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欠落印は、死者の名前を消すための印ではない

古い監査室の封印が押された救助依頼控えのせいで、ギルドの昼の仕事はまた止まった。


 止まったのは、大きな事件の調査だけではない。


 薬房へ戻す治癒布の精算札。北門行き馬車の護衛受付。新人班の半日手当。遺品棚の端に置かれた、誰にも渡せない革手袋。


 受付前の列は、朝より長くなっている。


「今度は十年前の紙切れかよ」


 新人剣士ラッドが、剣帯を鳴らして吐き捨てた。


「俺たち、昨日からずっと待ってるんだぞ。出発は止める、手当は止まる、今度は死んだ奴の名前まで数え直すのか」


「ラッド」


 治療師ユナが小さくたしなめたが、その声にも疲れがあった。彼女は薬房へ返すはずの治癒布を抱えたまま、何度も受付棚を見ている。布を返せなければ、次の患者へ回す分が足りない。


 過去の事故は、過去だけに眠っていない。


 閉じられない札は、今日の薬と馬車と宿代を止める。


 カイは机の上に三枚の記録を並べた。


 十年前の北坑道救助依頼控え。


 帰還確認札の写し。


 装備貸出帳の破れた一ページ。


 どれも端に、右上がりの青い線がある。三番照明石の煤と同じ角度。だが、今日カイが見ていたのは線だけではなかった。


 救助依頼控えの担当者名の上に、赤い欠落印が押されている。


 その下には、薄く残った文字があった。


 レオ・マルシュ。


 北坑道二班、荷運び兼予備灯係。


「その名は消せ」


 主任ボルクが低く言った。


「欠落印がある。死亡処理済みだ。十年前の未帰還者を今さら戻しても、誰も助からん」


「戻すのではありません」


 カイは帰還確認札を指で押さえた。


「閉じないだけです」


「同じことだ。死者の名を残せば、遺族補償も再審になる。北坑道の通行許可も止まる。Sランク事故の調査だけでも迷惑なのに、古い死人まで掘り返すな」


 通路の空気が重くなる。


 死者。


 その言葉は便利だった。一度そう呼べば、手袋も、未精算の治療費も、戻らなかった照明石も、ただの棚の奥の物になる。


 カイは赤い欠落印を手に取った。


「欠落印は、死者の名前を消すための印ではありません」


 小さな判子の木の柄は、何度も握られ、角が丸くなっていた。古い記録係たちが、閉じてはいけない欄の横へ押してきた印だ。


「死亡確定なら、黒い閉鎖印が押されます。遺体確認、遺族通知、装備返却、補償受領。その四つが並んで初めて、帰還札は閉じられる」


 カイは十年前の帰還確認札を開いた。


 レオ・マルシュ。


 帰還時刻、空白。


 装備返却、革手袋片方のみ。


 照明石、未返却。


 補償受領、空白。


 死亡確定欄、黒印なし。


 代わりに、名前欄の横に赤い欠落印。


「これは、閉じるな、という印です。誰かが死んだかもしれない。けれど、帰還条件も、失った物も、誰に返すべきかも分かっていない。だから消すな、と残すための印です」


 ラッドが息を呑んだ。


「じゃあ……その人は」


「生きているとは言えません」


 カイは首を振った。


「でも、死者として処理していいとも言えません。少なくとも、レオさんの革手袋と照明石は、誰かの棚で止まっています。補償札も、遺族の手に届いていません」


 ユナが、治癒布の包みを抱き直した。


「それ、薬房の未返却布と同じです。返したか分からないまま閉じると、次の患者の分が消えます」


「はい」


 カイは頷いた。


「人の帰還札も同じです。戻ったか分からない名前を消すと、次に誰が同じ条件で戻れないのか、分からなくなります」


 ボルクが机に手をついた。


「綺麗事を言うな。古い印の意味など、お前が決めることではない」


「俺が決めているのではありません」


 カイは装備貸出帳の破れたページを重ねた。


 十年前、北坑道二班。


 貸出照明石、三番。


 返却欄、空白。


 点検者欄、空白。


 右上がりの青い線。


 そして、昨日ガルドの腕から強化魔法を抜いた三番照明石。


「同じ装備番号が、十年前から閉じていません。レオさんの名前を消すと、三番照明石がいつ、誰を通って戻ったのかも消えます」


 ガルドが、吊った腕を押さえながら前へ出た。


「その名を読め、カイ」


 通路が静まった。


 カイは一瞬だけ目を伏せ、それから帰還確認札をまっすぐ見た。


「レオ・マルシュ。北坑道二班、荷運び兼予備灯係。帰還条件未完了。革手袋片方のみ返却。照明石三番、未返却。補償札、未受領」


 ユナが羽根ペンを取った。


「仮未帰還札、作ります」


 彼女の手は震えていた。それでも、昨日自分の名前を書いた時より、線はまっすぐだった。


 レオ・マルシュ。


 未帰還。


 閉鎖不可。


 照明石三番に関する再調査まで保存。


 カイはその横へ赤い欠落印を押した。


 消すためではない。


 消されないための印として。


 受付前の列の奥で、年老いた荷運びが帽子を脱いだ。


「……レオの名を、まだ呼んでいいのか」


 誰も答えられなかった。


 けれどガルドが、低い声で復唱した。


「レオ・マルシュ」


 ラッドが乱暴に視線を逸らす。ユナは治癒布を胸に抱いたまま、小さく頭を下げた。


 小さな報酬だった。


 死者が帰ったわけではない。十年前の事故が解けたわけでもない。三番照明石の危険が消えたわけでもない。


 それでも、ひとりの名前は、便利な死亡処理の下で潰されずに済んだ。


 遺品棚の革手袋には、もう「不明品」とだけ書かれた札を付けないで済む。


「ボルク主任」


 カイは仮未帰還札を机の中央に置いた。


「この札が閉じるまで、三番照明石に関わる出発札は青い保留印の対象です。北坑道二班の記録も、監査室封印の写しと照合します」


「お前……どこまで記録室を止める気だ」


「止めません」


 カイは答えた。


「帰る条件を、閉じてから進めます」


 その時、装備貸出帳の破れ目から、小さな紙片が落ちた。


 古い探索階層図の切れ端だった。


 北坑道の奥に、公式地図にはない細い通路が引かれている。そこには、古い字で短く書かれていた。


 第七層仮到達。


 けれどギルドの公式記録では、十年前の北坑道二班は第三層で全滅扱いになっている。


 カイの指先が冷えた。


 レオ・マルシュは、帰れなかっただけではない。


 到達していないはずの階層から、帰還札だけが戻っている。

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