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第6話 二つの軌道

四月に入り、都心部の手狭な賃貸マンションのベランダからは、歩いてすぐの距離にある公園のソメイヨシノが、少しずつ淡いピンク色の蕾をほころばせているのが見えた。

新学期と小学校の入学式まで、あと数日。役所と児童相談所という巨大な行政システムに対するハッキングを完了させた我が家は、奇妙で穏やかな安定稼働期アイドリングに入っていた。

休日の午後。

玄関の重い鉄扉がガチャリと開き、五十三歳の由里子と、六歳のゆうが帰ってきた。

四月からの登校のシミュレーションとして、新しく買った真紅のランドセルを背負い、近所のスーパーまで歩く練習に出かけていたのだ。

「ただいまー! パパ、僕、ちゃんと歩けたよ!」

ゆうは満面の笑みで靴を脱ぎ捨て、ドタドタとリビングへ駆け込んできた。その背中には、彼の小さな体にはまだ少し大きすぎる真っ赤なランドセルが揺れている。

「おお、おかえり。立派な一年生だな、ゆう」

私が頭を撫でてやると、彼は「えへへ!」と笑い、ランドセルを下ろしてローテーブルの前に陣取った。すぐさまダイソーの『蟲神器』のカードの束を広げ、一人でカブトムシの配置を考え始めている。

だが、後からリビングに入ってきた由里子の顔色は、ひどく曇っていた。

彼女は買ってきたスーパーのビニール袋をキッチンに置くと、ゆうに聞こえないように私のそばへ寄り、声を潜めた。

「……お父さん。やっぱり、赤いランドセルなんて買うんじゃなかったかもしれないわ」

「どうした、おかあさん。何かあったのか?」

由里子は、唇をギュッと噛み締めてから言った。

「帰り道に、公園の横を通ったの。そしたら、遊んでた小学校の高学年くらいの男の子たちが、ゆう君を指さして笑ったのよ。『うわ、男のくせに女のランドセル背負ってる!』『だっせー!』って。私、頭にきて文句言ってやろうかと思ったんだけど……」

私は、カードゲームに夢中になっているゆうの小さな背中を見た。

世間の規格フォーマットというものは残酷だ。男の子は黒か紺、女の子は赤かピンク。ジェンダーレスが謳われる二〇二六年の世界であっても、子供たちの社会における同調圧力のシステムは、八年前からそう簡単にはアップデートされていない。そこから少しでも外れた変数を出力すれば、容赦ないノイズ(嘲笑)に晒される。

私が危惧していた事態が、早くも現実のものになっていた。

「それで、ゆうは泣いたのか?」

私が尋ねると、由里子は首を横に振った。

「ううん。泣かなかったの。それどころか、その子たちに向かって『これはリーダーのレッドだもん! かっこいいんだぞ!』って言い返したのよ。からかった子たちはポカンとしちゃって、そのまま逃げていったわ。……でも、これから毎日あんな思いをするのかと思ったら、私、可哀想で……」

由里子の声は震えていた。徹底したミニマリストであり、他人の目を気にして波風を立てることを嫌っていた彼女が、今や六歳の「親戚の子(という設定の息子)」のために、本気で心を痛めている。完全に孫を溺愛するおばあちゃん、あるいは母性のリミッターが外れた状態だ。

「気にするな、おかあさん。あいつのシステムは、俺たちが思っている以上に堅牢に設計されているみたいだぞ」

私がそう言って由里子の肩を軽く叩いた、その時だった。

壁一枚隔てた隣の部屋から、十四歳の新中三、ゆういちがトランペットを練習する音が聞こえてきた。

ベルにミュート(弱音器)を押し込んでいるため、プップッというくぐもった音だ。来月の定期演奏会で彼が任されている、難易度の高いソロパートのフレーズ。

しかし、今日の音はひどく途切れがちだった。高音の抜けが悪く、少し吹いては止まり、ため息をつくような気配が壁の向こうからダイレクトに伝わってくる。物理的なクリアランス(隙間)が極端に少ないこのマンションでは、息子の苛立ちという見えない応力ストレスが、嫌でもリビングにまで伝播してしまう。

やがて、ガンッ、と何かが床に置かれる鈍い音がした。

「……あー、くそっ! やっぱ無理だわ!」

壁越しに、苛立った声が聞こえる。

バタンと乱暴にドアが開く音がして、ゆういちがリビングに出てきた。

彼は首からタオルを下げ、ひどく不機嫌そうな顔でソファの前に立った。

「……母さん」

「なあに、ゆういち。練習、上手くいかないの? 少し休んでサイゼの辛味チキンでも温めようか?」

由里子が気遣うように声をかけたが、ゆういちは視線を逸らしながら、吐き捨てるように言った。

「いや。……あのさ、来月の定期演奏会のソロ、俺、顧問に言って降りることにしたわ」

由里子が、持っていたスーパーのレシートを取り落としそうになった。

「えっ? 降りるって……どういうこと? あんた、あんなに毎日練習してたじゃない!」

「顧問には、明日LINEする。後輩に上手い奴がいるから、そいつに譲るわ。俺よりそいつの方が安定してるし」

「なんでよ! トランペットのエースだって言われて、あんた自身も楽しみにしてたじゃないの!」

由里子の声がワントーン高くなり、リビングの空気が一気にピンと張り詰める。

ゆういちは、苛立ちを隠そうともせずに声を荒らげた。

「俺には無理なんだよ! 最近、全然上手く吹けねぇし。もし本番でミスって音外したら、先輩や後輩に笑われるだろ。『エースのくせにダサい』って思われるのがオチだ。そんな恥かくくらいなら、最初からやらない方がマシなんだよ!」

出た。手狭なマンションにおける、定期的なエラーコード。セルフ・ハンディキャッピングだ。

あらかじめ「自分には無理だ」と予防線を張り、失敗した時の自尊心のダメージを最小限に抑えようとする防衛本能。

私は口を開きかけた。「おい、ゆういち。図面は最初から妥協して引いたら、完成する船もそれなりのものにしかならないぞ」と。

だが、ゆういちは私の言葉を遮るように、さらに捲し立てた。

「部活だけじゃねぇよ、勉強だってそうだ。どうせ上の高校なんて無理なんだ。頑張って落ちてバカにされるより、ランク下げて安全なとこに行く方が頭いいだろ。だから、ソロのこともほっといてくれよ!」

傷つくのが怖い。笑われるのが怖い。だから、戦う前に白旗を上げる。

それが、十四歳のゆういちというシステムにこびりついた、致命的な不具合だった。

「最初から諦めてどうするの! やってもいないのに無理なんて言わないの!」

由里子も引かず、立ち上がった。

「うるせぇな! 母さんには俺のプレッシャーなんてわかんねぇよ!」

ゆういちが背を向け、自室へ逃げ込もうとした、その時だった。

トテトテ、という軽い足音がして、六歳のゆうがゆういちの前に立ち塞がった。

ゆうは、先ほどまで遊んでいた『蟲神器』のキラキラ光るレアカードを一枚、小さな手に握りしめている。

「お兄ちゃん、ラッパやめちゃうの?」

ゆうは、不思議そうに首を傾げて十四歳の自分を見上げた。

「……おう、やめる。俺には無理だからな。お前にはわかんねぇよ。失敗したら、みんなに笑われんだよ」

ゆういちは、六歳の子供相手にむきになるのも馬鹿らしいと思ったのか、視線を逸らして吐き捨てた。

ゆうは、自分が言われた言葉の意味を少しだけ考えるように瞬きをした。

彼は「セルフ・ハンディキャッピング」だの「自尊心」だのといった小難しいロジックは一切理解していない。彼の脳内にあるのは、極めてシンプルで純粋なソースコードだけだ。

ゆうは、自分の足元に転がっている「真っ赤なランドセル」を指さした。

「僕ね、今日、公園で笑われたよ」

その言葉に、ゆういちが「……え?」と眉をひそめた。

ゆうは、赤いランドセルの表面についた微かな擦り傷を小さな指で撫でながら、淡々と事実だけを口にした。

「知らないお兄ちゃんたちに、『男なのに女のいろだ、へんなのー』って言われたの」

ゆういちは、ハッとして私と由里子を見た。由里子が悲しそうに目を伏せるのを見て、それが事実であることを悟ったらしい。

「……お前、笑われたのかよ。だから俺、最初からやめとけって言ったじゃん。変な目で見られて、ダサいじゃんか」

ゆういちが呆れたように言うと、ゆうは首を横に大きく振った。

「ダサくないもん。僕、泣かなかったよ」

ゆうは、一切の強がりも、見栄もない、ただの事実としてそう言った。

「だって、僕が『これがいい』って決めたんだもん。レッド、かっこいいもん。だから、へーき」

そして、ゆうは握りしめていた『ヘラクレスオオカブト』のキラカードを、ゆういちの手にギュッと押し付けた。

「お兄ちゃんのラッパ、すっごくかっこいいよ! カブトムシみたいに、つよい音だったよ! はい、これあげる!」

ゆうはそれだけ言うと、「ママ、のど渇いたー! マックのジュース飲みたい!」と叫びながら、キッチンの方へと走っていってしまった。

彼は、ゆういちを論理的に説得しようとしたわけでも、慰めようとしたわけでもない。

ただ無自覚に、自分が今日体験した「笑われたけど、自分の好きを貫いたから平気だった」という事実を報告し、かっこいいと思うラッパの音色への対価として、自分の一番大切なカードをポンと渡しただけなのだ。

だが、その無自覚な一撃が、十四歳のゆういちに与えた衝撃は、私が百の言葉を尽くすよりも遥かに絶大だった。

ゆういちは、押し付けられたキラカードを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

彼の視線は、無造作に床に置かれた「赤いランドセル」に釘付けになっていた。

自分の「好き」を信じ、笑われるリスクをすでに物理的に経験し、それでも全く意に介さずに胸を張っている六歳の自分。

一方、まだ何も起きていないのに、他人の目を勝手に想像して恐怖し、戦う前から安全圏へ逃げ回っている十四歳の自分。

ゆういちの顔が、みるみるうちに赤く染まっていった。

怒りではない。どうしようもない、強烈な羞恥だ。

たった八年前の自分は、こんなにも勇敢で、しなやかだった。社会のノイズに晒されても、自分のコア(核)を全く見失っていなかった。

なのに、いつの間に俺は、こんなに臆病で言い訳ばかりするようになってしまったのか。

「……あー、もう」

ゆういちは、バツが悪そうに両手で頭を抱え込み、深く息を吐き出した。

「わかったよ。お前の勝ちだ」

ゆういちは、手の中のキラカードをそっと自分のスウェットのポケットにしまい込んだ。

「母さん」

「……え?」

「ソロ、降りねぇよ。本番で音外して笑われたら、その時はダサい俺を笑ってくれ」

ゆういちはそっぽを向きながら、ボソボソと呟いた。

それから、ジュースを飲んでいる六歳のゆうを横目で見て、ぽんとその頭に手を乗せた。

「……お前、マジで生意気。でも、サンキュな、ゆう」

「えへへ! お兄ちゃん、ラッパ頑張ってね!」

ゆうが満面の笑みを浮かべると、ゆういちは照れ隠しのように「ちょっと部屋で練習してくるわ」と、足早に自室へと戻っていった。

バタン、とドアが閉まる音がする。

その数分後、壁越しに聞こえてきたトランペットの音は、先ほどまでの途切れがちな迷いを引きずったものではなく、明確に前へ進もうとする強いエンジンの回転音に変わっていた。

「……なんなのよ、もう。私たち親がいくら言っても直らなかった癖が、あっさり直っちゃったじゃない」

由里子が、キッチンから出てきてダイニングチェアに座り込んだ。その顔は、呆れているようでいて、どこかひどく嬉しそうだ。

「お父さんが百回理屈をこねるより、過去の自分からの無自覚な行動の方が、あいつの分厚い装甲を完全に貫通するらしいな」

私が残りのコーヒーをすすりながら言うと、由里子は「そうみたいね」と苦笑し、目元を少しだけ拭った。

「パパ! 僕、お兄ちゃんにカードあげたよ!」

リビングに戻ってきたゆうが、私の膝によじ登ってきた。

「ああ、お前は最高のリーダーだ、ゆう」

私は床に座り込み、小さな息子を力強く抱きしめた。

手狭なマンションのリビング。

壁一枚隔てた隣の部屋からは、ゆういちがトランペットを吹き鳴らす音が、確かなリズムを刻んで聞こえてくる。

同一のソースコードから生まれた二つのプログラム。

過去の自分が未来の自分に無意識のパッチを当て、失いかけていた「勇気」というデータを修復したのだ。勉強というルーティンワークだけでなく、自分のプライドの根幹である部活のプレッシャーからも逃げないことを決めたあいつのシステムは、もう大丈夫だろう。

時空のバグが生み出したこの不条理な同居生活は、間違いなく、十四歳のゆういちという人間を、より強固で美しいものへと書き換えていた。

部屋の隅で十八年働き続けている液晶テレビが、今日も変わらぬ日常の音を垂れ流している。

私は、この奇妙で愛おしい日常の軌道が、少しでも長く続くことを心のどこかで願ってしまっている自分に気づいていた。

ここから始まる「第七章」の安定稼働が、永遠であってほしいと。

だが、システムの不具合を監視する設計士としての私の直感は、この完璧すぎる共鳴レゾナンスが、いつか必ず物理法則の修正を受けることを、すでに予感し始めていたのだった。

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