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第3話 外装パーツの調達

マンションの駐輪場から電動アシスト自転車を引っ張り出し、駅前の大型ショッピングモールへとペダルを漕ぎ出した。

三月の朝の空気はまだ冷たいが、都心部の平坦なアスファルトを滑るように走るのは悪くない。かつて住んでいた郊外の戸建てなら、車を出して渋滞に巻き込まれながら郊外型の大型店に向かうところだが、今は自転車で五分も走れば何でも揃う。この立地のコンパクトさは、こういう緊急のバグ対応時には身に染みてありがたい。

モールの開店と同時にファストファッションのフロアに突撃し、身長百十センチから百二十センチ用の男児服を手当たり次第に買い物カゴへ放り込んだ。

下着のパンツ、靴下、無地の長ズボン、スウェット、薄手のウィンドブレーカー。ついでにマジックテープ式のスニーカーも一足。八年前、私が四十代の初めに息子の服を買っていた頃と現在の子供服のトレンドがどう変わっているのかなんて知ったことではない。設計図面において重要なのは装飾ではなく、機能と規格の適合だ。彼がこの二〇二六年の世界において「物理的な違和感」を発散させないための最低限の外装を、私はものの十分で調達し終えた。

ついでに一階のフードコートに寄り、マクドナルドでハッピーセットを一つと、私とおかあさん用のハンバーガーをテイクアウトした。約束は守る主義だ。それに、非日常のストレスにはジャンクフードの油がよく効く。

両手にビニール袋を提げてマンションの我が家に戻ると、手狭な玄関の奥から、古い液晶テレビが発する情報番組の音声と、甲高い歓声が聞こえてきた。

「ただいま。約束のブツだぞ」

私がリビングの引き戸を開けると、ローテーブルの前に座っていた六歳の彼が「マックだ!」と跳ね起きた。

「あっ、パパおかえり! ハッピーセットのおもちゃ、何かなあ」

「まずは着替えだ。トミカのパジャマのままポテトを食ったら、おかあさんに速攻で捨てられるぞ」

部屋の隅で、由里子が腕を組んで立っていた。十四歳のゆういちは予定通り、部活の朝練に出かけた後らしく姿はない。

「早かったわね、お父さん」

「外観のスペック合わせだ。悩んでいる暇はない」

私は買ってきたばかりの服の束をソファにドサリと置き、タグをハサミで切り落とし始めた。

由里子は無言で彼のパジャマを脱がせ、新しい下着と長ズボン、そして無地のグレーのスウェットを着せた。サイズはやや大きめで、袖口が手の甲を半分ほど覆っていたが、許容範囲内の公差だった。これで少なくとも、ベランダ越しに近所の住人に見られたとしても、「季節感のない古いパジャマを着た異常な子供」として検知されるリスクは回避できる。

「どうだ、苦しくないか」

私が尋ねると、彼はスウェットの腹のあたりをポンポンと叩いて見せた。

「うん、ぴったり! ねえ、ポテト食べていい?」

「ああ、食え食え。ケチャップはこぼすなよ」

彼がハッピーセットの箱に夢中になっている隙に、私は由里子とダイニングテーブルに向かい合い、買ってきたコーヒーをすすった。

「あらあら、ゆう君、お口の周りにケチャップついてるわよ」

由里子がウェットティッシュを抜き出し、彼の口元を優しく拭ってやっている。その声のトーンは、中三のゆういちに「勉強しなさい!」と怒鳴っている時のそれとは別人のように甘かった。徹底したミニマリストであり、融通の利かない真面目な彼女だが、八年ぶりに目の前に現れた「六歳の無邪気な息子」の破壊力には抗えなかったらしい。すっかり母性本能をハッキングされ、デレデレになっている。

「さて、設定の構築の続きだ、おかあさん」

私はスマートフォンをテーブルに置き、由里子を見た。

「当面の外装はアップデートできた。無戸籍という設定で役所の追及を躱すロジックも組んだ。だが、生活していく上で大きな問題が一つある。名前だ」

「ゆういち、でしょ? それがどうかしたの?」

「同一世帯に、同じ漢字、同じ読みの人間が二人いる状態は、公的なデータベース上で極めて不自然なエラーを引き起こす。何より、おかあさんが『ゆういち!』と呼んだら、中三のゆういちも六歳のこいつも両方振り向いて、日常の動作にバグが生じるだろう。アイデンティティの完全な分離が必要だ。同一のソースコードから派生したプログラムであっても、別の変数名を割り当てなければシステムはクラッシュする」

私は裏紙に「裕一」という文字を書き、その横に大きくバツ印をつけた。

「読みは変えられない。彼は自分が『ゆういち』だと認識しているからな。だが、漢字は変える」

私は裏紙の新しい行に、力強く文字を書き込んだ。

「『勇一』だ。勇気の勇、一、二、三の一」

「……勇一」

由里子がその文字を声に出して読んだ。

「そうだ。書類上は、彼は『勇一』になる。これで、彼は過去のゆういちのコピーではなく、この時代において独立した一個の存在として定義される。だが、これだけじゃ足りない」

「どういうこと?」

「家の中での独自のプロトコル(通信規約)を設定する」

私はペンを置き、ハッピーセットのポテトを口いっぱいに頬張っている彼を呼んだ。

「おい。お腹いっぱいになったか? ちょっとこっちへ来てくれ」

彼は指を舐めながら、のそのそと立ち上がって私のそばへやってきた。

「いいか、よく聞けよ。秘密のミッションの続きだ」

私は彼の目線に合わせて身をかがめ、小さな両肩を掴んだ。

「おっきいお兄ちゃんも『ゆういち』だろ? 全く同じだと、ママがどっちを呼んだかわからなくて困る」

「うん」

「だから、お前は今日から、この『勇』という字を書く『勇一』だ。そして、家の中では、パパはお前のことを『ゆう』って呼ぶ。ママは『ゆう君』だ。外に出た時や、これから行く小学校、新しいお友達には、自分は『ゆういち』だって名乗っていい。でも家の中では『ゆう』だ。わかったか? これは男同士の重要なミッションだぞ」

彼は裏紙の文字をじっと見つめ、それから私の顔を見た。

「おうちのなかでは、僕、ゆう?」

「そうだ。お前は、強くて勇気のある『ゆう』だ」

「……うん、わかった! 僕、勇気のゆう!」

彼は無邪気に笑い、私の膝に抱きついてきた。小さな頭から、市販の子供用シャンプーの甘い匂いがした。八年前に私がよく嗅いでいた、記憶の奥底にある匂い。

彼を「過去の息子」としてではなく、今ここに存在する「別の子供」として社会に登録する。それは、私自身が過去の記憶を強制的に上書きし、この突如現れた小さな分身を受け入れるという覚悟の儀式でもあった。

「偉いわね、ゆう君。お利口さん」

由里子が目を細め、ゆうの柔らかい髪を撫でた。完全にデレている。

「よし、名前の再定義は完了した。次は、役所のシステムをハッキングするための切りエビデンスの取得だ」

「切り札?」由里子が怪訝な顔をする。

「そうだ。おかあさんも気になっていただろ? 無戸籍という設定にする以上、『病院にかかっていないから予防接種も受けていない』という論理になる。だが、小学校に入学するにあたって、麻疹や風疹の接種記録がないと学校側もすんなり受け入れてくれない」

「ええ。中三のゆういちの時は、私がきっちりスケジュール管理して受けさせたから漏れはなかったけど……この子、母子手帳もないのにどう証明するの?」

「口頭での説明が通じないなら、誰もが納得する医学的な証拠を出せばいい」

私はボールペンで裏紙の真ん中を強く叩いた。

「抗体検査だ」

「……抗体検査?」

「ああ。今のゆう……つまり八年前のあいつは、六歳までに必要な予防接種をすべて終えているはずだ。だから、近所の小児科へ行って、自費で血液検査を受けさせるんだ。血液を調べれば、『抗体がある=過去にワクチンを接種済み』という確固たる医学的証明が出る。医者にその結果を一筆書いてもらい、それを役所に持っていく。そうすれば役所も文句は言えない」

由里子は目を丸くした。

「……なるほど。無戸籍で予防接種を受けさせてやれなかった親戚の代わりに、監護者である私たちが自費で検査をして安全を証明する、ってわけね。お父さん、本当に……詐欺師になれるわよ」

「設計士の不具合修正スキルと言ってくれ」

方針は固まった。私はソファで毛布にくるまっているゆうに声をかけた。

「おーい、ゆう。ちょっとお出かけするぞ」

「どこ行くの? マック?」

「マックはさっき食っただろ。今日は病院だ。ちょっとお医者さんに診てもらう」

「えーっ! びょういん、やだ!」

六歳児にとって、病院という単語は「注射」と同義だ。彼は即座にソファのクッションに顔を埋め、見事な拒否の姿勢を見せた。

「パパ、痛いことしない?」

「痛くない痛くない、ちょっと血を採るだけだ」

「血をとるの!? やだ! 僕、ぜったいやだ!」

彼は足をバタバタさせて抵抗を始めた。私は苦笑しながら、彼の小さな体をひょいと抱き上げた。相変わらず、私の腰のあたりにすっぽり収まる質量だ。

「いいか、ゆう。これは『勇気』のミッションなんだ。新しい学校に行くためには、お前が強いカブトムシみたいに健康だってことを、お医者さんに証明してもらわなきゃならない。もし泣かずに頑張れたら……今日の夜は、焼肉だ」

「やきにく……!」

ゆうの動きがピタリと止まった。新中三のゆういちもそうだが、あいつらのDNAには焼肉への異常な執着が組み込まれているらしい。

「本当? カルビ食べる?」

「ああ、カルビでもロースでも好きなだけ食わせてやる。ただし、泣いたら白ご飯にふりかけだけだぞ」

「泣かない! 僕、強いもん!」

マンションから自転車で十分ほどの距離にある小児科の待合室は、春の風邪引きの子供たちでそこそこ混雑していた。

「親戚の子を預かったが、事情があって無戸籍で予防接種の履歴が不明なため、就学に向けて抗体検査をしてほしい」という私の説明に、初老の小児科医は少し驚いたような顔をしたが、深くは追及してこなかった。

診察室で、看護師がゆうの細い腕にゴムバンドを巻いた。

ゆうは私の膝の上に座り、私のスウェットの腹のあたりを両手でぎゅっと握りしめている。

「やきにく、やきにく……カルビ……」

呪文のように呟き続ける彼を見守りながら、無事に採血は終わった。数日後、見事にすべての抗体が基準値をクリアしているという診断書を手に入れたのだった。

   *

そしてその日の午後。

市役所での本丸の手続きを後日に控え、もう一つクリアしなければならない外装の調達があった。

「ちょっと、お父さん。わかってるわよね?」

由里子が腕を組んで仁王立ちになった。

「もう入学式まで一ヶ月を切ってるのよ。ゆう君のランドセル、まだ買ってないじゃない。上のゆういちの時は、前の年の夏には展示会に行って、紺色のランドセルを予約して買っていたのよ」

「いわゆる『ラン活』ってやつか。そうだったな。だが、今回は緊急の密航だ。自転車で駅前の百貨店に行って、在庫があるものの中から適当に見繕うしかない」

私は再び電動アシスト自転車を引っ張り出し、私と由里子、そして私の自転車の後ろにゆうを乗せて、駅前の百貨店へと向かった。

百貨店の子供服・学用品フロアのランドセル売り場は、時期が時期だけに品揃えはかなり少なくなっていた。「現品限り」のポップが目立つ。

「いらっしゃいませ。新一年生ですか?」

ベテランらしき女性店員が、愛想よく声をかけてきた。

私は「急に親戚の子を預かることになりまして」という設定をよどみなく出力し、在庫を見せてもらった。

「今ですと、どうしてもお色が限られてしまいますが……男の子さんでしたら、こちらの黒や、濃いネイビーあたりが定番で人気ですよ」

店員が案内してくれた棚には、無難な色のランドセルがいくつか並んでいた。

「そうね、やっぱり男の子は紺色よね。上のゆういちの時も、たしかこのくらいの濃い紺色だったわ。汚れも目立たないし、無難が一番よ」

由里子が黒に近いネイビーのランドセルを手に取り、納得したように頷いた。

おかあさんの頭の中には、「過去のゆういち」のデータという明確な正解が存在している。八年前、確かにゆういちは紺色のランドセルを選んだ(由里子の誘導もあったが)。だから、同じ顔をしたこの子も、紺色を選ぶのが当然だと思っているのだ。

「ほら、ゆう君。これ、かっこいいわよ。背負ってみる?」

由里子が紺色のランドセルを差し出すと、ゆうはじっとそれを見つめ、そして首を横に振った。

「え? 嫌なの?」

「ちがう。僕、あれがいい!」

ゆうが小さな指をピンと伸ばして指し示した先。

そこには、女の子用のパステルカラーのランドセルに混じって、ぽつんと一つだけ置かれていた、鮮やかな「真紅」のランドセルがあった。

「……赤?」

由里子は目を丸くした。

店員も少し困ったような笑顔を浮かべた。

「あちらは……基本的には女の子向けのデザインになりますが、最近はジェンダーレスの時代ですので、男の子でも赤を選ばれる方はゼロではありません。ただ、珍しいケースではありますね」

「赤なんて駄目よ。小学校で男の子が赤いランドセルなんて背負ってたら、絶対からかわれるわ。いじめの原因になったらどうするの」

由里子は即座に却下しようとした。彼女の危機管理センサーが、社会的なノイズを検知してアラートを鳴らしているのだ。

だが、ゆうは赤いランドセルの前までタタタッと走っていき、その艶やかな表面を撫でた。

「僕、これがいい! だって、レッドはリーダーの色だもん! カブトムシだって、赤くてかっこいいんだよ!」

どうやら彼の頭の中では、戦隊モノのリーダーと蟲神器のカードが奇妙にリンクしているらしい。

「でもね、ゆう君。男の子は黒か紺が普通なのよ。上のゆういちだって、赤なんて絶対選ばなかったのに……」

「それは、あいつが『裕一』だからだ」

私は由里子の言葉を遮り、静かに言った。

「こいつは『裕一』じゃない。俺たちが名付けた、『勇一』だ」

由里子はハッとして、私と、鏡の前で赤いランドセルを背負ってポーズを決めるゆうを交互に見た。

そうだ。私が模型を作る時、説明書の指定色を無視して自分の好きな色で塗装することがあるように。システムは同じでも、入力される変数が違えば出力される色は変わる。

こいつは、八年前のゆういちの単なるリプレイではない。この二〇二六年の世界で、全く違う変数を代入され、彼自身の意思で新しい未来の図面を描き始めようとしている「独立した一個の存在」なのだ。

彼に「過去の裕一」のレールをなぞらせることは、何の意味も持たない。

「これにする」

私は店員に向かって、きっぱりと言い放った。

「お父さんって人は……。もし学校でからかわれて泣いて帰ってきても、私は知らないからね」

由里子は深いため息をついたが、それ以上は反対しなかった。

   *

マンションに帰り着くと、ゆうは買ってもらったばかりの赤いランドセルを背負って狭いリビングをドタドタと走り回り始めた。部屋の隅では、十八年物の液晶テレビが、昼のワイドショーを呑気に垂れ流している。

「ゆう君、テレビにぶつからないようにね。ほら、お茶飲む?」

由里子が麦茶を差し出しながら、やっぱりどこか嬉しそうにしている。

玄関の重い鉄扉が開く音がして、部活から帰ってきた新中三のゆういちがリビングに顔を出した。

彼は首からタオルを下げ、トランペットのハードケースを床にドサッと置いた。

「ただいまー……って、うわっ、何それ」

ゆういちの目が、リビングの真ん中で赤いランドセルを背負ってドヤ顔を決めている六歳の「自分」に釘付けになった。

「おっきいお兄ちゃん、見て! 僕のランドセル!」

ゆうが胸を張る。

「……は? 赤? お前、男で赤とかマジかよ。罰ゲームか? 俺、絶対そんな色選んでないぞ」

十四歳のゆういちは信じられないものを見るような顔で、私の方を振り返った。

「お前はな。だが、こいつは自分でこれがいいって言い張ったんだ。お前と違って、周りの目より自分の『好き』を優先できる立派な仕様みたいだぞ」

私が言うと、ゆういちはバツが悪そうに「意味わかんねぇ」と呆れたように息を吐き、自室へと向かった。

だが、その背中はどこか、自分とは全く違う選択を平然とやってのけた「過去の自分」に対して、奇妙な動揺を見せているように思えた。

同じ遺伝子、同じソースコードから出発したはずの二つのプログラムが、今、この手狭なマンションのリビングで完全に別の軌道を描き始めている。

艤装のための外装パーツは、すべて揃った。

次は、いよいよ役所という巨大なシステムへのハッキングだ。私は抗体検査を受ける手はずを整えながら、次なる図面の展開に思考を巡らせた。

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