第9話 エラー・コード
四月に入って数日。
都心部の手狭な賃貸マンションのベランダからは、歩いてすぐの距離にある公園のソメイヨシノが見えた。満開のピークを迎え、春の少し湿り気を帯びた生ぬるい風が吹くたびに、淡いピンク色の花びらが宙を舞い、我が家のベランダのコンクリートにもいくつか舞い込んできている。
役所と児童相談所という巨大な行政システムのファイアウォールを無事に突破し、無戸籍児童の仮就学と見守りステータスをもぎ取ってから数日。数日後には小学校の入学式と、新中三になるゆういちの始業式が控えていた。
リビングの隅には、私が駅前の百貨店で調達した真紅のランドセルが、真新しい日常の始まりを強烈に主張するように誇らしげに置かれている。
「ゆう君、こっち向いて。あー、やっぱり少し大きいわね。でもすぐに背が伸びるから大丈夫よ」
休日の午前中。五十三歳の由里子が、入学式に着るための真新しい紺色のスーツを六歳のゆうに試着させている。
徹底したミニマリストであり、無駄な出費を極端に嫌うあのおかあさんが、である。かつて十四歳のゆういちが小学校に入学する際は、「どうせすぐにサイズアウトするんだから」と、親戚のお下がりやリサイクルショップで済ませていたはずだ。しかし今回は、「特別な日なんだから、ちゃんとしたものを着せてあげなきゃ」と、百貨店の子供服売り場でわざわざ新品を買い揃えてきたのだ。彼女のシステムは、六歳の無邪気さという強力なマルウェアによって完全に書き換えられ、今やゆうを甘やかすためだけの専用マシンと化している。
「ママ、首のところ、ちょっとチクチクする」
ゆうがネクタイの結び目を気にして首をすくめると、由里子は「ごめんねぇ、すぐ直すわね」と、まるで腫れ物にでも触るかのような手つきでシャツの襟元を整えてやっている。
「おい、おかあさん。いくらなんでも過保護すぎないか。あいつ、少しチクチクするくらい自分で我慢できる年齢だぞ」
私がコーヒーメーカーに豆をセットしながら呆れて言うと、由里子はスーツの裾を直したままクルリとこちらを向き、ピシャリと言い放った。
「お父さんは黙ってて。ゆう君はね、来週から見知らぬ小学校に通うっていう、とてつもないストレスを抱えてるのよ。親戚と離れ離れになって、無戸籍のまま不安な毎日を過ごしてきたんだから。せめて家の中くらい、思い切り甘えさせてあげなきゃ可哀想じゃない」
「……その割には、さっきからおかあさんの方が嬉しそうに着せ替え人形を楽しんでいるように見えるがな」
由里子自身が、私たちが役所をハッキングするためにでっち上げた「DV親族から逃げてきた無戸籍児童」というロジックに、誰よりも深く感情移入してしまっている。ミニマリストとしての強固な防衛線は、完全に跡形もなく消え去っていた。
「ただいまー……」
玄関の重い鉄扉が開き、春休みの部活の朝練から帰ってきた十四歳の新中三、ゆういちがリビングに顔を出した。
彼は首からタオルを下げ、トランペットのハードケースを床にドサッと置いた。
以前のゆういちなら、少しでも指使いが上手くいかなければ「あー、もう! 俺には無理だ!」とすぐに楽器を放り出し、スマートフォンに逃げ込んでいただろう。だが、先日六歳の自分から直球のエールを受け取り、セルフ・ハンディキャッピングの分厚い装甲を自ら剥がして以来、あいつの練習態度は劇的に変わった。来月の定期演奏会でのソロ演奏からも逃げず、自宅でもミュート(弱音器)をつけて真剣に音を鳴らしている。
「おかえり、ゆういち。お昼、サイゼのテイクアウト買っておいたわよ。辛味チキンも多めにしておいたからね」
由里子が声をかけると、ゆういちはテーブルの上のプラスチック容器を見て目を輝かせた。
「マジで? やった。部活で腹減って死にそうだったんだよ」
ゆういちは洗面所で手を洗い、すぐに戻ってくると、自分の分の辛味チキンとミラノ風ドリアを掻き込み始めた。
「ああっ! それ、僕も食べる!」
スーツを脱いでグレーのスウェットに着替えたばかりのゆうが、身を乗り出した。
「はあ? お前、さっきホットケーキ食ってただろ。これは俺の分」
「僕もチキン食べるの! お兄ちゃん、一個ちょうだい!」
「だめ。俺、マジで腹減ってんだよ」
十四歳のゆういちと、六歳のゆう。
年齢も体格も全く違う二人だが、食の好みに関するソースコードは寸分違わず完全に一致している。マクドナルドのポテト、焼肉のカルビ、そしてサイゼリヤの辛味チキン。八年という時を隔てても、あいつらのDNAに刻まれた「好きな食べ物」の変数は変わらないらしい。
「こら、ゆういち。ゆう君に一個くらい分けてあげなさいな。お兄ちゃんでしょ」
由里子がたしなめると、ゆういちは露骨に嫌な顔をした。
「母さん、マジで最近こいつに甘すぎ。俺が小学生の時、そんなに甘やかしてくれなかったじゃん」
「あんたはあんた! ゆう君はゆう君でしょ。ほら、ゆういち、早く食べなさい」
由里子が無理やり理屈をねじ曲げると、ゆういちは「意味わかんねぇ」とぼやきながらも、渋々、一番小さな辛味チキンをフォークに刺して、ゆうの皿にポンと置いてやった。
「やったぁ! お兄ちゃん、ありがとう!」
ゆうは満面の笑みでチキンに噛み付いた。
「……別に。骨あるから気をつけろよ」
ゆういちはそっぽを向きながらドリアを頬張っているが、その耳の裏が少し赤くなっているのを私は見逃さなかった。なんだかんだ言って、この反抗期の十四歳も、自分の分身である無邪気な弟の存在を、この手狭なマンションの中で完全に受け入れている。
すべてが、完璧だった。
私が引いた設計図は完全に機能し、家族というシステムはかつてないほど美しく、そして不条理なバランスで稼働している。物理的なクリアランス(隙間)のなさが、かえってこの奇妙な同居生活の密度を高め、家族の絆を再構築する接着剤の役割を果たしていた。
だが、システムの不具合を長年監視してきた設計士としての私の直感は、同時に冷酷なアラートを鳴らし始めていた。
あまりにも、完璧すぎる。
タイムパラドックスという物理法則の根幹を揺るがす異常事態が、こんな手狭な賃貸マンションの一室で、いつまでも許容されるはずがない。
その「前触れ(ノイズ)」が明確に表に現れ始めたのは、その日の夕方のことだった。
昼食後、ゆういちが自室で机に向かい、由里子が夕食の支度でキッチンに立っていた時のことだ。
私はローテーブルで、ゆうと一緒にダイソーの『蟲神器』のカードを並べていた。彼のお気に入りの「ヘラクレスオオカブト」と、私の「オオカマキリ」が対峙している。
「レッドとーちゃん、キーック!」
ゆうが手元のカードを盤面に叩きつけた、その直後だった。
ドンッ、と鈍い音がして、ゆうが後ろに倒れ込んだ。
「おっと、どうした、ゆう。勢い余ったか?」
私が手を伸ばそうとした時、ゆうは尻餅をついたまま、不思議そうに自分の背後を振り返った。そこには、手狭なマンションのリビングと廊下を仕切る、木製の引き戸がある。
「……あれ?」
ゆうは、引き戸の表面をペタペタと小さな手のひらで触った。
「パパ。ここ、壁じゃなかったっけ?」
「ん? いや、ここは廊下に続くドアだぞ。お前、さっきもここを通ってトイレに行っただろ」
私が答えると、ゆうは首を傾げ、目を白黒させた。
「ううん。ここは壁で、ドアはもっと、あーっちの方にあるはずだよ」
彼は、何もないリビングの空間を指さした。
「それから、ソファーはもっと大きくて、テレビの横には、僕のおもちゃ箱があったのに……」
私の背筋に、氷のような冷たい汗がツーッと流れ落ちた。
ドアがあっちの方にあり、ソファーが大きく、テレビの横におもちゃ箱があるリビング。
それは間違いなく、八年前に私たちが住んでいた、あの郊外の二階建ての戸建ての間取りだ。
彼の視覚システムにおいて、この二〇二六年の現在と、二〇一八年の過去の空間座標が、一瞬だけオーバーラップした(重なった)のだ。
「……気のせいだよ、ゆう。寝ぼけてるんじゃないか?」
私は極めて努めて平坦な声を出した。だが、マグカップを握る手には無意識に力が入っていた。
「そっかぁ。僕、寝ぼけてたのかな」
ゆうはすぐにニコッと笑い、再びカードに向き直った。
だが、ノイズはそれだけでは終わらなかった。
夕食時。
今日のメニューは、ゆうの好物である焼肉だ。由里子がホットプレートを出し、カルビやロースを焼き始めている。
「ほら、ゆう君、お肉焼けたわよ。熱いからフーフーしてあげるわね」
由里子が小皿に肉を取り分け、息を吹きかけて冷ましていると、ゆうが突然、箸を止めて由里子の顔をじっと見つめた。
「ママ」
「なあに、ゆう君?」
「ママ……なんで、そんなにシワシワになったの?」
その場にいた全員の動きが、ピタリと停止した。
焼肉の煙を吸い込む換気扇の音だけが、やけに大きく手狭なダイニングに響く。
由里子は、トングを持ったまま完全にフリーズしていた。十四歳のゆういちも、口に肉を含んだまま目を丸くしている。
「シワシワ……?」
由里子の声が、微かに裏返った。
ゆうは、自分が言ってしまった言葉の意味を理解していないかのように、コテリと首を傾げた。
「うん。さっきまで、ママのお顔、もっとツルツルだったのに。髪の毛も、ちょっと白くなってる」
彼は、五十三歳の由里子の顔と、彼が本来記憶している四十五歳の由里子の顔の差分を、唐突に検知してしまったのだ。
「あ、いや……それはだね、ゆう」
私が慌てて設計図を修正しようと口を開きかけた時、ゆうはパチパチと瞬きをし、そして何事もなかったかのように笑顔に戻った。
「ううん、なんでもない! ママ、お肉ちょうだい!」
「……え、ええ。はい、どうぞ」
由里子は引きつった笑顔で肉を皿に乗せた。
私は、向かいに座る十四歳のゆういちと視線を交わした。あいつの目にも、明確な焦燥の色が浮かんでいた。
空間座標のズレ。そして、人物の年齢という時間軸の認識エラー。
システムファイルのコンフリクト(競合)が、彼の脳内で頻繁に起き始めている。
クリアランス(隙間)がゼロになりつつある。世界が、この巨大な矛盾を修正しようと、歪んだ時空を元の形に強制的に引き戻そうとしているのだ。
食事が終わり、ゆういちが自室へ戻り、由里子が片付けをしている間、私は一人、リビングのソファに深く沈み込んでいた。
部屋の隅では、十八年物の液晶テレビが、夜のバラエティ番組を映し出している。
昨日、私は彼に「秘密のミッション」を与えた。元の世界に帰還したら、このテレビの裏に油性の黒マジックで『☆』のマークを描くというプロトコルだ。
私は、その決断が正しかったことを確信していた。
別れの時は、もうすぐそこまで迫っている。
「……お父さん」
洗い物を終えた由里子が、エプロンを外しながら私の隣に座った。
彼女の顔には、先ほどの「シワシワ」と言われたショックよりも、もっと深く、切実な不安が刻まれていた。
「今日……あの子の様子、おかしかったわよね」
由里子の声は、微かに震えていた。
「壁がないところにドアがあるって言ったり、私の顔を見て不思議そうな顔をしたり……まるで、急に夢から覚めかかっているみたいだった」
「……ああ」
私は短く答えた。
「私、なんだか怖いの。あの子が、ある日突然フッといなくなっちゃうんじゃないかって。四月から一緒に小学校に通うって、私、本気でそう思い始めてたのに。赤いランドセルも買って、名前のシールも貼って……」
由里子の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
徹底したミニマリストであり、過去を振り返らない彼女が、この一ヶ月でどれほど六歳のゆうに依存し、愛情を注いできたか。そのリソースの大きさを考えれば、この強制終了が彼女に与えるダメージは計り知れない。
「大丈夫だ、おかあさん」
私は、彼女の震える肩を抱き寄せた。
「俺たちは、十分にやった。無戸籍児童の設定で役所を突破し、あいつがこの時代で生きるための図面を完璧に引き上げた。あいつも、この手狭なマンションでの生活を楽しんでくれたはずだ」
「でも……お別れも言えずに消えちゃうなんて、あんまりじゃない」
「消えるんじゃない。あいつは、あいつの本当の場所に戻るだけだ。十四歳のゆういちの歴史を、正しく繋ぐためにな」
私は、壁一枚隔てた隣の部屋に視線を向けた。
そこからは、ゆういちがシャーペンを紙に走らせる微かな音が聞こえてくる。あいつもきっと、弟がもうすぐいなくなることを感じ取っているはずだ。だからこそ、今、必死に机に向かっているのかもしれない。過去の自分に恥じないように。
夜の九時。
彼が寝る準備をする時間だ。
ゆうは、洗面所で歯を磨き終えると、いつものように玄関の三和土にぺたんと座り込み、今日外で履いていたグレーのマジックテープ式スニーカーを、小さな手で丁寧に並べていた。
私が駅前のモールで買い、ベロの裏に油性のマジックで私の図面引き特有の筆跡で『勇一』と書き込んでやった、あの新しい靴だ。
「よし、これで明日も早く走れる!」
ゆうは靴のつま先をミリ単位で揃え、満足そうに立ち上がった。
「おやすみなさい、パパ。おやすみなさい、ママ。おっきいお兄ちゃんも、おやすみ!」
彼はリビングの奥に向かって元気よく手を振った。
「おう、おやすみ」
自室のドアを少しだけ開けて、十四歳のゆういちが短く答えた。その声は、いつもより少しだけ優しく、そしてどこか寂しげだった。
手狭な寝室に、三組の布団が川の字に敷かれている。
私と由里子の間に、小さなゆうが潜り込む。
電気を消すと、部屋は深い暗闇に包まれた。隣からは、すぐにゆうの規則正しい寝息が聞こえ始めた。
私は暗闇の中で、目を開けたまま天井を見つめていた。
布団越しに伝わってくる、六歳の子供の確かな体温と、寝返りを打つたびに私のお腹に当たる小さな足。
この質量が、この温かさが、明日もここにあるという保証はどこにもない。
世界というシステムが再起動すれば、キャッシュメモリに保存されたこの奇妙で愛おしい一ヶ月のデータは、跡形もなく消去されてしまう。
私が昨日インストールした、テレビの裏に星を描くというプロトコル。
あいつは、本当に覚えていてくれるだろうか。
元の世界に戻った時、ママに怒られる恐怖を乗り越えて、私との約束を果たしてくれるだろうか。
私は布団の中でそっと手を伸ばし、ゆうの小さな頭を撫でた。
柔らかく、細い髪の毛の手触り。
「……よく頑張ったな、ゆう。立派なエージェントだ」
声に出さずに、唇だけでそう呟いた。
時計の針が、深夜零時を回るカチッという音が、静かなマンションの部屋に響いた。
エラーコードは、すでに静かに実行され始めている。
私はその夜、何度も目を覚まし、その度に隣に小さな体温があることを確認してから、また浅い眠りへと落ちていった。
明日が、永遠に来なければいいと、設計士らしからぬ非論理的な祈りを胸に抱きながら。




