第7話 安定稼働とバグの予兆
四月に入った。
都心部のマンションから歩いていける公園では、ソメイヨシノが満開を迎え、春の風に吹かれて時折淡いピンク色の花びらを散らしている。
役所という分厚いファイアウォールを無事に突破し、仮就学と児童相談所の「見守り」ステータスをもぎ取ってから数日。我が家のシステムは、嵐の前の静けさとも言うべき、奇妙で穏やかな安定稼働期に入っていた。
「ゆう君、お肉もっと焼く? カルビ食べる?」
「うん! 僕、カルビだーいすき!」
「はいはい、いっぱいお食べ。熱いからフーフーしてあげるわねぇ」
休日の夕食時。手狭なダイニングテーブルの中央にはホットプレートが鎮座し、肉の焼ける香ばしい匂いが充満している。
五十三歳の由里子は、六歳のゆうの皿に甲斐甲斐しく焼き立ての肉を取り分け、完全に孫を溺愛するおばあちゃん、あるいは母性のリミッターが吹き飛んだ別人のような顔で微笑んでいた。
徹底したミニマリストであり、「部屋に匂いがつくから」と家での焼肉を極端に嫌がっていたあの由里子が、今や進んでホットプレートを出してくるのだから、システムの書き換えもここまで来ると見事というほかない。
「おかあさん、いくらなんでも過保護すぎないか。あいつ、自分でフーフーできる年齢だぞ」
私がビールを飲みながら呆れて言うと、由里子はクルリとこちらを向き、ピシャリと言い放った。
「お父さんは黙ってて。ゆう君はね、来週から見知らぬ小学校に通うっていう大きなストレスを抱えてるのよ。家の中くらい、思い切り甘えさせてあげなきゃ可哀想じゃない」
「……その割には、さっきからおかあさんの方が楽しそうだがな」
「母さん、マジで俺の時と対応違いすぎ。俺が小学生の時、焼肉なんて誕生日くらいしかやってくれなかったじゃん」
向かいの席で山盛りの白飯を掻き込んでいる十四歳のゆういちが、不満げに口を尖らせた。
四月から新中三になる彼は、先日六歳の自分から直球のエールを食らって以来、セルフ・ハンディキャッピングの分厚い装甲を少しずつ剥がし始めていた。塾の宿題にも文句を言わずに取り組むようになり、部活のトランペットのソロ演奏からも逃げないことを決めた。
そのエネルギー消費を補うためか、最近のあいつの食欲は凄まじい。マックだろうがサイゼリヤだろうが焼肉だろうが、ブラックホールのように胃袋に吸い込んでいく。
「あんたはあんた! ゆう君はゆう君でしょ。ほら、ゆういち、お肉焦げてるわよ。受験生なんだから、しっかり食べてスタミナつけなさい」
由里子がトングでゆういちの皿にも肉を放り込む。
「あ、サンキュ」
「お兄ちゃん、僕のカルビも一個あげる!」
ゆうが自分の皿から、タレのたっぷりついた肉をゆういちの皿へ移した。
「おっ、マジ? サンキュ、ゆう。お前、わかってんじゃん」
十四歳のゆういちと、六歳のゆう。
年齢も体格も全く違う二人だが、食の好みや、ふとした瞬間の仕草――例えば、熱いものを食べる時に少しだけ左目を細める癖など――のソースコードは、寸分違わず完全に一致している。
手狭なマンションの食卓で、二人の「ゆういち」が肩を並べて肉を頬張っている光景は、論理的に考えればあり得ないバグの産物だ。だが、私の目には、それがひどく美しく、温かい奇跡のように映っていた。
食事が終わり、ゆういちが自室で机に向かい始めた頃。
リビングでは、由里子がゆうの入学準備の最終確認をしていた。
部屋の隅には、私が駅前の百貨店で買った真っ赤なランドセルが誇らしげに置かれ、その周りには、算数セットや筆箱、体操服などが散乱している。
「ゆう君、このお名前シール、一緒に貼ろうか」
「うん! 僕、やる!」
「一年二組 勇一」と印字されたシールを、由里子とゆうが楽しそうにプラスチックのケースに貼っていく。
「あれだけ『家に物を増やさないで』って豪語してた徹底的な断捨離ルールは、どこにいったんだ? 紙切れ一枚でもゴミじゃなかったのか」
私がソファーから声をかけると、由里子は悪びれもせず言い切った。
「一年使わなかったものはゴミよ。でも、これらは『今、ゆう君が必要としているもの』だからノイズじゃないの。それに、ゆう君がこの赤いランドセルを背負って学校に行く姿、私、早く見たいのよね」
由里子の目は、本気だった。
彼女は、この二〇二六年の世界で、「勇一」という新しい存在を育て直す覚悟を完全に決めている。
私自身もそうだった。役所へのハッキングを完了させ、仮就学の手続きを済ませたことで、彼がこの時代に生きるための基礎工事は終わった。あとは、このまま日々のルーティンを積み重ねていくだけだ。
だが――。
その夜、手狭な寝室で布団に入った時、設計士としての私の脳裏に、冷たく重い疑念が湧き上がってきた。
私と由里子の間で、六歳のゆうがスースーと規則正しい寝息を立てている。
その小さな寝顔を見つめながら、私は暗闇の中で思考を巡らせた。
この一ヶ月、私は目の前のバグ(不具合)を修正し、社会システムに適合させることだけに全力を注いできた。
だが、根本的な問題から目を背けていたことに、私はようやく気がついたのだ。
同一の空間に、同じ人間の「過去」と「未来」が同時に存在している。
これは、宇宙の物理法則における致命的なエラーだ。
もし、このままゆうが二〇二六年の世界に定着し、七歳、八歳と成長していったらどうなる?
二〇一八年の過去の世界から、「六歳の裕一」が永遠に消え去ることになる。
だとしたら、今、隣の部屋でトランペットを吹き、受験勉強に励んでいる「十四歳のゆういち」の存在はどうなるのだ? 過去の彼が失われれば、未来の彼も成立しなくなるのではないか?
タイムパラドックス。
原因と結果が矛盾を起こし、システム全体がクラッシュする。
コンピューターのプログラムであれば、致命的な矛盾が発生した場合、システムは強制終了するか、あるいはエラーが発生する前の状態に「ロールバック(巻き戻し)」を行うのがセオリーだ。
宇宙という巨大なシステムが、この矛盾をいつまでも放置しておくはずがない。
世界は、必ず自浄作用を働かせる。
バグを修正し、歪んだ時空を元の形に戻そうとする力が、いつか必ず働く。
「……帰るんだな。あいつは」
私は、暗闇の中で微かに呟いた。
隣で寝ている由里子には聞こえないほどの、小さな声だった。
ゆうは、いつか必ず二〇一八年の過去へ帰る。
いや、「帰らなければならない」のだ。十四歳のゆういちの歴史を守るためにも。
そして、この奇妙で愛おしいダブル・レゾナンス(二重の共鳴)の時間は、唐突に終わりを告げることになる。
問題は、それが「いつ」なのか、ということだ。
明日かもしれない。一週間後かもしれない。あるいは、一年後かもしれない。
そして何より恐ろしいのは、その「修正プロセス」が、どのような形で行われるのかが誰にもわからないということだった。
もし、ある朝目覚めたら、彼が布団から忽然と姿を消していたとしたら?
もし、彼が元の世界に無事に帰還できたのかどうか、誰にも確認する術がないまま、私たちだけがこの時代に取り残されたとしたら?
「……それは、耐えられないな」
私は、無意識に毛布を強く握りしめていた。
設計図を引く人間にとって、結果の確認(ログの検証)ができないことほど、不条理で恐ろしいことはない。
彼が安全に過去へ戻れたのか。
タイムスリップの衝撃で、彼というデータそのものが宇宙のゴミ捨て場(虚無)に消滅してしまわないか。
何か、プロトコル(通信規約)が必要だ。
過去と未来を繋ぎ、彼が無事に帰還したことを、この二〇二六年の我々が確認するための、絶対的な「ログ(記録)」。
私は布団から静かに抜け出し、リビングへと向かった。
窓の外には、都心の夜景が広がっている。
暗い部屋の隅に、十八年間ノーメンテナンスで働き続けている我が家のシーラカンス――二〇〇八年製の三十二インチ液晶テレビが、ひっそりと鎮座していた。
過去の広い戸建て時代から、現在のこの手狭なマンションに至るまで、唯一変わらずにそこにある象徴的な存在。
二〇一八年のあの家にも、このテレビは全く同じ状態で存在している。
私は、テレビの黒いプラスチックの背面をじっと見つめた。
設計士としての回路が、高速で繋がり始める。
もし、彼が二〇一八年の過去に帰還した直後に、このテレビにある「印」を刻んだとしたら?
そして、その「印」が、八年の時を超えて、二〇二六年のこのテレビに残っていたとしたら?
それは、彼が無事に過去へ帰り着いたという、何よりの証明になるのではないか。
「……これだ」
私は、暗闇の中で小さく息を吐いた。
バグの修正がいつ起きてもいいように、彼に「秘密のミッション」を与えなければならない。
この終わりの見えない不条理な状況の最後を締めくくる、最も重要なシステム設計。
明日、彼に伝えよう。
元の世界に帰った時のための、ただ一つのルールを。
私は液晶テレビの冷たい縁をそっと撫で、彼が今夜も無事にこの時代に留まってくれることを祈りながら、再び手狭な寝室へと戻っていった。




