事故ログの空白行
探索者ギルドの地下記録室で、カイはまた「無能」と呼ばれた。
「ログ係なんて、戦えない奴の逃げ場だろ」
受付横の通路で、若い探索者が笑っている。剣の柄を鳴らし、銀色の胸当てを光らせ、今日も迷宮へ入る者たちの列を追い越していく。
カイは反論しなかった。
戦えないのは事実だ。
剣を握れば手首を痛める。魔法を放てば小さな灯りを三秒保つだけで息が切れる。探索者登録試験では、攻撃、防御、回復、どの適性も最低評価だった。
ただひとつ、彼にできることがある。
誰も読み返さない探索記録を、読むことだ。
机の上には、黒い表紙の事故ログ帳が開かれていた。
昨夜、Sランクパーティー《白銀の槍》が第三迷宮で撤退した。死者は出ていない。けれど盾役が腕を折り、魔導士が魔力酔いで倒れ、支援術師は「黒狼型の魔物に襲われた」とだけ証言している。
ギルドの結論は早かった。
黒狼型の異常発生。討伐依頼を増やす。
そのため、同じ装備で新人班が昼前に出発することになっている。
「カイ、写し終わったら棚に戻しておけ」
主任のボルクが、分厚い指でログ帳を叩いた。
「Sランクの判断に口を挟むなよ。お前は記録係だ」
「はい」
カイは頷いた。
頷きながら、赤い欠落印を手に取る。
事故ログの八行目。
『二十時十二分、支援術師ミラ、後方照明を再展開』
九行目。
『二十時十三分、黒狼型三体が左通路より突入』
十行目。
『二十時十四分、盾役ガルド負傷。撤退判断』
普通に読めば、照明を焚いた直後に魔物が来た。そう見える。
だが、カイには行間が黒く沈んで見えた。
照明を再展開したなら、魔力痕跡は後方へ伸びるはずだ。添付された写し紙では、青い線が前方から後方へ逆流している。まるで照明魔法そのものが、前にいた誰かの魔力を引っ張り戻したように。
そして、八行目と九行目の間に、誰かが消した一行がある。
インクの乾き方が違う。紙の繊維が一度だけ起きている。支援術師の署名欄は震えているのに、報告者の訂正印だけが妙にまっすぐだ。
「……黒狼じゃない」
カイは小さく呟いた。
主任が眉をひそめる。
「何か言ったか」
「黒狼型の突入だけでは、盾役の腕はあの方向に折れません。支援照明が、誰かの強化魔法を逆流させています」
記録室が静かになった。
すぐに笑い声が返ってくる。
「ログ係がSランクの事故原因を読むのか?」
「現場を見てないくせに」
カイは唇を結んだ。
現場は見ていない。
けれど、現場から戻ってきた紙は見ている。
紙は、臆病な人の言葉を残す。強い人が消したがる失敗も残す。負傷者がうまく説明できなかった痛みも、時刻と魔力の向きだけは嘘をつかない。
「新人班の装備を止めてください」
カイは言った。
「同じ支援照明を使うなら、次も逆流します。魔物が来る前に、味方の強化魔法で前衛が倒れます」
主任の顔が赤くなる。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか。白銀の槍の報告が間違っていると言うのか」
「報告が間違っているのではありません」
カイは事故ログの空白へ、赤い欠落印を押した。
「足りない行があります」
その音は小さかった。
けれど、通路の列でひとりだけ足を止めた少女がいた。
新人班の治療師、ユナだ。まだ新品の杖を胸に抱き、出発確認札を握っている。
「主任さん」
ユナは震える声で言った。
「私たち、白銀の槍と同じ照明石を借りています」
「黙っていろ。新人は出発準備を――」
「待ってください」
カイは机の端に積まれた帰還確認札を取った。そこには昨夜戻った者の名前と、戻らなかった装備の番号が並んでいる。
白銀の槍の照明石、三番。
新人班へ貸し出された照明石、三番。
同じだ。
ただの偶然ならいい。
だが、事故ログ帳の欠落行と、貸出棚の空白札が同じ番号を指していた。
「三番照明石を点検棚へ戻してください。新人班の出発は、点検が終わるまで延期です」
「お前にそんな権限はない!」
「あります」
意外な声が割り込んだ。
入口に、片腕を吊った大男が立っている。白銀の槍の盾役、ガルドだった。
彼は青ざめた顔で、カイの押した欠落印を見つめていた。
「俺は、黒狼に噛まれたんじゃない。左腕が内側から引っ張られた。言っても、疲労の錯覚だと言われた」
ガルドの声が低く震える。
「そのログ係の言う通りだ。照明が光った瞬間、前衛の強化魔法が逆に流れた」
通路の空気が変わった。
主任は何か言いかけ、ガルドの折れた腕を見て黙った。
ユナが、握っていた出発確認札をそっとカイの机に置く。
「延期でお願いします。私、帰還確認札に名前を書いてから帰りたいです」
カイは頷き、札の横に小さな青印を押した。
出発延期。
臆病の印ではない。
帰るための印だ。
新人班の列が崩れ、照明石三番が点検棚へ戻される。棚の奥で、石は一度だけ不自然に青く瞬いた。
カイの背筋に冷たいものが走った。
照明石の誤作動ではない。
誰かが、照明石を通じて強化魔法を吸い上げている。
しかも、事故ログ帳の古いページにも、同じ乾き方の空白が三つあった。
十日前。北坑道。
七日前。水晶回廊。
三日前。第三迷宮。
カイは赤い欠落印を握り直した。
無能ログ係。
そう呼ばれてもいい。
でも、名前のある札が空白のまま帰ってこないのだけは、もう見たくなかった。
「主任」
カイは黒い事故ログ帳を閉じずに言った。
「この欠落、今回が初めてじゃありません」




