新人班は、臆病ではなく帰還札で止めます
点検棚の奥で、三番照明石だけが青く瞬いていた。
弱い光だ。灯りというより、息を潜めている獣の目に近い。
カイが棚の前に立つと、背後の通路から不満の声が飛んだ。
「いつまで待たせるんだよ。初任務手当が出なきゃ、今夜の宿代が足りないんだけど」
「ログ係が怖がっただけで出発停止? 俺たち、新人だからって舐められすぎだろ」
新人班の剣士ラッドが、わざと大きく剣帯を鳴らした。治療師ユナは杖を抱いたまま、列の端で唇を噛んでいる。
彼女だけではない。
初任務の日に出発できないことは、命が助かったかもしれない、という綺麗な言葉だけで済まない。宿代、装備レンタル料、家へ送るはずだった初日の報告。探索者になった、と胸を張るための小さな予定が、ひとつずつ欠けていく。
主任のボルクは、それをよく分かっていた。
「聞いたか、カイ」
太い指が、カイの肩越しに点検棚を指す。
「延期した分の宿代を、お前が払うのか? 依頼の採集品が遅れたら、薬房から苦情が来る。ギルドの信用にも傷がつく。ログ係が一行の空白を見つけたくらいで、現場を止めるな」
「一行ではありません」
カイは帰還確認札の束を机に広げた。
昨夜の《白銀の槍》。盾役ガルド、帰還。支援術師ミラ、帰還。照明石三番、返却。
そして、今日の新人班。ラッド、ユナ、ほか三名。貸出装備、照明石三番。
札の上では、同じ番号が二度、短い間隔で並んでいる。
「返却から再貸出まで、三十二分しかありません」
「だから何だ。照明石の確認なんて、光れば終わりだ」
「光ることと、安全に帰れることは違います」
カイは三番照明石の横に差された細い板を抜いた。点検者欄。そこには、名前がない。
本来なら、返却後に三つの欄が埋まる。
冷却確認。
魔力残滓抜き。
点検者署名。
けれど三番照明石だけ、冷却確認の欄に薄い丸があり、残滓抜きと署名は空白のままだった。丸のインクもおかしい。上から押しつけたように紙の繊維が潰れている。
「危険だから止めるんじゃありません。帰還札が閉じていない装備は、次の出発札に移せません」
通路の笑い声が、一瞬止まった。
ラッドが顔をしかめる。
「難しいこと言って誤魔化すなよ。俺たちは臆病者じゃない」
「臆病かどうかは、札に書く項目ではありません」
カイは新人班の出発確認札を一枚取った。
「書くのは、名前、役割、持ち出す装備、戻った時刻。それだけです。怖いかどうかは書かなくていい。けれど、帰る名前は先に書かなければいけません」
ユナの手が、杖の上で小さく震えた。
彼女の札だけ、名前欄が空いている。
「……私」
ユナは小さな声を出した。
「治療師なのに、行きたくないって言ったら、みんなの足を引っ張ると思って」
「行きたくない、ではありません」
カイは青い保留印を取り出した。
「三番照明石が点検未了です。だから、この札は保留になります。ユナさんの勇気の問題ではなく、ギルドの手順の問題です」
「おい、勝手に新しい印を――」
ボルクが怒鳴りかけた、その時だった。
三番照明石が強く瞬いた。
棚の上の青い光が細く伸び、ユナの杖の先へ触れようとした。カイは反射的に札束を間に差し込む。
紙が、ひやりと冷えた。
ユナが息を呑む。杖に巻かれた治療用の白糸が、一本だけ灰色に変わっていた。
「今、何をした」
ラッドの声から、勢いが消えていた。
「俺は何もしていません」
カイは照明石を見た。
石はまた、何事もなかったように弱く光っている。だが、帰還確認札の端に残った青い煤は、時刻を示す細い線になっていた。
「十八時二十九分。未出発の治療師から、魔力を吸おうとしました」
「未出発で?」
入口に立っていたガルドが、吊った腕を庇いながら近づいてきた。
白銀の槍の盾役は、青ざめた顔でユナの杖を見た。
「俺の腕が折れた時も、治療師の灯りが先に沈んだ。誰も黒狼のせいにしたがったが、最初に消えたのは魔物じゃない。味方の支援だった」
通路の空気が重くなる。
ラッドは唇を開いたが、何も言えなかった。
カイはユナの前へ、出発確認札を置いた。
「ここに名前を書いてください。保留印を押します。これは罰ではありません。帰る条件が揃うまで、あなたの名前を札の上で守る印です」
ユナは震える指で羽根ペンを取った。
ユナ・リーフ。
治療師。
三番照明石、点検未了につき保留。
最後の線を書き終えた時、彼女の肩から力が抜けた。
「怖いって、言わなくていいんですね」
「言ってもいいです」
カイは青印を押した。
「でも、言えなくても止まれるように、札があります」
ガルドが片腕の指で、その青印を軽く叩いた。
「俺は、その札を書かずに出た。だから、何が戻らなかったのか説明できなかった。新人ども、笑うなら俺から笑え」
誰も笑わなかった。
ラッドは乱暴にペンを奪うと、自分の札へ名前を書いた。
「……点検が終わったら、行くからな」
「そのための保留です」
カイは頷いた。
出発停止ではない。
帰還条件未完了。
たったそれだけの言い換えで、通路に立つ新人たちの顔から、臆病者の烙印が少しだけ剥がれた。
だが、小さな安堵は長く続かなかった。
カイが点検棚の控え箱を開けると、三番照明石の貸出控えだけが抜かれていた。
代わりに入っていたのは、焼け端の黒い紙片。
そこには、消えかけた署名がひとつ残っている。
ボルク主任の印ではない。
白銀の槍の誰の名でもない。
十日前の北坑道、七日前の水晶回廊、三日前の第三迷宮。
事故ログ帳の古い空白に残っていた訂正癖と、同じ右上がりの線だった。
カイは欠落印を握り直す。
誰かは、点検していないのではない。
点検したことを、空白に戻している。




