Sランク盾役の折れた腕は、魔物の牙ではありません
白銀の槍の盾役ガルドが腕を折ったせいで、ギルドの朝は止まっていた。
止まったのは、誇りや名声だけではない。
北門行きの馬車が一台、出発札を受け取れずに待っている。新人班の初任務手当は保留になり、治療師ユナは薬房へ返すはずだった治癒布を抱えたまま、受付横で小さく肩をすぼめていた。
「Sランクが怪我したからって、俺たちの採集依頼まで遅れるのかよ」
「昨日から宿を延ばした分、誰が払うんだ?」
通路に並ぶ探索者たちの不満は、カイの机へ向いた。
青い保留印。
昨夜、カイが押したその印のせいで、三番照明石を使う予定の出発札はすべて止まっている。
「見ろよ。無能ログ係が、とうとうSランク様の腕まで書類で診断するらしいぞ」
誰かが笑った。
カイは顔を上げなかった。
笑われることより、机の上の帰還確認札が一枚だけ閉じられていないことのほうが、ずっと気になっていた。
盾役ガルド。
帰還時刻、二十一時四十六分。
負傷欄、左腕骨折。
原因欄、黒狼型の牙。
そこに、薄く乾いた青い煤が残っている。
「カイ」
低い声がした。
片腕を吊ったガルドが、治療室から出てきた。大男の顔色はまだ悪い。だが、彼は通路の笑い声を背中で受け止めるように、カイの机の前へ立った。
「俺の腕を、もう一度記録で見てくれ」
ざわめきが消えた。
主任ボルクが慌てて前に出る。
「ガルド殿、必要ありません。黒狼型の異常発生として処理します。Sランクの事故を長引かせると、依頼主も不安に――」
「長引かせたくないから来た」
ガルドは吊った腕をわずかに持ち上げた。
「この腕が、魔物の牙で折れたことになるなら、次の盾役も同じ折れ方をする」
カイは、帰還確認札の横に事故ログ帳を開いた。
昨夜の記録。
二十時十二分、支援術師ミラ、後方照明を再展開。
二十時十三分、黒狼型三体が左通路より突入。
二十時十四分、盾役ガルド負傷。
何度読んでも、行間の沈みは同じだった。
「牙痕の記録を見せてください」
「お前に――」
ボルクが遮ろうとしたが、ガルドが首を振った。
「見せろ。俺が頼んでいる」
ユナが治療布の包みを持って近づいた。
「治療室の写しです。包帯交換の時刻と、魔力残留の色だけなら、私にも分かります」
彼女の声はまだ細い。けれど、昨日のように名前欄を空白にしたままではなかった。
ユナ・リーフ。
治療師。
青い保留印の隣に、その名前はきちんと書かれている。
カイは写しを受け取った。
牙痕なし。
裂傷なし。
骨折方向、外側から内側ではなく、内側から外側。
治癒布に残った魔力色、強化魔法の銀ではなく、照明石の青。
「魔物に噛まれた腕ではありません」
カイは言った。
「内側から、強化魔法だけを引き抜かれています。盾を支える力が抜けた瞬間、ガルドさん自身の防御姿勢が腕を折ったんです」
通路の奥で誰かが息を呑んだ。
ボルクの顔が赤くなる。
「馬鹿な。そんなことがあるか。照明石は灯りを出す道具だ。魔力を吸う道具ではない」
「普通はそうです」
カイは貸出控えを重ねた。
照明石三番。
返却時刻、二十一時五十二分。
冷却確認、丸。
残滓抜き、空白。
点検者署名、空白。
そして、その上から押し潰したような丸印。
「けれど三番照明石は、返却札が閉じる前に再貸出されています。帰還確認札が閉じていない装備は、次の出発札へ移せません」
「またそれか。書類の順番など――」
「順番ではありません」
カイはガルドの帰還札を指で押さえた。
「戻った人が、何を失って戻ったのかを数えるための札です。ここを黒狼型で閉じると、ガルドさんの腕から抜けた強化魔法は、どこにも残りません。次に同じことが起きても、また魔物のせいになります」
ガルドが、低く笑った。
怒りを押し殺したような笑いだった。
「俺の腕が、魔物の手柄になるわけか」
「はい」
カイは頷いた。
「そして、三番照明石を点検しなかった誰かの空白になります」
沈黙が落ちた。
その時、ユナが治癒布の端をめくった。
「カイさん。この青い線、昨日の札についた煤と同じ向きです」
治癒布の繊維に、細い青い線が残っていた。
右上がり。
昨日、焼け端に残っていた訂正癖と同じ角度。
カイは事故ログ帳の古いページを開く。
十日前、北坑道。
七日前、水晶回廊。
三日前、第三迷宮。
どのページにも、消された一行の端に、同じ右上がりの青い線があった。
「……同じです」
ユナの声が震えた。
「全部、同じ人が?」
「同じ筆圧か、同じ訂正印か、同じ照明石です」
カイは欠落印を手に取った。
「まだ断定できません。けれど、少なくともガルドさんの帰還札は、黒狼型では閉じられません」
ボルクが机を叩いた。
「勝手なことをするな! Sランク事故の訂正には、主任印がいる!」
「なら、俺が依頼を出す」
ガルドの声が、通路の天井を震わせた。
彼は右手で、自分の帰還確認札をカイの前へ押し出す。
「白銀の槍、盾役ガルド名義。昨夜の事故原因について、ギルド記録室へ正式調査を依頼する」
「ガルド殿!」
「黙れ、ボルク」
ガルドは初めて、主任を名前で遮った。
「俺は戦える。だが、折れた腕の理由までは見えなかった。こいつは戦えない。だが、俺が帰ってきた札の空白を見た」
大男の視線が、カイへ向く。
「カイ・レンド」
名前を呼ばれた瞬間、カイの指が止まった。
無能ログ係ではない。
戦えない雑用でもない。
事故ログを読む者として、Sランクの盾役が、彼の名前を呼んだ。
「俺の盾の前に、お前のログを置け。次に同じ青い線を見つけたら、俺が止まる」
通路の誰も笑わなかった。
カイはガルドの帰還札に、赤い欠落印を押した。
原因欄、黒狼型の牙。
その上には書かない。
空白を消さないために、横へ新しい行を足す。
原因再調査。
照明石三番、残滓抜き未了。
強化魔法逆流疑い。
青い線、右上がり。
「これで、ガルドさんの腕は魔物だけの記録ではなくなります」
ユナが小さく息を吐いた。
新人班のラッドが、気まずそうに目を逸らす。
小さな報酬だった。
腕が治ったわけではない。犯人が分かったわけでもない。三番照明石の危険が消えたわけでもない。
それでも、ひとりの負傷は、自己責任でも魔物の手柄でもなくなった。
帰ってきた人間が、何を失ったのかを、札の上で数え直せるようになった。
「カイさん」
ユナが、古い事故ログの束を抱えてくる。
「北坑道の記録、これだけじゃありません。倉庫の奥に、同じ日付の救助依頼控えがあります」
彼女が置いた紙の端にも、青い煤がついていた。
右上がり。
ただし、今度は訂正線ではない。
救助依頼を受けた担当者名の上に、薄くかすれた印影が残っている。
古い監査室の封印。
十年前に閉じられ、いまは誰も使っていないはずの部署名だった。
カイは、その印影を見つめた。
三番照明石の事故は、始まりではない。
閉じられたはずの監査室が、まだ誰かの帰還札を空白に戻している。




