第1話 帰ってきた日本には、ダンジョンがあった
魔王の胸板に、俺の右拳がめり込んでいた。
黒い鎧を砕いた感触が、拳を覆う闘気越しに伝わってくる。背中まで貫く必要はない。体内で脈打つ魔核へ衝撃を届かせれば、何度も再生してきたこの男も終わる。
最後の抵抗か、魔王の指が俺の左肩をつかんだ。爪が肉を裂くより早く、俺は踏み込んだ足へ力を込めた。
「悪いが、これ以上は付き合えない。俺も帰って、飯を食いたいんでな」
右腕に残していた闘気を解き放つと、魔王の口から声にならない息が漏れた。
城全体を震わせていた魔力が途切れ、巨体が玉座の前へ崩れ落ちる。ひび割れた床を転がった王冠が、俺の靴先に当たって止まった。
しばらくその場を動かず、鑑定で生命反応と魔核の崩壊を確かめた。死んだと思って背を向け、起き上がった敵に襲われる失敗は、もう懲りている。
今度こそ、終わったらしい。
肩の傷を治しながら息を吐いた途端、血と埃に汚れた広間が白く塗り潰された。
次に足裏が触れたのは、傷ひとつない白い床だった。
「見事だった、龍宮寺敦。これで、あの世界は救われる」
目の前に立つ白髪の男は、俺をこの世界へ送り込んだ神だった。最初に会ったときと同じ、染みのない白い服を着ている。
こちらは服も靴も血まみれだ。文句のひとつも言いたくなったが、まず確かめるべきことがあった。
「約束は守ってもらうぞ。日本へ帰す。俺が召喚された、その日にだ」
「承知している。身につけた力も、持ち物も、そのまま持ち帰ってよい」
ようやく肩から力が抜けた。
俺は龍宮寺敦、30歳。身長195センチで、昔から横幅もある。仕事先では力仕事を任され、初対面の子供にはよく泣かれた。
そんな身体を持っていても、勤め先の事業縮小には勝てなかった。
リストラされたうえ、会社の寮も退去期限が迫っていた。頼れる家族はおらず、日雇い仕事を拾いながら、次の勤め先と住む場所を探していた。
召喚されたのは、その途中だ。
駅前にいた高校生たちの足元が光り、危ないと思って手を伸ばした俺まで巻き込まれた。気づけば、この白い部屋に立たされていた。
そして神は、挨拶もそこそこに言ったのだ。
『勇者では魔王を倒せない。だから、お前がやれ』
事情を聞けば、勇者の力と魔王の能力の相性が悪いらしかった。そこで別の力を与えられる人間として、巻き込まれた俺が選ばれた。
授かったのは聖者の力に、無詠唱、アイテムボックス、鑑定。そして、闘気を扱うための素質だった。
もっとも、力をもらっただけで魔王に勝てたわけではない。
最初は魔物の爪を避け損ね、骨が折れるたび自分で治した。闘気の扱いを覚え、拳を振るい、助けた人間に飯を食わせてもらいながら、ようやく魔王のところまでたどり着いた。
「帰った先で、力が勝手に暴れることはないんだな。人と握手しただけで骨を折るようじゃ、生活できん」
「そこは心配いらない。お前が覚えた制御も失われない」
「それなら頼む。帰りに寄りたい店がある」
駅前の定食屋で、唐揚げ定食を頼むつもりだった。
異世界にも美味い料理はあったが、炊きたての米と味噌汁だけは、どうにも代わりが見つからなかった。
神が手を上げると、足元から淡い光が広がった。
「よい人生を、敦」
眩しさに目を閉じる。返事をする間もなく、車の走る音が耳へ飛び込んできた。
◇
排気ガスと、どこかの店から漂う揚げ油の匂いがした。
目を開けると、見覚えのある駅前だった。ガラス張りの駅ビルに、バス乗り場。その向こうには、安売りの旗を並べたドラッグストアがある。
あまりの懐かしさに、すぐには足が動かなかった。
胸元へ目を落とすと、着ているのは灰色の作業シャツだった。血に汚れた異世界の服ではない。召喚されたときの服装に戻されている。
ポケットには財布もスマートフォンもあった。
画面の日付は、俺が消えた日と同じ。時刻も、駅前を歩いていた頃からほとんど進んでいない。
「……帰れたんだな」
口にして初めて、実感が湧いた。
誰かに電話しようとして、親指が止まる。無事を知らせる相手はいなかった。それでも、もう魔物の足音で夜中に起こされずに済むと思うと、自然と頬が緩んだ。
財布の中には2860円。
定食を食っても、今日の寝床までは困らない。アイテムボックスには異世界の金貨や素材も入っているから、換金方法を探せば当面の生活費は作れるだろう。
まずは寮へ戻り、退去までに残された日数を確かめる。その前に飯だ。
そう決めて歩きかけた俺は、駅ビルの大型画面を見上げた。
雪に覆われた岩場を、鎧姿の男女が進んでいた。
映画の宣伝にしては、画面の下を流れる文字がおかしい。
『国内最深部更新に期待。第7次攻略隊、明朝出発』
足が止まった。
映像が切り替わり、剣を背負った男が記者に囲まれる。背景には企業のロゴが並び、その下に『攻略支援契約締結』と書かれていた。
周囲を見渡すと、駅ビルの壁に大きな広告があった。
『冒険者傷害保険。ダンジョン内の搬送費用にも対応』
その隣は、魔石の買取価格を表示する看板だった。
さっきまでドラッグストアだと思っていた店も、よく見ると違った。入口に並んでいるのは栄養剤ではなく、初級回復薬と書かれた小瓶だ。
見覚えのある街に、知らないものが混ざっている。
俺は駅前の案内図を確かめた。駅名も地名も間違いない。スマートフォンで地図を開いても、俺が暮らしていた場所だった。
そのまま検索欄へ『ダンジョン』と打ち込む。
攻略情報、事故の速報、装備の通販。冗談では済まない量の情報が出てきた。
基礎知識をまとめたページを開いた俺は、冒頭の文章を読み直した。
世界各地にダンジョンが出現してから、今年で20年。
同時期に人類はステータスを確認できるようになり、魔物の討伐などでレベルが上がること、個人によって異なるスキルが存在することが確かめられた。
そんな出来事を、俺は知らない。
20年前なら、俺は10歳だ。世界中に魔物のいる穴が開いたのなら、忘れようがなかった。
ページを送る指が止まったのは、歴代の到達記録が出てきたときだった。
『現在、公に確認されている最高レベルは268』
俺は人通りの少ない植え込みの脇へ寄り、自分のステータスを開いた。意識を向けるだけで、見慣れた文字が視界に浮かぶ。
【名前:龍宮寺敦】
【年齢:30】
【レベル:673】
【職業:聖者】
【スキル:聖者の力/無詠唱/アイテムボックス/鑑定/闘気体術】
魔王を倒した後の数字から、変わっていない。
鑑定で状態を確かめても異常はなく、魔力も闘気も身体の内側を滑らかに巡っていた。
俺だけが知らなかった、と片づけるには無理がある。
神が送り先を間違えたのか。それとも、俺のいた日本のほうが変わってしまったのか。
白い部屋へ呼びかけても、返事はなかった。
しばらく画面を見つめた末に、俺は息を吐いて検索を続けた。理由が分からなくても、ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
幸い、魔物の素材を買う窓口はある。冒険者として登録すれば、身元を明かして持ち込めるらしかった。
この街にも支部があり、駅から歩いて行ける。
詳しい話を聞くにも、そこがよさそうだった。
地図を確かめて歩き始めた途端、スマートフォンが鋭い警報音を上げた。
同じ音が周囲でも鳴り、駅前にいた人々が足を止める。
『ダンジョン災害情報。駅東地区にて魔物の流出を確認。付近の方は屋内へ避難してください』
音声が流れ終わる前に、東側の通りで悲鳴が上がった。
◇
走ってきた人々の向こうで、配達用のバイクが横倒しになった。
その上を、灰色の大きな獣が飛び越える。肩までの高さが俺の胸ほどもある狼だった。背中には硬い棘が並び、口の端から白い唾液が垂れていた。
視線を向けて鑑定を使うと、情報が浮かぶ。
【種族:アイアンスパインウルフ】
【レベル:46】
【特性:背部硬化/突進】
異世界では、森を抜けるときに何度か出くわした相手だ。
ただ、ここは森ではない。
狼が向かう先に、倒れた自転車と女の人が見えた。その腕の中で、幼い男の子が泣いている。母親は立ち上がろうとしたが、片足が自転車の下から抜けないらしかった。
人混みを押し分ける代わりに、俺は車道側へ出た。
駐車中の軽自動車を回り込み、狼と親子の間へ入る。俺の身体を見て、母親が息を呑んだ。
「動かなくて大丈夫です。お子さんを抱いていてください」
狼が低く唸り、速度を上げた。
拳で正面から止めることはできる。だが、勢いを殺し損ねれば、巨体が親子のところへ転がっていく。
俺は半歩横へずれ、飛びかかってきた狼の首筋を左手でつかんだ。
靴底が路面を擦る。闘気を通した腕で突進を受け止め、獣の頭を親子から引き離す方向へ押さえ込んだ。
牙が作業シャツの袖を裂いたが、皮膚には届かない。
「ここで暴れると、怪我人が増えるんでな」
右拳を、下顎の奥へ短く打ち込んだ。
衝撃を内側へ通すと、狼の脚から力が抜けた。俺は首を支えたまま巨体を路面へ下ろし、鑑定で死んだことを確かめてから手を離した。
辺りの悲鳴が途切れていた。
通りの奥へ目を向ける。こちらへ来る魔物の姿は、今のところ見えない。
俺は親子の前にしゃがみ、自転車を持ち上げた。
「足を抜きます。痛むところがあったら、言ってください」
「私より、息子を……頭を打って、さっきから血が……」
母親の声が震えた。
男の子の額から頬へ血が流れていた。鑑定で確かめると、額の裂傷と打撲。意識はあり、俺のシャツを握る指にも力がある。
「傷を治します。そのまま抱いていてください」
額へ手をかざし、魔力を通した。
淡い光が指の間から広がると、開いていた傷口が閉じていく。男の子が泣きやみ、不思議そうに俺の手を見上げた。
続いて母親の足首へ光を当てる。腫れが引き、傷ついていた筋が元へ戻ったことを確かめてから、俺は手を下ろした。
「もう血は止まりました。ほかに痛むところはありますか」
母親は息子の額を撫で、血で汚れた自分の手と、傷の消えた額を交互に見た。
「ありません……足も、痛くないです。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「立てそうなら、そこの店へ。まだ外にいないほうがいい」
入口から様子を窺っていた店員が、こちらへ走ってきた。
「中へどうぞ。奥に避難できます。お母さん、肩につかまってください」
親子を引き受けた店員に頷き、俺は立ち上がった。
そのとき、道路の向こうで誰かが呟いた。
「今、詠唱してなかったよな……」
スマートフォンをこちらへ向けた男と目が合った。その隣にも、反対側の歩道にも、同じように撮影している人間がいた。
ようやく、そのことに気づいた。
異世界では、魔物を倒して怪我人を治すたび、礼を言われて終わりだった。だが、この日本では事情が違うらしい。
遠くからサイレンが近づき、青い標識のついた車が通りへ入ってきた。
扉を開けて降りたのは、防具の上から紺色の上着を羽織った男だった。倒れた狼を確認すると、すぐに俺へ駆け寄ってくる。
「冒険者協会の現場対応班です。討伐したのは、あなたですか」
「そうです。負傷した親子は、そこの店へ避難してもらいました」
「ご協力に感謝します。ほかの流出個体は封鎖区域で対応中ですので、こちらは我々が引き継ぎます。確認のため、冒険者証を拝見できますか」
男の視線が、俺の裂けた袖から素手へ移った。
それでも不審者を見る顔にはならず、証明書が出てくるのを待っている。俺は空の両手を見せた。
「まだ持っていません。登録の相談に行くところでした」
男が黙った。
狼を見て、親子の入った店を見て、もう1度俺へ目を戻す。
「失礼ですが、現在のレベルを伺ってもよろしいですか」
公開されている世界最高が268だったことを思い出した。
答えた後で面倒が増える気はしたが、助けに入った説明で嘘を重ねるのも違う。俺は男の目を見て、数字を告げた。
「673です」
男は何か言いかけたまま、口を閉じた。
その手の無線機から、別の現場の報告が流れてくる。男は呼びかけられてようやく我に返り、俺から少し離れて送信ボタンを押した。
「駅前の個体は討伐済みです。負傷者2名、救護済み。協力者の登録確認をお願いします」
そこで声を落としたが、俺にははっきり聞こえた。
「それから、支部長に連絡を。測定担当も呼んでください。至急です」
俺は裂けた袖を指で寄せた。
帰ってきたばかりだというのに、もう仕事着を駄目にした。せめて登録の窓口が閉まる前に話を聞ければいいと思っていたが、担当者のほうから来てくれるらしい。
足元の狼へ目を落とし、もう1つ気になっていたことを尋ねた。
「この魔物、買い取ってもらえるんですか。できれば、今日中に」
男は俺の顔をしばらく見つめた後、ようやく頷いた。
それを見て、腹の底から安堵した。
どうやら、この日本でも飯は食っていけそうだった。
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