返却者空白の別ダンジョン事故
カイが安全チェック板の端に、新しい欄を一本引いたときだった。
ギルド受付の奥から、乾いた紙束が滑る音がした。
「別支部から照会です。東坑道第五支部、三年前の事故台帳。こちらの照明石三番の件と、署名者が同じだそうで」
受付係のミラが、迷うように紙束を抱えてきた。
ラッドが顔をしかめた。
「また古い事故かよ。俺たちの出発と関係あるのか?」
「あるかどうかを、今から確認する」
カイは紙束を受け取った。
表紙には、整った文字でこう書かれていた。
『東坑道第五支部・小隊帰還事故。処理済み』
その下に、見覚えのある署名があった。
王都攻略組・装備監査補佐、エルネスト・レイ。
ユナが息を呑む。
「声返り欄の人と、同じ……?」
「同じ名前だ。けど、名前を犯人欄に入れるのはまだ早い」
カイは机の上に、三枚の紙を並べた。
一枚目。七層帰還線が消された公式地図。
二枚目。返却済みとされた照明石三番の貸出台帳。
三枚目。東坑道第五支部の事故台帳。
紙の端はそれぞれ違う色に焼け、日付も支部名も違う。
だが、空いている欄だけが同じだった。
「ここを見てくれ」
カイは指先で、三枚目の下段を叩いた。
『装備返却者』
その欄は、白いままだった。
「返却者が空白なのに、事故は処理済みになってる」
ラッドが覗き込み、眉を寄せた。
「返した人間が書き忘れたんじゃないのか?」
「書き忘れなら、未処理に戻す欄がある。ほら、横に『帰還未確認』欄があるだろう」
カイは横の小さな枠を指した。
そこにも、何も書かれていなかった。
帰った者にも入らない。
帰っていない者にも入らない。
それなのに、表紙だけが処理済みになっている。
ユナが小さく言った。
「その人は、どこに数えられるんですか」
「数えられていない」
カイの声は、紙の上に落ちた。
「死者名簿にも、負傷者名簿にも、帰還者名簿にもいない。返却者欄が空白のまま閉じられると、その人は捜索棚から落ちる」
ミラが、古い台帳を震える手で押さえた。
「でも、処理済みなら、支部はもう探していない……」
「そうだ。だからこれは、誰が悪いかを決める紙じゃない。まだ、誰を探すべきかを戻す紙だ」
ラッドは黙った。
いつもなら、早く出発しようと舌打ちするところだった。
だが彼の視線は、空白の返却者欄から動かなかった。
「……俺たちが帰ってきても、返した奴の名前が空なら、同じことになるのか」
「なる」
カイは安全チェック板を引き寄せた。
そこには、昨日まで三つの欄しかなかった。
一、帰還線確認。
二、照明石逆流試験。
三、声返り元確認。
カイは四つ目の欄を書き足した。
『返却者欄空白時、装備を貸出可能に戻さず、未帰還棚へ移す』
受付の奥で、誰かが息を吸った。
「それをやると、出発待ちが増えます」
上級探索者の一人が言った。
「古い事故まで引っ張り出して、現場を止める気か」
カイは顔を上げた。
「止めるんじゃありません。戻すんです」
「何を」
「帰っていない人を、探される場所へ」
短い沈黙が落ちた。
ユナが、治療灯の貸出台帳を開いた。
「東坑道第五支部の事故日、治療灯の貸出記録がありません。負傷者が出たなら、最低一本は動くはずです」
ミラも別の紙をめくる。
「装備返却時刻は、事故日の翌朝八時。けれど、門番の開門記録は七時五十分で途切れています。返却した人の入門記録も、ありません」
ラッドが喉を鳴らした。
「物だけ戻って、人は戻ってないってことか」
「その可能性がある。だから、犯人欄ではなく未帰還棚だ」
カイは青い保留札を一枚取り、空白の返却者欄に重ねた。
札には、こう書いた。
『返却者本人確認待ち。装備・声・治療灯・帰還線を同時照合すること』
それから、ラッドの前に差し出す。
「君の今日の出発も、この欄に関わる。署名するかどうかは、自分で決めてくれ」
ラッドはすぐには手を伸ばさなかった。
仲間たちが見ている。
上級探索者も、受付係も、笑う者はいなかった。
ラッドはペンを取った。
「俺は、臆病だから止まるんじゃない」
彼は、自分の名前を書いた。
「返ってくる条件が、まだそろってないから止まる」
ユナも続けて、治療担当の欄に署名した。
「治療灯の貸出なしでは、負傷者を帰還者に戻せません」
ミラは受付確認欄に、日付と時刻を書き込んだ。
「本支部安全チェック板、四項目目を仮運用にします」
カイは、三年前の事故台帳を閉じなかった。
閉じないまま、未帰還棚の一番上に置いた。
表紙の『処理済み』の横に、青い札が重なる。
『未確認へ差戻し』
それだけで、古い名前が生き返るわけではない。
けれど、もう空白のまま棚から落ちることはない。
「これで少なくとも、この支部では」
カイは安全チェック板を壁に掛け直した。
「返却者の名前が空白の装備は、誰かを帰還済みにしません。未帰還者として探します」
ラッドが小さくうなずいた。
さっきまで急いでいた出発口の列が、少しだけ静かになった。
その静けさの中で、ミラがもう一束の紙を持ってきた。
「カイさん」
「今度は何だ」
「東坑道だけじゃありません。西灰洞、南裂け目、黒水洞……同じ様式の事故台帳が、七件あります」
紙束の端に、同じ署名。
同じ返却者空白。
同じ、治療灯貸出記録なし。
カイは一枚目を開いた。
空欄は、一枚ではなかった。




