第8話 秘密のプロトコル
四月に入り、手狭な賃貸マンションの窓から吹き込む風は、すっかり春の温度と湿り気を帯びていた。
役所と児童相談所という巨大な行政システムに対するハッキングを完了させ、仮就学の許可をもぎ取ってから数日。我が家は、嵐の前の静けさとも言うべき、奇妙で穏やかな安定稼働期の真っ只中にあった。
休日の午後。
リビングでは、五十三歳の由里子がキッチンに立ち、機嫌よく鼻歌を歌いながらホットケーキを焼いていた。バニラエッセンスの甘ったるい香りと、バターが焦げる香ばしい匂いが、換気扇の能力を軽々と凌駕して手狭な空間の隅々にまで充満している。
かつて郊外の広い二階建ての戸建てに住んでいた頃なら、これほど匂いがこもることはなかった。だが、家族の物理的なクリアランス(隙間)が極端に少ないこのマンションでは、キッチンの熱気も匂いも、ダイレクトにリビングへと流れ込んでくる。
「ゆう君、ホットケーキ何枚食べる? メープルシロップ、たっぷりかけてあげるわね」
「僕、三枚! あと、バニラのアイスも乗せて!」
「はいはい、三枚ね。特別にアイスも乗せちゃおうか。おまけでチョコレートのソースもかけちゃうわよ」
ダイニングテーブルで足をぶらぶらさせている六歳のゆうに、由里子は完全にリミッターが外れた顔でニコニコと話しかけている。
徹底したミニマリストであり、食事の糖分や脂質にまで厳格な運用規則を設けていたあのおかあさんが、である。かつて十四歳のゆういちが小学生だった頃、休日の昼飯にホットケーキをねだっても、「粉が飛び散るから駄目。それに甘いものばかり食べたら虫歯になるわよ」と一蹴していた姿は、もはや脳内の過去ログをいくら検索しても出てこないのではないかと思えるほどの変貌ぶりだ。
彼女のシステムは、六歳の無邪気さという強力なマルウェアによって完全に書き換えられ、今やゆうを甘やかすためだけの専用マシンと化していた。
「おい、おかあさん。いくらなんでも甘やかしすぎじゃないか。サイゼリヤの辛味チキンにマックのポテト、その上アイス乗せのホットケーキ三枚って。あいつの胃袋のスペックを過信しすぎだぞ」
私がコーヒーメーカーに豆をセットしながら呆れて言うと、由里子はフライ返しを持ったままクルリとこちらを向き、ピシャリと言い放った。
「お父さんは黙ってて。ゆう君はね、来週から見知らぬ小学校に通うっていう、とてつもないストレスを抱えてるのよ。親戚と離れ離れになって、無戸籍のまま不安な毎日を過ごしてきたんだから。せめて家の中くらい、思い切り甘えさせてあげなきゃ可哀想じゃない」
設定に忠実なのは結構だが、由里子自身がその「DV親族から逃げてきた無戸籍児童」という私たちがでっち上げたハッキングのロジックに、誰よりも深く感情移入してしまっている。
「……その割には、さっきからおかあさんの方が楽しそうにフライパンをひっくり返しているように見えるがな」
「うるさいわね。美味しいものを食べて笑顔になってくれたら、私だって嬉しいのよ」
由里子が焼き上がったホットケーキのタワーをゆうの前に置いた、ちょうどその時だった。
壁一枚隔てた隣の部屋から、バタンとドアの開く音がして、新中三の十四歳のゆういちがリビングに顔を出した。
彼は首にタオルを巻き、右手には手入れ用のクロスを握っている。ついさっきまで、部屋でトランペットの練習をしていたのだ。
以前のゆういちなら、少しでも指使いが上手くいかなければ「あー、もう! 俺には無理だ!」とすぐに楽器を放り出し、スマートフォンに逃げ込んでいただろう。だが、先日六歳の自分から直球のエールを受け取り、セルフ・ハンディキャッピングの分厚い装甲を自ら剥がして以来、あいつの練習態度は劇的に変わった。
何度も何度も、同じフレーズを反復する。ミュート(弱音器)をつけているため音はくぐもっているが、その音色には確かな芯があり、逃げずに向き合おうとする意志の出力が感じられた。
「母さん、俺の分は? 楽器吹いて頭使ったら、すげぇ腹減ったんだけど。昨日のサイゼの残りのドリア食おうと思ったけど、ホットケーキの匂い嗅いだら甘いもんが食いたくなった」
ゆういちが、キッチンを覗き込んで言った。
「ゆういちの分もあるわよ。でも、ゆう君が先ね。あんたは自分でシロップかけなさい」
「はあ? なんでこいつだけアイス乗ってんの。母さん、マジで最近こいつに甘すぎ。俺の時と対応違いすぎだろ」
ゆういちは口を尖らせたが、それでも文句を言いながら自分の分の皿を引き寄せ、ゆうの向かいに座った。
「お兄ちゃん、僕のアイス、ひとくちあげる!」
ゆうが、スプーンで大きくすくったバニラアイスを差し出すと、ゆういちは「ひとくちかよ」とぼやきながらも、身を乗り出してパクリとそれを口に入れた。
「……美味い。サンキュ、ゆう」
「えへへ!」
食の好みのソースコードが寸分違わず一致している十四歳と六歳の「ゆういち」が、並んでホットケーキを頬張る光景。
年齢も体格も全く違う二人だが、シロップの染み込んだ部分を最後に残そうとする食べ方の癖や、甘いものを飲み込む時に少しだけ左目を細める仕草など、根幹のプログラムは完全に同じであることを証明している。
すべてが、完璧だった。
私が引いた設計図は完全に機能し、家族というシステムはかつてないほど美しく、そして不条理なバランスで稼働している。
この手狭な賃貸マンションに引っ越してきた当初に感じていた、互いの息が詰まるような閉塞感は、今や嘘のように消え去っていた。物理的なクリアランスのなさが、かえってこの奇妙な同居生活の密度を高め、家族の絆を再構築する接着剤の役割を果たしている。
だが、私は一人、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、昨夜ベッドの中で到達した冷徹な結論――彼が過去へ無事に帰還したことを確認するための、絶対的な「ログ(記録)」を残させるというミッション――を実行に移すタイミングを、静かに見計らっていた。
昨夜の私は、この完璧すぎる日常がいつまでも続かないことを、設計士としての直感で悟ってしまった。
この世界は、必ず自浄作用を働かせる。バグを修正し、時空の歪みを元の形に戻そうとする力が、いつか必ず働くのだ。
愛おしいこの日々が唐突に終わりを告げる時、彼が時空の狭間で迷子にならず、確かに元の時代……八年前の二〇一八年へ帰り着いたという物理的な証明がなければ、私は一生、不条理な不安に苛まれ続けることになる。
だからこそ、過去と未来を繋ぐための「プロトコル(通信規約)」を、今日、彼の中にインストールしなければならない。
別れの準備を自ら進めるようで胸がひどく痛んだが、システムを監視する者として、結果の確認(ログの検証)を放棄するわけにはいかなかった。
食事が終わり、由里子が「ちょっとスーパーまで買い出しに行ってくるわね。夜は焼肉にするから」と上機嫌で出かけていった。
ゆういちも、「俺、もう少しラッパ吹くわ」と自室へ戻り、ドアを閉めた。
リビングには、私と、ローテーブルの端でダイソーの『蟲神器』のカードを並べて一人遊びをしている六歳のゆうだけが残された。
私はマグカップを置き、静かに立ち上がった。
リビングの隅には、十八年間ノーメンテナンスで働き続けている我が家のシーラカンス――二〇〇八年製の三十二インチ液晶テレビが、ひっそりと鎮座している。
新婚当時に購入した、分厚くて無骨な代物。過去の広い戸建て時代から、現在のこの手狭なマンションに至るまで、唯一変わらずにそこにある象徴的なデバイス。
二〇一八年のあの家にも、このテレビは全く同じ状態で存在しているはずだ。
「おい、ゆう。ちょっとこっちへ来い」
私が声をかけると、ゆうはカブトムシのカードを持ったまま、タタタッと駆け寄ってきた。
「なに、パパ? カードゲームする?」
「いや、ゲームじゃない。パパと、男同士の秘密の作戦会議だ」
私はテレビの前にしゃがみ込み、彼の目線に合わせて膝を折った。
「いいか、ゆう。よく聞くんだ。お前は今、パパたちのこの狭いマンションで一緒に暮らしているよな。赤いランドセルも買ったし、四月からは小学生だ」
「うん!」
「でもな、これはずっと続くわけじゃないかもしれないんだ」
「……どういうこと?」
ゆうの丸い目が、不思議そうに瞬きをした。彼の手の中で、厚紙のカードが少しだけ折れ曲がる。
「魔法が解ける時が来るかもしれない、ってことだ。ある朝、目が覚めたら、お前は元の広いおうちにポンと戻っているかもしれない。二〇一八年の、今よりもっと若いパパとママのところにね」
ゆうは、少しだけ不安そうに自分のスウェットの裾を空いた方の手でぎゅっと握った。
「ここから、いなくなっちゃうの?」
「お前がいなくなるんじゃない。お前が、お前の本当の場所に帰るんだ」
私は彼の小さな肩を両手で包み込んだ。
「お前には、お前の時間がある。元のパパやママも、お前のことを待っているはずだ。もしそうなったら、元の世界のパパとママに、ここで起きた大冒険のことを自慢してやってほしい。言えるか?」
ゆうは、こくりと頷いた。
「うん、言えるよ」
「よし。じゃあ、こう伝えるんだ。『ちょっとシワシワのおじいちゃんとおばあちゃんになったパパたちと暮らしたよ』って」
「シワシワ……」
「そうだ。それから、『ラッパを吹く、おっきいお兄ちゃんと一緒に暮らしたよ』って。さらに、『僕の漢字は、勇気の勇一になったよ。赤いランドセルも買ってもらったよ』って、教えてやれ。きっと、元のパパもびっくりするぞ」
「赤いランドセル! うん、教える! レッドはリーダーだもんね!」
ゆうの顔に、いつもの無邪気な笑顔が戻った。彼は自分の選択に絶対の自信を持っている。
「そして、もう一つ。これが一番重要だ」
私は声のトーンを一段階落とし、彼のまっすぐな瞳を見つめた。
「お前が元の世界に帰還したら、一番最初にやらなきゃいけないミッションがある。これは、パパとお前の、絶対に守らなきゃいけない約束だ」
「ミッション……!」
ゆうの表情が、キリッと引き締まった。彼は「秘密」や「ミッション」という言葉にめっぽう弱い。その純粋な響きが、彼の六歳児としてのプライドをくすぐるのだろう。
私は、傍らにある液晶テレビの、黒いプラスチックの背面を指さした。
「家に帰ったら、黒い油性のマジックペンを探せ。そして、ママに見つからないように、このテレビの裏側に、大きく『☆(お星さま)』のマークを描くんだ」
「お星さま……?」
「そうだ。星のマークだ。描けるか?」
「僕、描けるよ! 保育園でいっぱい描いたもん!」
ゆうは自信満々に答えたが、すぐにハッとしたように口元を押さえた。
「でもパパ……テレビに落書きしたら、ママにすっごく怒られちゃうよ? いつも、『物は大事にしなさい』って言ってるもん。この間も、壁にシール貼ってめちゃくちゃ怒られたし……」
「ああ、めちゃくちゃ怒られるだろうな。雷が落ちるぞ」
私が苦笑すると、ゆうは「えーっ」と不満そうな声を上げた。その顔は、本当に雷を恐れているかのように少し強張っている。
「でもな、これはパパが『ゆうが無事に元の世界に帰れた』って安心するための、大事な合図なんだ」
私は彼の小さな手を握り、優しく諭した。
「テレビの裏に星のマークがあれば、パパはお前が立派に冒険をクリアしたってことがわかる。怒られてもいい。除光液でゴシゴシ消されてもいい。お前がそこにマークを描いたという事実が、時を超えてパパに届く。だから、怒られても、絶対に描いてくれ。約束できるか?」
私が小指を差し出すと、ゆうは少しだけ迷った素振りを見せた。怒られることへの恐怖と、男同士のミッションへの使命感の間で揺れているのだ。
だが、やがて彼は力強く頷き、自分の小さな小指を絡めてきた。
「うん! わかった。僕、ママに怒られてもお星さま描く! パパとのミッションだもん!」
「指切りげんまん、嘘ついたらハリセンボン飲ーます。指切った」
小さな指と、私の節くれだった指が離れる。
彼が私を見上げてニカッと笑った瞬間、胸の奥を強烈な寂しさと、愛おしさが同時に駆け抜けた。
「よし、約束だぞ。これでお前は、立派な特命エージェントだ」
私が頭を撫でてやると、ゆうは「えへへ!」と照れくさそうに笑い、「じゃあ、僕、エージェントのカブトムシで遊ぶ!」と言って、再びローテーブルへと走っていった。
私は一人、テレビの前にしゃがみ込んだまま、その黒い背面をじっと見つめた。
プロトコル(通信規約)は、彼の中にしっかりとインストールされた。
もし彼が過去に帰り、あのテレビの裏に星を描いてくれたなら。その物理的な痕跡は、八年という歳月を超えて、この二〇二六年のテレビの裏に「すでにある」はずだ。
ホコリが溜まりやすいその場所を、大掃除のたびに拭き掃除してきた記憶がふと蘇る。
私は頭を振って、その思考を追い払った。
まさか。単なる経年劣化の汚れか、子供が小さい頃につけた傷だろう。今はまだ、それを確かめる勇気はなかった。確かめてしまえば、彼がいなくなる未来を完全に肯定してしまうような気がしたからだ。
あとは、システムがいつ「バグの修正」を実行するのか。
残された時間がどれくらいあるのかはわからない。だが、私はこの手狭なマンションに響く、隣の部屋からのトランペットの音と、六歳の息子の笑い声を、一秒でも長く脳内のアーカイブに焼き付けておこうと、ただ静かにその光景を見つめ続けた。




