追章 ダブル・レゾナンス
「……パパ! パパ!」
助手席からの甲高い声で、私は安い軽自動車のブレーキペダルを少しだけ強く踏み込んだ。
二〇一八年、三月上旬。
ショッピングモールのゲームセンターで、休日のルーティンであるカブトムシなどの昆虫が出てくる『ムシキング』のカードゲームをたらふくやり込んだ帰り道だ。四十一歳の私は、図面引きの激務で慢性的な睡眠不足を抱えており、ダッシュボードの上に散乱した大量の虫のカードを横目に、「これ、またおかあさんに怒られるな」と、帰宅後の防衛戦のシミュレーションをしていたところだった。
「どうした、ゆういち。急に大声出して。カブトムシに挟まれる夢でも見たか?」
横を向くと、ジュニアシートに座っていた六歳の息子が、目をまん丸にして辺りをキョロキョロと見回していた。
つい数分前まで、口を開けて爆睡していたはずなのだが。
「ここ……パパの車だ! パパ、シワシワじゃない!」
「なんだそりゃ。俺はまだ四十一だぞ。シワシワなんて言ったら、おかあさんにほうれい線のクリームを倍塗りたくられる」
私が冗談めかして言うと、ゆういちは自分の両手をじっと見つめ、それから足元を見た。
「……あれ? 僕、くつ履いてる」
「当たり前だろ。モールの駐車場から歩いて車に乗ったんだから」
「ちがうよ! これ、せまいおうちの玄関に置いたやつだもん!」
信号待ちで車を停め、私は不思議に思って息子の足元を見た。
……ん?
彼が履いているマジックテープ式のスニーカー。モールの駐車場を歩いてきたはずなのに、なぜかアスファルトの土汚れ一つなく、新品のゴムの匂いがするほどピカピカだった。
しかも、朝家を出た時にあいつが履いていたのは、青いラインの入ったお気に入りの靴じゃなかったか? 今履いているのは、見慣れない無地のグレーだ。
私の脳内の記憶データベースと、目の前の出力結果が微かにズレている。
「お前、モールで靴なんか履き替えたか?」
「パパが買ってくれたんだよ! マック食べたあと!」
「マックは昨日食っただろ。俺はお前の靴なんか買ってないぞ」
なんだか会話のレイヤーが全く噛み合わない。
まあいい、六歳児の時系列の認識など、AutoCADのバグ以上に当てにならないものだ。
「もうすぐ家に着くぞ。おかあさんがハンバーグ作って待ってる」
「ハンバーグ……! ほんとだ、あっちのママが言ってた通りだ!」
ゆういちはジュニアシートの上でピョンピョンと跳ねた。相変わらず、出力が不安定なやつだ。
*
都心部から車で一時間弱。郊外にある広めの二階建ての中古戸建て。
玄関のドアを開けると、換気扇の回る音と、玉ねぎを炒めるいい匂いが漂ってきた。
「ただいまー」
私が革靴を脱ぐより早く、ゆういちはグレーの真新しいスニーカーを乱暴に脱ぎ捨て、靴下でフローリングを滑るようにしてリビングへ突撃していった。
「ママ! 僕、帰ってきたよ!」
キッチンに立っていた四十五歳の由里子が、フライ返しを持ったまま振り返った。
「おかえりなさい。手洗いとうがい、ちゃんとして……ちょっと、ゆういち、何やってるの!」
由里子の声が一段高くなった。
私がリビングに入ると、ゆういちは洗面所へ向かうどころか、テレビボードの引き出しを漁り、黒い油性のマジックペンを握りしめていた。
そして、我が家のリビングに鎮座する二〇〇八年製の三十二インチ液晶テレビ――新婚当時に買い、由里子にとっては「まだまだ現役の綺麗な家電」である代物――の裏側へと、小さな体をねじ込ませていた。
「おい、ホコリまみれになるぞ!」
私が止める間もなく、テレビの裏からキュッ、キュッ、と、プラスチックにマジックが擦れる嫌な音が響いた。
「ちょっと! 何してんの!」
由里子がエプロン姿のまま飛んできて、テレビの裏からゆういちを引っ張り出した。
ゆういちの右手には、キャップを外した油性マジックが握られている。
由里子が青ざめた顔でテレビの裏側を覗き込んだ。
「ああっ! 信じられない! まだまだ大事に使ってるテレビに、油性ペンで落書きするなんて! お父さん、早く洗面所から除光液とコットン持ってきて!」
「あ、ああ、わかった」
私は洗面所から除光液を取ってきて、由里子に渡した。徹底したミニマリストで、物を汚されることを極端に嫌う彼女は、コットンにたっぷりと液を含ませ、テレビの裏側の黒い背面を親の仇のようにゴシゴシと擦り始めた。
私も横から覗き込む。
そこには、六歳児が描いた、いびつで右側が少し潰れたような『☆』のマークがあった。
「ミッション、せいこう!」
ゆういちは、由里子にこってりと怒られているというのに、なぜか誇らしげに胸を張っている。
「ミッションじゃないわよ! もう、プラスチックの凹凸に入り込んじゃって、完全に消えないじゃない……最悪」
由里子が恨めしそうに拭き取った後には、輪郭がぼやけ、かすれてはいるものの、確かに星のマークの痕跡が薄く残っていた。
「おい、ゆういち。なんでテレビの裏なんかに落書きしたんだ」
私が頭を小突くと、ゆういちは真剣な顔で私を見上げた。
「パパとの約束だもん! 僕、未来を探検してきたんだよ!」
「未来?」
「うん! ちょっとおじいちゃんとおばあちゃんになったパパとママがいたの。おうち、すっごくせまかった! あとね、僕と同じ名前のおっきいお兄ちゃんが、ラッパ吹いてた!」
由里子は除光液の臭いを嗅ぎながら、「変な夢でも見たのね。ゲームのやりすぎよ」とため息をついた。
私も同感だった。六歳児の妄想としてはよくできているが、非論理的すぎる。
「おっきいお兄ちゃんってのは、未来のお前ってことか?」
「うん、お兄ちゃんはもうすぐ『ちゅうさん』になるんだって、じゅうよんさいって言ってたよ!お兄ちゃんは裕一だけど、僕は『勇一』になったの! 勇気のゆういち! それでね、赤いランドセルを買ってもらって、リーダーになるんだよ!」
「赤いランドセルなんておかしいわよ。男の子なんだから」
由里子は呆れたように言いながら、テレビの裏の汚れをもう一度拭いた。
「そうだな」と、私も心の中で同意した。
ついこの間、展示会に行って無難な紺色のランドセルをもう予約して買ったのにな、と。
ゆういちは、自分が体験してきたという未来の出来事を、興奮冷めやらぬ様子で語り続けた。
手狭なマンションに住んでいたこと。
ママがお名前シールを貼ってくれたこと。サイゼリヤの辛味チキンやホットケーキをいっぱい食べさせてくれたこと。
そして、テレビの裏に星のマークを描くという、男同士の重要なミッションをパパから託されたこと。
「だからね、僕が星を描いたら、あっちのパパが安心してバイバイできるんだって!」
ゆういちは、消え残ったテレビの裏の星のマークを指さして、ニカッと笑った。
私は、息子の頭を撫でながら、適当に相槌を打った。
「そうかそうか。そりゃあ大冒険だったな。じゃあ、ミッションも完了したことだし、手を洗ってこい。ハンバーグが冷めるぞ」
「うん!」
ゆういちは満足そうに頷き、洗面所へと走っていった。
私は立ち上がり、玄関に転がっているゆういちの靴を揃えに行った。
そこで、私の手はピタリと止まった。
先ほど車の中で見た、グレーの真新しいスニーカー。駐車場を歩いたはずなのに、なぜか土汚れ一つついていない不可解な靴。
私はそれを手に取り、ふと、マジックテープの裏側、ベロの部分をめくってみた。
そこには、由里子が書いたものではない、少し角張った見慣れた筆跡で、黒々と名前が書かれていた。
『勇一』
私の背筋を、ぞくりとしたものが駆け上がった。
これは、俺の字だ。
図面に寸法を書き込む時の、あの特有のハネとトメの癖。十五年以上、設計図を引き続けてきた俺の手に染みついた、俺以外の何者でもない筆跡。
そして、名前は「裕一」ではなく、確かに「勇一」と書かれている。
私は、玄関の冷たい三和土にしゃがみ込んだまま、その靴を、その筆跡を、穴が開くほど見つめ続けた。
朝、家を出た時にあいつが履いていたのは、間違いなく青いラインの入った古い靴だった。
この真新しいグレーの靴は、我が家のシステム(インベントリ)には絶対に存在しないはずのアイテムだ。
俺の字で、存在しないはずの漢字が記された、存在しないはずの靴。
「……パパー! 早くおいでよー!」
リビングから、ゆういちの無邪気な声が聞こえてきた。
私は靴をそっと床に置き、極めてゆっくりと立ち上がった。
リビングに戻ると、テレビの裏側で、先ほど由里子が消しきれなかったあの『☆』のマークが、私を嘲笑うかのように、あるいは静かに語りかけるように、微かな輪郭を保って存在していた。
タイムパラドックスだとか、多元宇宙だとか、そんな小難しい理屈は俺にはわからない。
だが、設計士としての私の直感が、一つの確信を告げていた。
あいつは本当に、未来の俺たちに会ってきたのだ。
そして、未来の俺は、過去の俺に向けて、あいつを通じて確かな『ログ(記録)』を送ってきたのだ。
「……上等じゃないか」
私は小さく呟き、リビングのテーブルについた。
目の前には、湯気を立てるハンバーグと、口の周りをケチャップだらけにして笑う六歳の息子がいる。
そしてキッチンには、それをみ見て笑う四十五歳の妻。
あと八年。
八年経てば、俺はどこかの見知らぬ手狭なマンションで、あいつに赤いランドセルを買ってやり、あいつを書類上で『勇一』と名付けるためのありったけの悪知恵を絞るのだろう。
そして、あの古いテレビの裏にある、由里子が除光液で消したこの星のマークを再び確認して、泣き笑いするのだろう。
「お父さん、どうしたの? ニヤニヤして」
由里子が不思議そうに私を見た。
「いや。うちの息子は、なかなか優秀なエージェントだなと思ってね」
私は箸を取り、ハンバーグを口に運んだ。
過去と未来。
決して交わるはずのない二つの時間が、このリビングで、確かに共鳴していた。
私は、消え残ったテレビの裏の星のマークをチラリと見やり、心の中で、八年後の未来にいる『私』に向けて、静かに返信を送った。
『ミッション、確かに受信した。あとはこっちで、ちゃんと育てておくよ』
【業務報告:本プロジェクト完結および最終納品に関する件】
読者の皆様(検収担当者様)へ。
本日21時をもちまして、全工程のデプロイ(投稿)を完了しました。
本設計図はこれをもって「仕様固定」とし、最終成果物として正式に納品いたします。
つきましては、本プロジェクトの「完了検査」として、以下の協力業務をお願いしたく存じます。
1. 設計思想の確認:
本設計の根底にあるのは、**「残酷でありながら、世界一幸福な家族の物語」**という、背反する二つの仕様の両立です。この歪で、しかし強固な構造物が、皆様の感性に何らかの作用を及ぼし、楽しんでいただけたのであれば、設計者としてこれ以上の幸いはありません。
2. 製品検査:
本設計のロジックに破綻はなかったか。皆様の心にどのような「ログ」が残ったか。忌憚なきフィードバックを感想欄へ求めます。
3. 資産評価および周知活動:
納品内容が要求仕様を満たしていると判断された場合、評価による「受領印」の押印をお願いします。また、良質な設計は共有されることで初めて実効性を持ちます。もし価値を認めてくださったのであれば、外部ネットワーク(SNS等)へのリンク共有による「周知活動」にもご協力願います。
これにて、私の担当する全業務は終了です。
二度目の発注(次作)の予定はございませんが、この一作という「建造物」が、ネットの海で一人でも多くの乗客を乗せ、遠くまで航行することを願っております。
以上、検収よろしくお願いいたします。




