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未踏破階層の攻略ログは、帰還札の裏に残っていました

朝のギルドで一番先に止まったのは、未踏破階層の調査ではなかった。


 新人班の装備貸出だった。


「照明石を二つ借りるだけだぞ」


 ラッドが受付台に両手をついた。


「今日は第三層まで。北坑道二班の古い事故とは関係ないだろ。宿代も食費も、待つだけで減るんだ」


 彼の後ろで、ユナが薬袋を抱えている。包帯と小瓶の数は昨日より一つ増えていた。止められる側の顔ではなく、止める理由を探す側の顔だった。


 カイは、机の上に昨日の仮未帰還札を置いた。


 レオ・マルシュ。

 未帰還。

 閉鎖不可。

 照明石三番に関する再調査まで保存。


 その裏に、細い階層図の切れ端が貼りついていた。


「関係あります」


「また止めるのか」


「止めるためではありません」


 カイは帰還札を裏返した。


「帰る条件を、先に読むためです」


 裏面には、血でも泥でもない茶色の擦れが残っている。照明石の煤が湿った革に移った跡だ。線は三つ。どれも右上がりに引きずられていた。


 そして、擦れ跡の下に、古い鉛筆の字がある。


 第三層北壁、風なし。

 四層落差、予備灯一つ失う。

 五層水音、声を返さない。

 七層仮到達。帰還線は西ではない。


「七層……?」


 ユナの声が小さく揺れた。


 受付前のざわめきが、一度に低くなる。


 ギルドの公式地図では、北坑道は第三層で終わっている。十年前の北坑道二班も、第三層で全滅処理。新人講習でもそう教える。


 だから、第三層までなら安全。


 そういう言葉で、今日も何人かが出発しようとしていた。


「おい、待てよ」


 ラッドが身を乗り出した。


「それが本物なら、すごい攻略情報じゃないか。七層までの道があるってことだろ。なら、むしろ上に報告して――」


「違います」


 カイは首を振った。


「これは進むための地図ではありません」


 帰還札の端に、爪でこすったような短い傷がある。階層図の線よりも、そちらの方が深い。


「レオさんは、道順を綺麗に残していません。敵の位置も、宝箱も、階段の数も書いていない。書いてあるのは、戻れなくなる条件だけです」


 カイは紙片の一行を指で押さえた。


「風なし。予備灯を失う。水音が声を返さない。帰還線は西ではない」


 ガルドが、吊った腕を押さえながら低く言った。


「帰還線……戻るための目印か」


「はい」


 カイは頷いた。


「北坑道では、西へ進むと地上側へ戻ると教えられています。けれどこの札は、七層仮到達地点では西が帰還線ではない、と書いている」


「じゃあ、どっちへ戻るんだよ」


「まだ分かりません」


 ラッドの眉が吊り上がる。


「分からないなら、結局止めるだけじゃないか」


「分からないから、止める条件を作れます」


 カイは青い保留印を取った。


 昨日までは、押すたびに誰かが嫌な顔をした印だ。出発を止める。貸出を止める。馬車を止める。手当の処理を遅らせる。


 けれど、止めること自体が目的ではない。


「青い保留印は、臆病者の印ではありません」


 カイは新しい板を一枚、受付台の横に立てた。


 新人用安全チェック板。


 まだ何も書かれていない木板に、ユナが息を呑む。


「最上段は、これです」


 カイは羽根ペンを取り、ゆっくり書いた。


 一、帰還線が未確認の階層へは進まない。


「二つ目」


 ユナが自分から口を開いた。


「治療師の声が返らない水音の場所では、傷病者確認をしない。声が届かないなら、呼吸確認もできません」


 カイは頷き、二行目を書いた。


 二、水音で声が返らない場所では、治療確認を行わず引き返す。


 ラッドが不満そうに唇を曲げた。


「……新人にも読める言葉にしろよ。帰還線って言われても分からない」


 その一言で、受付前の空気が少し変わった。


 止められる側だったラッドが、板の前に立った。


「つまり、帰りの印がない場所には行くな、だろ。あと、予備灯一つ失ったら戻れ。二つ借りてるから一つ残れば進める、とか考える奴が出る」


「それは大事です」


 カイは三行目を書いた。


 三、予備灯を一つ失った時点で帰還。残り一つは進むためではなく帰るために使う。


 ラッドは目を逸らした。


「別に協力してるわけじゃない。分かりにくい板で死ぬのが嫌なだけだ」


「それで十分です」


 小さな報酬だった。


 七層の秘密が解けたわけではない。レオ・マルシュが帰ったわけでもない。三番照明石を誰が戻したのかも、まだ分からない。


 それでも、昨日まで遺品棚の奥で不明品扱いだった帰還札は、今日の新人班を帰すための三行になった。


 古い未帰還者の名前が、今いる誰かの帰り道を守った。


「では、今日の第三層通常調査は」


 受付係が恐る恐る尋ねる。


「この三項目を読んで、ラッドさんたちが自分の名前で確認札を書いてからです」


 カイは言った。


「ギルドが許可したから進むのではなく、自分たちが帰る条件を読んでから進んでください」


 ユナがすぐに羽根ペンを取った。


 ラッドは一拍遅れ、乱暴に名前を書いた。


 帰還線未確認なら進まない。

 声が返らない水音では戻る。

 予備灯を一つ失ったら帰還。


 その三行の下に、二人の名前が並ぶ。


 カイは青い保留印を、板の横へ押した。


 出発不可、ではない。


 帰還条件確認済みまで保留。


 主任ボルクが、階段の影からそれを見ていた。


「勝手な板を増やすな」


「勝手ではありません。仮未帰還札に残った条件を、今日の貸出手順へ戻しただけです」


「十年前の死人の落書きで、ギルドの地図を疑うのか」


「死人と決まっていません」


 カイはレオの札を閉じずに置いた。


「それに、これは落書きではありません。帰還できなかった人が、次の人を帰すために残したログです」


 ボルクの頬が強張った。


 その時、ガルドが公式地図を持ち上げた。昨日の事故調査で使った、北坑道第三層までの最新版だ。


「カイ」


「はい」


「この地図、第三層の西壁だけ紙の厚さが違う」


 カイは地図を受け取り、光に透かした。


 西壁の線が、一度削られ、その上から太く描き直されている。


 そして、削られた古い線の先に、帰還札の裏と同じ右上がりの煤跡があった。


 公式地図から消されていたのは、七層へ進む道ではない。


 帰ってくるための線だった。

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