第5話 新規変数の代入
役所という巨大なファイアウォールを無事に突破し、仮就学と児童相談所の「見守り」ステータスをもぎ取ってから数日。
我が家は、この手狭な賃貸マンションに突如追加された「六歳の息子」という新規変数を、日常のシステムにいかにして統合・定着させるかという、実運用のフェーズに移行していた。
春休み真っただ中の、ある日の昼下がり。
私が仕事の図面チェックを自宅のパソコンで済ませてリビングに顔を出すと、そこには奇妙な、しかしひどく平和な光景が広がっていた。
「ゆう君、あーんでしょ。ほら、口の周りにソースついてるわよ」
「あーん! ママ、僕、お肉もっと食べる!」
「はいはい、いっぱいお食べ。大きくなるのよ」
ダイニングテーブルで、四十五歳……いや、五十三歳の由里子が、六歳の彼に甲斐甲斐しくサイゼリヤのテイクアウトのハンバーグを切り分けて食べさせている。
その声のトーンは、かつての厳しい「教育ママ」のそれではなく、完全に孫を甘やかすおばあちゃん、あるいは母性のリミッターが外れた別人のものだった。徹底したミニマリストであり、無駄を極端に嫌うあの由里子が、ゆうが食べこぼしたテーブルの汚れを怒るどころか、ニコニコしながらウェットティッシュで拭き取っているのだ。
「おい、おかあさん。甘やかしすぎじゃないか? 自分で食べられる年齢だろ」
私がコーヒーを淹れながら呆れて言うと、由里子はクルリとこちらを向き、ピシャリと言い放った。
「お父さんは黙ってて。ゆう君はね、これから見知らぬ小学校に通うっていう大きなストレスを抱えてるのよ。家の中くらい、思い切り甘えさせてあげなきゃ可哀想じゃない」
「……その割には、部屋の隅にずいぶんと物理的なノイズが増えたようだが」
私は、リビングの角を指さした。
そこには、先日買った真っ赤なランドセルの隣に、トミカの新しいコースセットや、図鑑、さらには私が以前買ってきて怒られたはずのダイソーの『蟲神器』のカードが、乱雑に散らばっている。
「あれだけ『家に物を増やさないで』って豪語してた徹底的な断捨離ルールは、どこにいったんだ? 紙切れ一枚でもゴミじゃなかったのか」
「一年使わなかったものはゴミよ。でも、これらは『今、ゆう君が必要としているもの』だからノイズじゃないの。情操教育の投資よ、投資」
由里子は悪びれもせず言い切った。
「パパ! 僕、カブトムシのカードでパパに勝つからね!」
ゆうが口の周りをテカテカにしながら、私に向かって自慢げにカードを振って見せた。
「おお、上等だ。後でパパのオオカマキリで返り討ちにしてやる」
「ちょっと、お父さんも変なカードゲーム教えないでよ。……あ、でもゆう君が楽しんでるなら、まあいいわ」
由里子はすぐに毒気を抜かれ、ゆうの頭を撫でた。完全にシステムが書き換えられている。六歳の無邪気さという強力なマルウェアの前に、ミニマリストの防衛機能はあっけなく陥落したらしい。
「ただいまー……」
玄関の重い鉄扉が開き、春休みの部活から帰ってきた十四歳の新中三、ゆういちが気怠げにリビングに顔を出した。
彼は首からタオルを下げ、トランペットのケースを床にドサッと置いた。
「おかえり、ゆういち。手洗ってきなさい。お昼、サイゼのテイクアウト買っておいたわよ」
由里子が声をかけると、ゆういちはテーブルの上のプラスチック容器を見て目を輝かせた。
「マジで? 辛味チキンある?」
「あるわよ。あんたが好きだから、多めに買っておいたの」
「やった」
ゆういちは洗面所へ向かい、すぐに戻ってくると、自分の分の辛味チキンとミラノ風ドリアを掻き込み始めた。
「ああっ! それ、僕も食べる!」
ゆうが、ゆういちの持っている辛味チキンの容器を見て、身を乗り出した。
「はあ? お前、さっきハンバーグ食ってただろ。これは俺の分」
「僕もチキン食べるの! お兄ちゃん、一個ちょうだい!」
「だめ。俺、部活で腹減ってんだよ」
十四歳のゆういちと、六歳のゆう。
年齢も体格も全く違う二人だが、食の好みに関するソースコードは寸分違わず完全に一致している。マクドナルドのポテト、焼肉のカルビ、そしてサイゼリヤの辛味チキン。八年という時を隔てても、あいつらのDNAに刻まれた「好きな食べ物」の変数は変わらないらしい。
「こら、ゆういち。ゆう君に一個くらい分けてあげなさいな。お兄ちゃんでしょ」
由里子がたしなめると、ゆういちは露骨に嫌な顔をした。
「母さん、最近こいつに甘すぎねぇ? 俺が小学生の時、そんなに甘やかしてくれなかったじゃん。ちょっと部屋散らかしただけで『捨てるわよ!』ってブチギレてたのに」
「あんたはあんた! ゆう君はゆう君でしょ。ほら、ゆういち、早く食べなさい」
由里子が無理やり理屈をねじ曲げると、ゆういちは「意味わかんねぇ」とぼやきながらも、渋々、一番小さな辛味チキンをフォークに刺して、ゆうの皿にポンと置いてやった。
「やったぁ! お兄ちゃん、ありがとう!」
ゆうは満面の笑みでチキンに噛み付いた。
「……別に。骨あるから気をつけろよ」
ゆういちはそっぽを向きながらドリアを頬張っているが、その耳の裏が少し赤くなっているのを私は見逃さなかった。
なんだかんだ言って、この反抗期の十四歳も、自分の分身である無邪気な弟の存在を、少しずつ受け入れ始めている。
「ところで、おかあさん」
私はコーヒーカップを置き、話題を変えた。
「家の中での独自のプロトコル……名前の呼び分けは、完全に定着したみたいだな」
「ええ、そうね。最初は戸惑ったけど」
由里子が頷く。
同一空間に「ゆういち」というシステムが二つ存在することのバグを回避するため、我々は明確なルーティング(経路制御)を設定した。
私が「ゆういち」と呼べば、十四歳の兄が振り向く。
私が「ゆう」と呼べば、六歳の弟が振り向く。
由里子の場合は、「ゆういち」と「ゆう君」だ。
このルールを徹底することで、手狭なマンションの中での情報伝達のエラーは見事に解消されていた。
「でも、外に出たら気をつけてよ。四月から小学校に行ったら、こいつは『勇一』なんだからな」
私が念を押すと、ゆうはチキンを飲み込んでから、元気よく返事をした。
「うん! 僕、おそとでは『勇一』だもん! おじさんとのミッションだもんね!」
「家の中ではパパでいいって言ってるだろ。まあ、設定の切り替えが早いのは助かるがな」
私は苦笑した。彼は役所や病院といった「外部の人間」の目が介入する場所でのみ、私のことを「おじさん」と呼ぶ。その六歳児離れした適応力は、純粋に「男同士の秘密のゲーム」を楽しんでいるからこそ発揮されるものだろう。
食事が一段落すると、リビングの空気は途端に重苦しいものへと変わった。
十八年物の液晶テレビが、昼のワイドショーからクイズ番組へと切り替わる。その音声に合わせて、由里子の顔つきが「甘やかすおばあちゃん」から、「受験生の母親」へとスウィッチ(切り替え)されたのだ。
「さて、ゆういち。ご飯も食べたことだし、塾の春期講習の宿題、終わってるの?」
由里子の声が、ワントーン低くなった。
ソファに寝転がってスマートフォンをいじり始めていたゆういちの肩が、ピクッと跳ねる。
「……やってるよ。今からやるとこ」
「昨日もそう言って、結局夜中までスマホ見てたでしょ。四月から中三なのよ? 成績だって上の下で止まったままで、このままじゃ第一志望の高校なんて絶対に無理よ。今しっかり基礎を固めないと、後で泣きを見るのはあんたなんだからね」
出た。手狭なマンションにおける、逃げ場のない定期イベントだ。
物理的な距離が近すぎるため、由里子の小言は隣の部屋に逃げ込んでも壁をすり抜けてあいつの鼓膜に届いてしまう。
「わかってるって言ってんじゃん! 母さんはすぐそうやってプレッシャーかけてくんだよ!」
ゆういちがソファから跳ね起き、声を荒らげた。
「どうせ俺には、上の高校なんて無理なんだよ。頭良くねーし、今から頑張ったって無駄だ。ランク下げりゃ入れるとこあるだろ。だからほっといてくれよ!」
セルフ・ハンディキャッピング。
あらかじめ「自分には無理だ」と予防線を張り、失敗した時の自尊心のダメージを最小限に抑えようとする防衛本能。吹奏楽のソロでも、受験勉強でも、彼は少しでもハードルが上がるとすぐにこの分厚い装甲の内側に逃げ込もうとする。
「最初から諦めてどうするの! やってもいないのに無理なんて言わないの!」
由里子も引かない。リビングの空気が、一気にピンと張り詰める。
私が「まあまあ、二人とも……」と介入のための設計図を引きかけようとした、その時だった。
「おっきいお兄ちゃん!」
ローテーブルでトミカを走らせていた六歳のゆうが、二人の間に割って入った。
彼は小さな両手を腰に当て、十四歳のゆういちを真っ直ぐに見上げていた。
「お兄ちゃん、無理じゃないよ! だって、ラッパすっごく上手だったもん! かっこよかったもん!」
高く澄んだ、六歳児の純粋な声が、険悪な空気を一刀両断にした。
「僕ね、おそとで『おじさん』って呼ぶの、最初ドキドキしたけど、ちゃんとできたよ! ミッション、クリアできたよ! だから、お兄ちゃんもできるよ!」
ゆういちは、ポカンとして目の前の小さな自分を見下ろした。
「……は? いや、お前のそれと、俺の受験は全然違うし……」
「ちがわない! 僕も、お兄ちゃんも、赤いランドセルのリーダーだもん! ぜったい、できる!」
根拠のない、だが無条件の肯定。
他人の目など気にせず、自分の「好き」を貫いて真っ赤なランドセルを選び取った六歳の自分からの、一点の曇りもないエール。
ゆういちは、反抗期の棘をどこへ向けていいかわからなくなったように、バツが悪そうに頭を掻き毟った。
「……あー、もう。わかったよ、やればいいんだろ、やれば! ほら、リビングだとこいつがうるせーから、部屋でやる!」
ゆういちは自分のカバンからテキストとノートを引っ張り出し、逃げるように自室へと引っ込んでいった。バタン、とドアが閉まる音がする。
だが、その足取りは、いつものように不貞腐れてシャットダウンする時のものではなく、どこか前向きなアイドリングの回転音が聞こえるような気がした。
「……なんなのよ、もう」
由里子が毒気を抜かれたようにため息をつき、ダイニングチェアに座り込んだ。
「お前が百回ガミガミ言うより、過去の自分からの無邪気な一言の方が、あいつの装甲を貫通するらしいな」
私がコーヒーをすすりながら言うと、由里子は「そうみたいね」と苦笑した。
「パパ、パパ! お兄ちゃん、お勉強しに行ったね。じゃあ、僕とカブトムシのゲームしよ!」
ゆうが、『蟲神器』のカードの束を両手で抱えて私の膝によじ登ってきた。
「おお、いいぞ。手加減なしの真剣勝負だ」
「ヤッター!」
手狭なマンションのリビング。
壁一枚隔てた隣の部屋からは、ゆういちがシャーペンを紙に走らせる微かな音が聞こえてくる。
目の前には、百円のカードゲームに目を輝かせる六歳の息子と、それを見守る妻がいる。
部屋の隅で十八年働き続けている液晶テレビが、今日も変わらぬ日常の音を垂れ流している。
新規変数「ゆう」の代入によって、我が家のシステムは一時的な混乱をきたすかと思われたが、予想に反して、不条理なバグは見事なバランスを保ちながら安定稼働を始めようとしていた。
入学式まで、あとわずか。
私は手元のカードを引きながら、この奇妙で愛おしい日常が、少しでも長く続くことを心のどこかで願ってしまっている自分に気づいていた。




