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第4話 システムのハッキング

手狭なマンションでの生活にはすっかり慣れたが、役所のひどく乾燥した空気と、無機質な蛍光灯の光にはいつまで経っても慣れない。

三月下旬の市役所は、引っ越しシーズンということもあってかなりの混雑を見せていた。番号札を引き、プラスチックの硬いベンチで待つこと一時間あまり。ようやく窓口に呼ばれた私は、パイプ椅子に腰を下ろし、担当の若い男性職員と対峙していた。

隣には、私のコートの裾を握りしめた六歳のゆうが、退屈そうに足をぶらぶらさせている。彼はここへ来る前、「静かに座ってパパの言うことを聞いていられたら、帰りにコンビニでチョコを買ってやる」という極めて実務的な契約を結んでいるため、今のところ見事な沈黙を保っていた。

「親族間で少々複雑な事情がありましてね。結論から言うと、この子の前住所を示す住民票も、これまでの記録を記した母子手帳も、当方にはありません」

私は、クライアントに新しい図面のプレゼンをする時のように、よどみなく落ち着いた声で口火を切った。

若い職員は困惑したように、手元のバインダーと私の顔を交互に見た。

「住民票がない、と言いますと……。海外から帰国されたとか、そういったご事情でしょうか?」

「いえ。国内です。由里子――私の妻ですが、彼女の遠縁にあたる親族が、深刻なDV被害から逃れるために長年各地を転々としておりまして。居場所を夫に知られないために、この子を『無戸籍』のまま育てていたんです」

無戸籍。その単語を出した瞬間、窓口の空気が微かに張り詰めた。職員のタイピングの手がピタリと止まる。

日本の行政システムにおいて、「イレギュラー」は最も敬遠されるエラーだ。

「無戸籍……ですか。それは、私どもの窓口だけで処理できる案件ではありません。原則として、戸籍がない児童が居住している事実が判明した場合、児童相談所や警察とも連携を取りまして――」

「ええ、そのセオリーは理解しています。ですが、無闇に事を荒立てては、逃げている親族の安全にも関わります。現在、母親は心身の不調で身を隠しておりまして、やむを得ず当方が一時的な『監護者』として保護している状態です。当然、法的な手続きは並行して進めていますよ」

私は職員の目を見て、少しだけ声のトーンを落とした。ハッキングの第一段階だ。

「すでに、当方の弁護士を通じて、家庭裁判所に『就籍』――つまり、新たに戸籍を作る手続きの申し立てを準備しているところです。ですから、警察などの強硬な介入は不要です。今、我々が直面している最大の問題は、この子が四月から小学生になる年齢だということなんです」

私は手元の書類を指先でトントンと叩いた。

「児童の『教育を受ける権利』は、戸籍や住民票の有無よりも優先されるはずです。文部科学省の通達にも、無戸籍の児童であっても、現にそこに居住している実態があれば、教育委員会判断で仮就学が可能であると明記されている。違いますか?」

職員は完全に圧倒されていた。

役所のシステムは、「前例がない」「マニュアルにない」事態に対してはひどく脆弱で、思考停止に陥りやすい。だが、行政は同時に「訴訟リスク」や「重大な権利侵害」を極端に恐れる。

「弁護士」「家庭裁判所」「DV案件」という強力なキーワード(ファイアウォール)を提示してやれば、彼らは「自分の責任で止めるべき事案ではない」と判断し、特例処理のルートを開かざるを得なくなるのだ。

「と、とりあえず、四月からの就学を最優先としたい、ということですね。ですが、就籍の手続きが終わるまでは住民票も作れませんし……」

「順番が逆です」

私は図面の構造を説明するように、指を一本立てた。

「まず、居住実態を確認していただき、『仮就学』の手続きを進める。次に、その就学と居住の実態をもって、自治体の職権で『住民票』を作成していただく。そして最終的に、それらの公的記録を証拠として家裁で『戸籍(就籍)』を作る。この『就学→住民票→戸籍』という順番でも、行政処理は論理的に成立するはずです」

職員は額に汗を浮かべ、奥のデスクにいる上司らしき人物の元へ駆け出していった。

しばらくして、年配の職員と、もう一人――私服姿の険しい顔をした女性が連れ立って現れた。別室の相談室に案内される。

「児童相談所の者です」

女性は名刺を差し出し、鋭い視線で私とゆうを値踏みした。

来たな、と思った。DVや無戸籍というワードを出した以上、児童相談所の介入は避けられない必須イベントだ。

「事情は伺いました。ですが、身元が不確定な児童です。最悪の場合、誘拐や人身売買の可能性も考慮しなければなりません。まずは一時保護所でお預かりし、安全を確保した上で調査を進めるのが――」

「それは困ります」

私は即座に、しかし冷静に切り返した。

「この子は四月から一年生になるのを楽しみにしています。ランドセルも買いました。彼が自分で選んだ、真っ赤なランドセルです。入学式を目前に控えたこの時期に、見知らぬ施設へ隔離することが、児童の心理にどれほどのダメージを与えるか、専門家であるあなたならお分かりでしょう?」

児相の職員は眉をひそめた。

「しかし、あなたが本当に適切な監護者であるという保証はどこにも……健康診断の記録や、母子手帳すらない状態では」

「不足している前住所の記録や母子手帳の代わりなら、誓約書でも理由書でも、必要なものは何枚でも書きますよ。そして、健康状態の保証ならあります」

私はクリアファイルから、近所の小児科で自費で受けさせておいたあの書類を滑り出させた。

「抗体検査の診断書です」

「抗体検査?」

「ええ。無戸籍で母子手帳もなく、予防接種を受けられていなかったため、我々が引き取ってすぐに自費で血液検査を受けさせました。必要な抗体はすべて基準値以上。医学的に見て、ワクチン接種と同等の免疫を獲得しているという確固たる証明エビデンスです。同時に、我々がこの子の医療と健康に責任を持ち、適切な監護を行っている証拠でもあります」

医師の直筆サインとハンコが押された診断書。

どんな行政の疑念も、医師の医学的証明の前ではひれ伏すしかない。過去のおかあさんが完璧なスケジュール管理で受けさせていた予防接種の履歴が、八年の時を超え、強固な盾となって現在の我々を守ってくれたのだ。

「それに、我々は逃げも隠れもしません。もし心配なら、家庭訪問による定期的な見守りをしていただいて構いません。むしろ、第三者の目が入ることは、我々にとっても彼が安全に暮らしている証明になりますから歓迎しますよ」

「保護」ではなく「見守り」。

これが私の引いた落とし所だった。児相としても、抗体検査まで自費で受けさせ、弁護士を立てて就籍手続き(という建前)を進めている家庭から、強引に子供を引き剥がす法的根拠は薄い。ましてや「定期的な家庭訪問を受け入れる」と明言しているのだ。

児相の女性職員は診断書をじっくりと読み込み、やがて小さくため息をついた。

「……わかりました。弁護士の先生が介入されており、医療面でのケアも行き届いているとなれば、今すぐ緊急保護を要する事案ではないと判断します。ただし、月に二回程度、当方の担当者が家庭訪問に伺います。よろしいですね?」

「ええ、喜んで。妻も喜びます」

私は心の中で、完璧な設計図が組み上がった音を聞いた。

児相の「見守り対象」になったということは、裏を返せば、行政機関が「この子が我々の元で暮らしている事実を公的に認めた」ということだ。これで、この二〇二八年の世界において、勇一という六歳の少年は「無戸籍だが現に居住し、就学を待つ児童」として完全に定義されたのだ。

仮就学の手続きを終え、不足書類の代替となる大量の理由書と誓約書にサインをして、ようやく市役所を出た。

「おじさん、チョコ!」

自動ドアを抜けた瞬間、私のコートを引っ張ってゆうが言った。彼は市役所にいる間「おじさん」と呼ぶミッションを完璧にこなしていた。

「ああ、よく頑張った。偉いぞ、ゆう。ミッション・コンプリートだ。もうパパと呼んでいいぞ」

私は彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

コンビニで一番高いチョコレートの詰め合わせを買い与え、自転車に乗せて手狭なマンションへ帰還する。

「ただいま」

重い鉄扉を開けると、キッチンから由里子が顔を出した。

「おかえりなさい、お父さん。どうだった? 警察呼ばれなかった?」

「図面通りだ。行政システムへのハッキングは完了した」

私は役所でもらってきた、仮就学許可の書類をダイニングテーブルに置いた。

「児相の介入も『定期的な見守り』というステータスに抑え込んだ。月に何度か人が来るが、おかあさんはただ『親戚の子を預かって一生懸命育てている主婦』を演じればいい。これでまずは四月からの小学校入学が確定した」

「よかったぁ……!」

由里子は書類を見つめ、深く息を吐き出して胸を撫で下ろした。

「ママ! 僕、お利口にしてたからパパにチョコ買ってもらったの!」

ゆうが靴を脱ぎ捨ててリビングへ駆け込む。

「あらー、ゆう君、頑張ったわねぇ。偉い偉い!」

由里子は甘ったるい声を出して、ゆうを抱きしめた。普段の融通の利かないミニマリストの面影はどこへやら、すっかりデレデレである。

奥の部屋から、新中三のゆういちが顔を出した。

「何、市役所行ってきたの? バレなかった?」

「ああ。こいつは四月から晴れてお前の後輩だ。まあ、学校は違うがな」

「父さん、マジで詐欺師になれんじゃねぇの」

十四歳のゆういちは呆れたように言いながら、テーブルの上のチョコレートに手を伸ばした。

「ああっ、だめ! 僕のチョコ!」

ゆうが怒ってゆういちの足にポカポカとパンチを見舞う。

「いいじゃんか、一個くらい。減るもんじゃねぇし」

「お兄ちゃんのいじわる! ママぁ!」

「こら、ゆういち! ゆう君のチョコ取らないの。あんた受験生でしょ、もっとお兄ちゃんらしくしなさい!」

「はあ? 受験生だから糖分が必要なんだよ。母さんはすぐそうやってガミガミ言うし……」

手狭なマンションのリビングに、八年の時を隔てた同一人物たちの、不条理で賑やかな口論が響き渡る。

部屋の隅では、十八年物の液晶テレビが、相変わらず呑気な夕方のニュースを映し出していた。

私はコーヒーを淹れながら、窓の外の景色を見た。

公的なバグは修正した。外装も整った。

これで「親戚の勇一」は、この時代に根を下ろすための基礎工事を終えたのだ。

設計士の不条理な一ヶ月は、いよいよ彼をシステムに本格稼働させるフェーズへと移行しようとしていた。

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