。 つーか近い近い!
お姉さんはもはや完全にテーブルに身体を乗り上げて……って、グラスは大丈夫かっ? と思ったら、既に妹様が絨毯の上に退避させてくれていた。 ナイス。
視線をお姉さんから外せないので、手探りでセーレたんの頭をなでりなでりしておく。
「それを作ったのが五歳の男の子で、その上、同じ歳の子供達に勉強を教えて全員を飛び級させちゃったって言うんですよ!?」
「……ええ、まあ」
うん、冷静に考えると俺、トンデモないことをやっちゃってるよな……。
ほぼ一年経ってから気づいたよ。
「そんな事……いくらツェツィーリエさんのご推薦でも、すぐに信じられるわけないじゃないですか」
「まあ、ね」
急にトーンダウンするお姉さん。
まあ確かに、もし俺の知り合いがそんなことを言い始めたら「あなた疲れてるのよ」って言いたくなるな。
「……ですけど。 こうしてジャスパー君に直接会って、それが嘘じゃないってハッキリと分かりましたっ!」
「はあ……え?」
お姉さんは、水族館のアシカショーのようにテーブルに乗り上げ、胸の前で両手の拳をぐっと握る。
つーか、今日のやり取りのどこで悟ったの? もしかして鼻血ちゅーちゅー?
「そこでです! ジャスパー君……いえ、ジャスパーさんにお願いがありますっ!!」
「うわっ」
握った手を開いたと思ったら、俺の両肩を掴まれた! てか、ますます顔が近いって!?
「ジャスパーさん! 私と……私と一緒に……きゃあああっ!?」
「ぶらばあっ!?」
「お兄ちゃん!?」
背中を反らそうとする俺に対して、お姉さんがなお一層に近づいてきたと思ったら、テーブルをオーバーランしてお姉さんがこっちに流れ落ちてきたぁ!?
俺の視界のほとんどをお姉さんの顔が埋め尽くし、驚くセーレたんが一瞬だけ見えた。 ……だけど、それがよかった。
直後、わずかに横を向いた俺の唇の横に圧力を感じ、俺はお姉さんもろとも絨毯の上に仰向けに倒れる。
それは、つまり――。
「――んんむっ?」
「んもっ!?」
ステイリアさんは咄嗟に俺から手を離し、肘から先をついて俺を押し潰しそうになったことは回避してくれた。
だけどその勢いを完全に止めることはできなかったみたいで、目前に迫って熱弁を振るっていたお姉さんの顔は、俺の顔……の、一部分。
「ぷはぁ。 ……あ、あはは……ごめんね?」
具体的に言うと、ほっぺにちゅーされました。
「……」
しかし人妻のお姉さんは、さらりと軽く流してしまった。 ……ちょっと顔は赤いけどな。
まあ相手は幼児なんだし、あんまり重く受け止められても俺が困るが。
「え、ええっと……だから、ね? できれば、私と一緒に――」
だが、その人の次の言葉は、ラブコメのような展開をやすやすと吹き飛ばすインパクトを俺にもたらした。
「――参考書を、作ってみませんか?」




