少しの不在
告白に初デート、ジェットコースターみたいに事が起きていた夏休みも終盤に近付くにつれて落ち着いた元の同棲生活に戻って行く。
彼女は料理の練習をさらに深めていて、朝食が豊かになっていた。
枠を完全に預けたのは正解だったみたいだ。
勉強の方もトップクラスの学力を持つ彼女に教えてもらったり、割と遅くまで勉強していたりするため、かなり力が付いた感じがする。
まあ、そうは言っても校内のテストだけじゃなく、模試なども受けて初めて実感に変わるものではあるけど。
もう彼女が隣に居るのが当たり前のように感じ始めている。
手を伸ばせばすぐに触れられる距離だ。
実際、頭を撫でるなどの昔からのスキンシップはお互い頻繁にやっていて、なにか手持ち無沙汰になったらとりあえず撫でているといっても過言ではない。
ただ──それが少しの間それがお預けになるイベントが夏休みの終わりに舞い込んできた。
「あ、お母さんからメッセージ来てる」
彼女と俺がいつものように向かい合って夕食を食べていた時、食卓の上に置いてあった彼女のスマホが鳴った。
「珍しいな綾香さんがメッセージなんて」
(まあ、うちの親もあまり連絡してこないけど)
「家族旅行だって、どうしよう・・・・」
「行って来ればいいんじゃないか」
「寂しくない・・・・?」
俺があまりにもあっさりと答えたせいか彼女は不安気に聞いてきた。
「メッセージもあるし、通話も出来る。もちろん触れられる距離に居ないのは寂しいけどな」
「そっか、じゃあ行って来ようかな」
「おう、綾香さんも喜ぶだろ」
その一言は余計だったらしく、彼女に鋭い視線を向けられてしまう。俺は頬をかいて言い直す。
「ま、まあ楽しんで来いよ」
俺は機嫌を直してもらおうと慣れた手付きで彼女の頭を撫でる。彼女はくすぐったそうに目を細めて、俺が手を離すとこちらを見つめて小さな声でぽつりと呟く。
「ずるい」
「ずるい?」
「なんでもない」
どういうことだろう、俺はただ機嫌直しに撫でてみたのだけど、彼女はどうも不服そうだ。
この方法は幼い頃からやっていて今まで成功率は完璧に近かったのだが。
上手くいかないケースもあるみたいだ──。
甘くみていた。
そう思ったのは翌日、彼女が旅行へ出掛けた後の静まり返ったリビングで久しぶりに一人で朝食を取っている最中のことだった。
向かい合って話す人もおらず、自分以外の生活音が聞こえない空間というのはこれほどまでに寂しいものなのか。
そんな、前途多難な一日のスタートの中にも希望はあった。
『おはよう天音』
おそらく今までの人生でスマホの通知音に対してこれほど喜びを感じたことはない。しかもメッセージの送信時間が俺の起き出して朝食を食べ始める時間と重なっている。
『おはよう涼香』
俺は続けてメッセージを打ち込む。
『よく俺が起きてるって分かったね』
『当たり前だよ、伊達に同じ屋根の下で暮らしてません』
(まあ、それもそうか)
さらにメッセージが送られてくる。
『どう? 私が居ない朝の時間は』
おそらく、分かっていてあえて聞いてきているのだろう。たまにこういう意地悪をしてくるのが彼女のスタイルの一つでもある。
『ああ、辛すぎるから、代わりにぽん太を撫でてるよ』
彼女がぽん太やこの前買ったイルカのぬいぐるみを他人に触らせることはない。理由は聞いたことないけど。とにかく徹底している。
『ぽん太はここに居るし、ていうか慌てて探しちゃったじゃん』
メッセージを見て慌てて旅行バッグをあさる彼女の姿を想像して思わず頬が緩む。
『そういうことするなら、我慢比べだから』
『我慢比べ?』
そのメッセージの意味をとっさには理解しきれなかった。寝起きのぼんやりとした頭の鈍さが残っていたのもあるだろうけど。
午前中から夕方までは掃除をしたり、勉強をしたり、本屋で時間を潰したりして寂しさを紛らわせていた。
彼女からのメッセージは我慢比べで止まっていて、空が茜色に変わっても既読は付いているけど返信は返ってこなかった。
(我慢比べってそういうことか・・・・)
外が薄暗くなり夜が訪れ始めた時、とうとうやることがなくなった俺は一日通して裏で膨れ上がっていた寂しさが爆発して早々にギブアップすることにした。
とにもかくにも今は彼女からの返信が一つでも欲しい。
『負けだ、ギブアップ』
そう打ち込んで返信を待つ。
しかしどういうことわけか返信はおろか既読すら付かなかった。
夕飯時になっても、お風呂上がりになっても変わらない。
自分の身体がいつもより重いことに気が付いたのは、いよいよ寝室に入ろうとした時だった。
ベッド脇にスマホを置いて、布団に入った時、ようやく彼女から着信が来る。
「ごめん、お母さんに振り回されてて連絡とれなかった」
「綾香さんらしいね、でも正直参ったよ早く帰ってきてくれ」
「う、うん。天音大丈夫?」
「ちょっと身体だるいけど、大丈夫」
正直なところ、寝室に入る前の身体の重さはどんどん酷くなってきている。節々が痛くて少し寒いのは熱が出ているサインかもしれない。
夏風邪でも引いたのか、タイミングが悪いなと思いつつも彼女が帰ってくるまで大人しく寝ているしかない。
「涼香」
「ん? やっぱりなんか具合悪そうだよ」
「ありがとう」
ここで急にこの言葉が出て来た理由、彼女には伝わるだろうか、当たり前だと思っていた隣に彼女が居るということが、いかに特別なことか俺は今日一日で実感した。
「こちらこそだよ天音、すぐ帰るからね」
通話を切った後、目を閉じて眠りに付けば夢の中で俺は彼女の頭を撫でていた。艶のあるさらりとした髪の感触とくすぐったそうにする彼女の表情は鮮明でとても微笑ましい夢だった──。




