声返り確認済み、と書かれた未帰還者
エルネスト・レイ。
その署名を見た瞬間、主任ボルクは口を閉じた。
怒鳴らない主任は、怒鳴る主任よりもずっと分かりやすい。カイは焦げた貸出票を、青い保留板の上へ置き直した。
照明石三番、北坑道二班。
返却者、空白。
返却時刻、二刻三十七分。
声返り確認済み。
最後の一行だけ、妙にきれいだった。
「声返り確認済み、なら問題ないだろう」
ボルクが低く言った。
「十年前の監査補佐が確認した。王都攻略組の印もある。これ以上、古い紙切れをいじるな」
「確認済み、という言葉が一番危ないんです」
カイは事故ログ帳を開き、白い余白へ線を引いた。
誰の声か。
いつ返ったか。
どの灯から返ったか。
治癒魔力を流す前か、後か。
返らなかった場合、誰が未確認にしたか。
「声が返った、だけでは帰還確認になりません」
ユナが小さくうなずいた。
「負傷者がいる時は、治療灯の魔力が混じります。さっきの逆流試験でも、声が壁から戻らず、足元の煤だけ浮きました」
「つまり」
ラッドが貸出票を覗き込む。
「この“確認済み”は、どこから声が返ったかを書いてねえのか」
「はい」
カイは焦げた欄の端を、灯りに透かした。
削られた名前が一つ、熱で薄く浮く。
レオ・マルシュ。
新人二人が息をのんだ。半日保留札に署名した少年と少女は、出発荷物をまだ抱えている。行けなかった不満より、自分たちの名前も同じ欄で閉じられるかもしれない怖さの方が、顔に出ていた。
「レオさんは、死んだことを隠されたんじゃありません」
カイは声を落とした。
「声が返らなかった事実を、手順から消されています」
「死人を利用して、今日の出発を止める気か」
ボルクの手が、貸出票へ伸びた。
その前にラッドが、照明石三番を抱え直した。
「主任。俺の声で試せ」
「ラッド、お前まで」
「俺、さっき“返るじゃねえか”って言った。確認済みってやつを、俺も簡単に信じた」
ラッドは試験壁の前へ立ち、ユナへ顎を向ける。
「今度は、どの灯から返ったかまで書け。俺の名前で」
小さな報酬は、こういう瞬間に生まれる。
手順を面倒がっていた少年が、手順の中へ自分の名前を入れたがる。その一行だけで、青い保留札はただの禁止札ではなくなった。
ユナは治療灯を一つ、試験壁の右端へ置いた。予備灯を左端へ。照明石三番を中央へ。
「一回目、治癒魔力なし」
カイが記録する。
「ラッド・フェン」
ラッドが名乗ると、壁の奥から少し遅れて声が返った。
『ラッド・フェン』
カイは書く。
返声元、試験壁。遅延、二呼吸。
「二回目、治癒魔力あり」
ユナが治療灯へ細い魔力を流す。
照明石三番の青が白く反転した。
ラッドが同じ声で名乗る。
「ラッド・フェン」
壁は沈黙した。
代わりに、右端の治療灯の中から、濁った声が返る。
『……ラッド、フェン』
新人の少女が、荷物の紐を握りしめた。
「壁からじゃない……」
「はい。帰還線ではなく、治療灯へ声が吸われています」
カイは新しい欄を作った。
声返り別灯確認欄。
返声元、治療灯。
治癒魔力注入時、帰還線未確認。
出発は本人署名により半日保留。
ラッドは迷わず署名した。
「臆病じゃねえ。帰る条件が足りねえだけだ」
その言葉で、少年探索者の肩が少し下がった。少女も、半日保留札の下へ自分の名前を書き足す。
ユナが治療班の貸出札を持ってきた。
「治療灯を持つ班は、声返り元を別欄で確認するまで出発不可。これを仮運用にします」
「勝手な規則を増やすな!」
「規則ではありません。未帰還者を増やさないための未確認欄です」
カイは古い貸出票へ、青い仮復元印を押した。
レオ・マルシュ。
未帰還時、声返り元未確認。
確認済みとして閉じない。
押印の音は小さい。
けれど、十年前に消された名前が、初めて今日の手順を守った。
レオさんの声は、まだ戻っていません。
だから、次の人の声を同じ欄で閉じません。
カイがそう記した時、ボルクの顔から血の気が引いた。
「その印を消せ」
「消せません。消す場合は、誰の声が、どの灯から、いつ返ったかを書いてください」
答えはなかった。
代わりに、管理室の奥で古い棚が軋んだ。ユナが見つけたのは、王都攻略組の装備監査台帳だった。
同じ署名。
エルネスト・レイ。
別ダンジョン、別装備、別班。
けれど、閉じ方だけが同じだった。
声返り確認済み。
返却者、空白。
治療灯、貸出記録なし。
カイはページを閉じなかった。
閉じてはいけない声が、まだ何人分も残っていた。




