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第10話 ログの確定

四月四日の朝。

目覚めた瞬間、私は直感的に「その時」が来たことを悟った。

いつもなら、手狭な寝室の布団の中で、私と由里子の間に挟まれた六歳のゆうが、寝相悪く私の腹に足を乗せていたり、寝言で「マック……」と呟く声で起こされたりする。

だが、今朝の空気はひどく静かで、そして冷たかった。

「……ゆう?」

私は身を起こし、薄暗い部屋の中を見回した。

布団のシーツには、小さな体が丸まっていた窪みと、わずかな温もりだけが残されている。トイレかと思って洗面所の方へ耳を澄ませたが、水音はしない。

「おかあさん。ゆうがいないぞ」

「え……?」

隣で寝ていた由里子が、目をこすりながら起き上がった。

「トイレじゃないの? それか、もう起きてリビングでテレビ見てるとか」

「いや、音がしない」

嫌な予感が、胸の奥で急速に膨れ上がった。

私は慌てて立ち上がり、リビングの引き戸を開けた。無人の部屋。冷たいフローリング。十八年物の液晶テレビは沈黙を保っている。

奥の部屋のドアを開ける。十四歳のゆういちが、ベッドで大の字になって爆睡しているだけだ。

「ゆう君! ゆう君!」

由里子が血相を変えて家中を探し回り始めた。手狭なマンションだ。隠れる場所なんて、クローゼットの中かベランダくらいしかない。だが、どこにもいない。

私は玄関へ向かった。

三和土たたきの上には、私の革靴、由里子のパンプス、そしてゆういちの巨大なスニーカーが並んでいる。

だが、そこにあるはずの一足が、綺麗に消え失せていた。

私がモールの子供服売り場で買い、ベロの裏に油性ペンで私の図面引き特有の筆跡で『勇一』と記名してやった、あのグレーのマジックテープ式スニーカー。

昨夜、ゆうは「明日も早く走れるように」と言って、それを玄関の真ん中にミリ単位で揃えて置いてから布団に入ったのだ。

そして、リビングのソファの上には、彼が自分で選び、由里子と一緒に「一年二組 勇一」と名前のシールを貼った真紅のランドセルが、ポツンと取り残されていた。

まるで、この時代での自分の役割を終えた抜け殻のように。

「お父さん……いないわ。どこにもいない!」

由里子がパニックになりかけながら、私の腕を強く掴んだ。

「玄関の鍵は閉まってるし、チェーンもかかったままなのに、どうやって外に出たの? まさか、誘拐……?」

「落ち着け、おかあさん」

私は由里子の肩を両手で抱き、自分自身にも言い聞かせるように低く、ゆっくりと言った。

「外に出たんじゃない。靴ごと、消えたんだ。元の世界に、帰ったんだよ」

「帰った……?」

騒ぎを聞きつけたのか、十四歳のゆういちが目をこすりながらリビングに出てきた。

「朝からうるせーな……何? ゆうがどうかしたの?」

「いなくなった」

私が短く告げると、ゆういちの動きがピタリと止まった。彼はソファの上の赤いランドセルを見つめ、それから玄関の三和土を見た。

「……マジかよ。帰ったのか、あいつ」

ゆういちの声には、驚きよりも、どこかぽっかりと穴が空いたような喪失感が滲んでいた。

私自身もそうだった。いつかこの日が来ることは、設計図の初期段階から想定していた。タイムパラドックスという不条理なバグが、永遠に続くわけがない。システムはいつか、あるべき元の状態へと収束していく。それが物理法則というものだ。

だが、頭では理解していても、腹の底から湧き上がる不条理な喪失感はどうにもならなかった。

彼は無事に元の時代――八年前のあの日へ帰還できたのだろうか。それとも、時空の狭間のようなデータのゴミ捨て場にバグとして処理され、永遠に消え去ってしまったのではないか。

その確認が取れないことが、設計士としての私には何より耐え難かった。

「……テレビだ」

私は不意に呟いた。

「お父さん?」

「テレビの裏を確認する」

私は靴を脱ぎ捨て、リビングの隅に鎮座する二〇〇八年製の分厚い液晶テレビに駆け寄った。

数日前、私はゆうに秘密のミッションを与えていた。

『もし元の世界に帰れたら、ママに見つからないように、すぐうちのテレビの裏に油性ペンで星のマークを描け。それが、お前が無事に帰還したっていう合図だ』

見るのが怖かった。

もしテレビの裏に何もなかったら。それは彼が元の世界に帰れなかったこと、あるいは彼との一ヶ月が、単なる我々の集団幻覚だったことを意味してしまう。

私は深呼吸をし、重いテレビの縁を両手で掴んだ。

「お父さん、何を……」

由里子が怪訝な顔で近づいてくる。ゆういちも不思議そうに私の背中を見つめている。

私は意を決して、テレビを少しだけ手前に引き出し、その黒いプラスチックの背面を覗き込んだ。

薄暗い隙間に、窓からの朝の光が差し込む。

私の心臓が、大きく跳ねた。

そこには、昨日描かれたような、マジックの真新しい黒い線はなかった。

代わりにあったのは――除光液でゴシゴシと擦られ、インクがプラスチックの凹凸に染み込んで消えきらず、輪郭がぼやけてすっかり古びてしまった、『☆』のマークの痕跡だった。



「…………あっ」



私の口から、声にならない空気が漏れた。

脳の奥底のアーカイブから、八年前のある記憶のデータが、凄まじい勢いで解凍されていく。

二〇一八年、三月。

ショッピングモールの帰りに、車の中で突然目を覚ました六歳のゆういち。

家に帰るなり、テレビの裏に潜り込んでマジックで落書きをし、由里子にこってりと怒られていた姿。

『信じられない! まだまだ大事に使ってるテレビに、油性ペンで落書きするなんて!』と叫びながら、由里子が除光液でゴシゴシと消していたあの光景。

「おかあさん……これ、覚えてるか?」

私は震える手で、テレビの裏のぼやけた星マークを指さした。

由里子が覗き込み、怪訝そうな顔をした。

「これ、ゆういちが小さい頃に落書きして、私が怒って除光液で消したやつじゃない……。どうしても綺麗に消えなくて、イライラしたのを覚えてるわ」

「この前ゆうと二人の時に約束したんだ。向こうに帰ったらテレビの裏に星マークを書けってな。そうだ。あの時、あいつは……俺に言われたミッションを、帰った直後に実行してたんだ」

俺たちはこの八年間、ずっとこの星マークのついたテレビを見続けていたのだ。大掃除のたびに裏側を拭きながらも、ただの子供のイタズラの跡だと信じて疑わなかった。その『本当の意味』に、今の今まで気づきもしなかった。

過去と未来は、この古びた痕跡を通して、最初から完璧に繋がっていたのだ。

私は、テレビの背面に額を押し当て、乾いた笑い声を漏らした。

笑いが止まらなかった。そして同時に、目の奥が熱くなり、視界がぼやけていくのを止められなかった。

「父さん、泣いてんの?」

ゆういちが、信じられないものを見るような声を出した。

「泣いてない。バグが綺麗に修正されたカタルシスで、涙腺の出力調整がバカになってるだけだ」

私は袖で乱暴に目を拭った。

決して交わるはずのない過去と未来が、この古いテレビの裏で、見事に共鳴レゾナンスしていた。

「……無事に、帰ったのね。あの子」

由里子が、ポロポロと涙をこぼしながら、テレビの裏の星マークをそっと撫でた。

「ああ。俺たちが出した図面通りにな」

リビングに、奇妙な安堵と、温かい静寂が満ちた。

だが、感傷に浸っている場合ではなかった。私はすぐに設計士としての冷徹な思考モードを立ち上げた。

彼が元の世界に帰還したことは、この星マークが証明してくれた。

だが、この二〇二六年の現在において、「彼が消えた」という物理的な事実は、極めて重大なエラーを引き起こす。

我々は役所を騙し、彼を「DV親族から逃げてきた無戸籍児童」として仮就学の手続きに乗せている。児童相談所も「見守り対象」として定期的に訪問してくる手はずになっている。

このまま「いなくなりました。過去に帰ったんです」などと言えば、ただの児童失踪事件として大騒ぎになり、最悪の場合、我々が虐待や殺害を疑われて警察に逮捕される。

「全員、よく聞け」

私は立ち上がり、由里子とゆういちに真剣な顔で向き合った。

「ゆうは元の世界に帰った。俺たち家族にとっては、これでハッピーエンドだ。だが、社会のシステム上はそうはいかない。彼がこの時代にいたという確かな記録ログを残し、かつ俺たちが疑われないための、最後の大掛かりな艤装を行う」

「……どうするの?」

由里子が不安そうに尋ねた。

「偽装設定を、最後まで逆手に取る」

私はスマートフォンを取り出し、画面をタップした。

「市役所と児相に設定したストーリーを思い出せ。『DV夫から逃げていた親戚の子を預かっている』だったな。なら、結末は一つだ」

私は110番のダイヤル画面を開き、通報ボタンを押す直前で指を止めた。

「『今朝起きたら、子供が忽然と姿を消していた。おそらく、居場所を突き止めたDV夫、あるいはその親族が、夜中のうちに合鍵を作るか何かして侵入し、密かに連れ去った(連れ戻した)可能性が高い』……これでいく」

「えっ……警察に、嘘の通報をするの?」

「そうだ。児相の『見守りステータス』と『DV案件』という強力な前振りが、ここで最大の効果を発揮する。行政側は『恐れていた最悪の事態(親権者側による強引な連れ戻し)が起きた』と判断するはずだ。身代金目的の誘拐事件ではなく、あくまで『親族間トラブルによる連れ去り・行方不明』として処理される」

ゆういちが息を呑んだ。

「父さん……それ、マジで言ってんの? 警察が捜査して、防犯カメラとか調べられたらバレるんじゃ……」

「防犯カメラの死角はいくらでもある。靴がなくなっていることも、『連れ去る時に履かせていった』と説明がつく。警察は親戚の身元を洗おうとするだろうが、元々『無戸籍で居場所も点々としていた』という設定だ。行き止まりになるのは目に見えている。俺たちはただ、子供を奪われて取り乱す、悲劇の保護者を演じきればいい」

私は由里子の両肩を掴んだ。

「いいか。これは犯罪隠避じゃない。彼がこの時代に、俺たちと一緒に生きていたという証を、公的な記録として永遠に刻み込むための最後の作業だ。彼が行方不明者としてデータベースに登録されれば、役所が職権で作成しようとしていた住民票や、仮就学の公的記録は、『勇一』という人間が存在した証として、この時代に残り続ける。俺たちが進めていた就籍の手続きも、家裁で完遂させる」

由里子は強く唇を噛み、そして、覚悟を決めたように深く頷いた。

「……わかったわ。あの子の生きた証を残すためね。私、ちゃんと泣いてみせるわ」

「俺も……何も知らないふりをする。あいつは、親戚の勇一だ」

ゆういちも、拳を固く握りしめて言った。

「よし。ミッションの最終フェーズ(出力)だ」

私は深く息を吸い込み、スマートフォンの通話ボタンを押した。

数十分後、手狭なマンションに警察と児童相談所の職員が雪崩れ込んできた。

我々の迫真の演技と、事前に仕込んでおいた「DV案件」の記録が見事に噛み合い、事態は私の引いた設計図通りに「親権者トラブルによる連れ去り事件」として処理されていった。

警察の鑑識が入り、赤いランドセルが証拠品として写真に収められていくのを、私はただ静かに見つめていた。

四月。

桜が散り始めた頃、小学校の入学式が行われた。

そこに、赤いランドセルを背負った勇一の姿はなかった。だが、学校の「新一年生名簿」の末尾には、確かに『勇一』という名前が、行方不明児童として記載され続けていた。

さらに数ヶ月後。

児童相談所と弁護士の連携により、行方不明のまま特例措置として、彼のための「住民票」が職権作成され、最終的に家庭裁判所の手を経て「就籍」の手続きが完了した。

決して戻ってくることのない「勇一」という少年の戸籍が、この二〇二六年の日本の公的データベースに、確固たる事実として誕生したのだ。

それは、設計士である私が、行政システムという巨大な構造物をハッキングし、一人の少年の存在を世界に刻み込んだ、完璧で不条理なログだった。

手狭なマンションのリビングで、私は一人、十八年物のテレビの裏にある古びた星マークを撫でながら、誰にともなくグラスを掲げた。

「ミッション・コンプリートだ、勇一」

バグは修正され、日常は再び静かに回り始める。

だが、この奇妙な一ヶ月間の共鳴レゾナンスは、私の、そして我々家族の設計図を、確かに新しく書き換えていたのだった。

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